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夢十夜―慥かな、とてつもなく慥かな

 “夢”(ゆめ)という語には、ロマンチックな趣の想像とは裏腹に、恐怖体験を俄に想起させる二重の意味が隠されている。
 考えてみれば私自身、“夢”という語を創作上、それこそ何度も使い回ししているが、過去においてはっきり国語辞典でこの“夢”という語を調べた記憶がない。あまりにも熟知している、自分でよく分かっていると思ってしまう日本語は、案外国語辞典でどんな解釈になっているか、改めて調べようという気にはならないものだ。ということで『大辞林』で“夢”を調べてみた。

《①睡眠時に生じる、ある程度の一貫性をもった幻覚体験。多くの場合、視覚像で現れ、聴覚・触覚を伴うこともある。非現実的な内容である場合が多いが、夢を見ている当人には切迫した現実性を帯びている。
②将来実現させたいと心の中に思い描いている願い。
③現実を離れた甘美な状態。
④現実とかけはなれた考え。実現の可能性のない空想。
⑤心の迷い。迷夢。
⑥はかない物事。不確かな事》
(三省堂『大辞林』第三版より引用)

 “寝目”(いめ)というのが語源らしい。見た夢の話題でよく「カラーだったか白黒だったか」と問答することがあるが、私はどうも最近、眠っている最中の夢で鮮やかな色彩を感じたことがない(若い頃、壁一面真っ赤な部屋に拉致された夢を見たことがある)。それが白黒なのかどうかさえも分からない。歳をとっていくと、筋も風景もはっきりしないぼんやりとした夢を見ることが多いのだろうか。

 聴覚的な夢というのも年々見ることがなくなっている気がする。夢に登場する人物らは、会話をしないで無言でいる。それこそぼんやりとしている。さらに触覚的な夢というのは、若い頃から通じて、ほとんど見た経験がない。熱いとか冷たいとか、何か気持ちの悪いものを触ったというような夢は、なかったと思う。覚えていないだけかもしれない。
 何より私は、10代の頃はともかく、自分が見た夢を真剣に考える、議論するという傾向が乏しく、フロイトの精神分析とか夢占いとか、自分の夢を分析して何かを得ようという好奇心が薄い。大方、見た夢を笑い話の種にして団らんを和ませ、1日経てばその夢の内容をすっかり忘れてしまう。

*

 だから近頃、“夢”と聞くと自分が見た夢よりも、漱石の『夢十夜』の中の夢の内容の方がはっきりと、思い出される。

3月7日付朝日新聞朝刊より
 去る3月7日付の朝日新聞朝刊で漱石の『夢十夜』の連載が始まる云々の告知及び解説があった。1908年(明治41年)7月25日から8月5日まで、10回にわたって同新聞に連載されたという。『こころ』や『吾輩は猫である』と比べると、『夢十夜』はかなりこぢんまりとした作品である。この春、神奈川近代文学館でも漱石の特別展が催され、個人的には楽しみの多い春である。

 さて、漱石が企てたこの創作夢全10話は、まさに国語辞典で挙げられた6項目の分類をすべて網羅していることに私は気づいた。漱石は夢を題材にしてぽつりぽつりと暗に語っているのでなく、夢の解釈の全容をしっかり把握した上で小説として綴っていることが分かる(『倫敦塔』も夢物語といえばそうなのだが、文学的芳香と奥行きの点で違う)。
 すなわちそれらは幻覚体験談であり、将来実現を期待する願いであり、甘美や空想のたぐい、心の迷い、自身の死滅さえも予見した夢もあって、むしろ『夢十夜』の作風こそが、近代以降における現代人の“夢”の定義を為しているかにも思えてくる。

 『夢十夜』の中で、私が好きな話は、第一夜、第三夜、第七夜である。

 第七夜は、異人たちが乗っている大きな船で死を決心し、甲板から海へ飛び込む夢。海へ飛び込んだ途端、急に命が惜しくなった、というのが感極まる。飛び込んで海へ落ちるほんの僅かな瞬間(1秒か2秒か)に、よせばよかったと後悔する。
 一瞬のことなのに、なかなか海に落ちない。何かに捕まるものはないかと考える余裕すらある。しかも描写が実に非物理的で奇妙なのである。海へ落ちていく瞬間に、乗っていた船が黒い煙を吐いて、通り過ぎていくというのだ。
 落ちていく一瞬の間に、船が通り過ぎることなどあり得ない。しかし「通り過ぎていく」というのは、我が身と母胎とが切り離されたような感覚を表し、あれに乗っていればよかったと後悔の念の深さが窺える。その心境は誰しも経験することだ。

『四篇』単行本(レプリカ)
 そんな第七夜の夢であるが、文章をよく読んでみると、自殺の理由はどうも単純だ。
 異人の若い女がサロンでピアノを弾いている。その傍で背の高い男が歌を歌っている。恋人か夫婦であることが分かる。二人は二人の井の中で二人だけの幸福感を味わっている――。この姿を見た時、“自分”はつまらなくなった、という。
 それは結局、若い男女への嫉妬、自分もそうなりたいと願望があるがそうなれない敗北感に駆られた、ということか。総じてこの第七夜の夢は、“自分”もまだ若々しい感性が燃えたぎっていた側の人間であり、そうした若い頃の夢の断片、あるいはそれにもとづく創作夢であることが分かる。

 最後に余談だが、『夢十夜』の最終話=第十夜は、多分に漱石臭を漂わせ、描写の諧謔さの一言に尽きる。

 絶壁にいる男が細いステッキを使って、やって来る豚の鼻頭をぶち、何万匹も繰り返してどんどん豚を谷底へ落としていく光景。
 ある意味これは、西洋の宗教画にあるような地獄絵図である。もしこの光景を、イラストレーターの及川正通氏が描いたとしたら、相当ユニークなインパクトのある画になったと思う。
 ここでもやはり、男は好いた女のためにそれをやっているのだが、第一夜のような美しい幽玄性を帯びた妖艶なる世界とは違い、自分が谷底へ落ちて終わりにしない限り、ブヒブヒ延々と豚がやって来る動的世界の滑稽絵巻なのだから、Mr.BOO的で手に負えない。夢における反復性の恐怖が、慥(たし)かにある。とてつもなく慥かな――。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
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深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
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