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4月, 2016の投稿を表示しています

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酒と女と『洋酒天国』

今年に入って時折、シェリー酒なんていうのを飲んだけれど、その他はほぼ確実に、毎夜、ウイスキー一辺倒である。スコッチとアイリッシュである。スコッチは、シングルモルトのグレンリヴェットが美味かったし、いま飲み続けている12年物のザ・バルヴェニーも、スコッチならではのコクがあって美味い。思わず唸ってしまう。  アイリッシュはオールド・ブッシュミルズのブレンデッド。こちらはつい先日、空瓶になった。酒に関しては、日本酒の地酒よりもアイリッシュのラベルの方が親近感がある。おかげでここ最近は、サントリーのトリスも角瓶も遠のいてしまっていて、ジャパニーズ・ウイスキーを忘れてしまっている。あ? そう、かれこれしばらく飲んでいない「山崎」も「白州」の味も、もうてんで憶えちゃいないんだな、これが…。とここはひとまず、肴にもならぬウイスキー談義で嘯いておこう。
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 お待ちかね壽屋PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第4号は、昭和31年7月発行。表紙はお馴染み、坂根進氏作のフォト&イラストのコラージュ。  昭和31年(1956年)は、“太陽族”や“ゲイボーイ”といった言葉が流行った年である。ちなみに“太陽族”(タイヨウゾク)とは何のことでございましょう? もはや死語に近いと思われるので、語源について書いておく。  同年、第34回芥川賞を受賞した石原慎太郎の短篇小説『太陽の季節』が新潮社から刊行された。この短篇小説は大いに物議を醸した。そこから“太陽族”という言葉が生まれたのだけれど、ここでは敢えて、Wikipediaからその意を引用してみる。
《『太陽の季節』の芥川賞受賞を受けて『週刊東京』誌で行なわれた石原慎太郎と大宅壮一の対談で、大宅が「太陽族」との言葉を用いたことから、特に夏の海辺で無秩序な行動をとる享楽的な若者(慎太郎刈りにサングラス、アロハシャツの格好をしている不良集団)のことを指す言葉として流行語化した》 (Wikipedia“太陽の季節”より引用)
 “太陽族”のみならず、社会の乱れた風紀を取り締まる、という公安的気概が、この時代にはあった。時代の要請でもあった。私は溝口健二監督の遺作映画『赤線地帯』(主演は京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子)が好きである。あれも5月に公布された“売春防止法”に絡んだ話であった。この年の7月には、横山光輝の「鉄人28号」が月刊『少年』(…

いソノてルヲ先生―わが青春の日々

ジャズ評論家・いソノてルヲ先生のことについて書く。
 私の母校の千代田工科芸術専門学校、その芸術課程で発行していた学生文芸誌『どん』については昨年書いたことがある(当ブログ「千代田学園の学生文芸誌」参照)。この本を私は3冊所有していて、卒業名簿がてら、自分が卒業した年の号はたびたび読んではいた。が、ついこの前、何げなく自分が入学した年の号(第14号1991年春季特別号)を開いてみると、懐かしいいソノてルヲ先生の随筆が掲載されていることに気づいた。私は今の今まで、そんな作文があることを知らなかった。あるいはすっかり忘れていた。
 いずれにしても、そのいソノ先生の随筆を、私は初めて読んだのである。先生の思い出に関しては、5年前に綴っている(当ブログ「いソノてルヲ先生の思い出」「いソノてルヲ先生の思い出【補遺】」参照)。その時にはまったく分からなかった先生の個人的なエピソードを今回初めて知ることができた。何とかここで要約してみて、これを一つの備忘録としたい。
 随筆の題は「わが青春の日々」。まさにそこに先生の若い頃の経歴が書き綴られていた。まずあの頃、つまり私が千代田に通っていた頃の毎週月曜日の午前、先生の「アメリカン・ポップス」の講義授業があったわけだが、先生はその頃、母校の慶大の文学部へ非常勤講師として、毎週水曜の午後に、三田キャンパスに通っていたという。
 その傍ら先生は、ライオンズ・クラブの330-A地区ユース・エクスチェンジ委員長を務め、精力的な活動をおこなっていた。  もっと若い頃は、政治家を志し、慶大で政治心理学を学び、その片方でドラマーとして進駐軍のクラブをまわっていたらしい。そうしてトロンボーン奏者の河辺浩市先生と出会う。やがて先生はジャズの評論家となり、DJなどの活動では知らぬ者はいないほどの存在となった。
 先生はその随筆の中でこんなことを書いている。
《私の空腹感を救い、灰色のベールをはらいのけて光明をもたらしてくれたのはジャズであった。以来、私はジャズを信仰として愛し続けてきた。  ジャズはアフロ・アメリカンが創造した20世紀の新しい芸術である。神様はアメリカの白人と黒人が仲良くするようにと、ジャズとベース・ボールをアメリカ人に下さったのである》 (いソノてルヲ「わが青春の日々」より引用)
 1990年に東西ドイツが統一され、先生の政治的関…

『洋酒天国』とカルメン

もう私は圧倒的にウイスキー党だ。サントリー派(私はこれを燦鳥派と書きたい)。アメリカ産の銘酒。そしてスコッチとアイリッシュ。アイリッシュのまろやかさには正直参る。  ところがどうして、ちょっと暑さを感じればビール、身体が冷えていれば日本酒、野菜不足を感じれば焼酎のトマトジュース割り、野菜ジュース割りと方向転換することもしばしばある。これがかえってウイスキー党を保守する秘訣となる。ともかく私は、基本的にはウイスキーで日々、心身の清潔さを保つのだ。

 ヤケ酒というものを好まない。酒は愉しむべきものだから。そんな酒にまつわる人生訓を学んだのは、“ヨーテン”を嗜むようになってからかも知れない。“ヨーテン”には酒を通じた知的な享楽と調和が、常に明記されているように思われる。
 『洋酒天国』(洋酒天国社)第5号は昭和31年8月発行。表紙は坂根進氏によるイラスト混じりで、テーマは南京錠。それぞれの鍵が擬人化されていたりして、裏表紙のデザインを含めると、意味深な酒と女と鍵穴の機知に富んだ表紙だ。
 第5号で目を見張るのは、何と言っても見開きによる長沢節氏の線画。「銀座の女三態」。素描を意識した流麗なイラストは長沢氏の真骨頂であり、おそらくこれは30代後半の頃の画だと思う。長沢氏の線画は、美を素描するのではなく、まさに素描が美を生む瞬間をとらえている。現在でも長沢氏のイラストは人気が高い。ひょっとするとこの「銀座の女三態」は作品としては貴重な部類に入るのではないか。
 別のページ、造形画家・品川工氏の「酒と女とヒカリと」。  文章の中に“ヒカリの版画”とある。素材はカラー印画紙。この色鮮やかな抽象画がいかなる技法によって生まれたのか、まだ私は知り得ていない。しかしながら眺めていると吸い込まれるような魅惑がある。《ウィスキーの琥珀、ペパーミントの緑、チェリーブランデーの赤、ホワイトキュラソーの粘稠な透明》。《酒と女とヒカリの万華鏡》。『洋酒天国』で様々な作家を知り得るのは実に愉快なことだ。
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 さらに別のページでは、漫画家・横山泰三氏の写真がある。横山泰三と言えば、私が20代の頃、おそらく朝日新聞で眺めていたであろう一コマ漫画「社会戯評」が有名である。その作者の珍しい写真が「マドリードの街角で」。
 およそ「社会戯評」の画とはえらく寸法の違う写真であるが、酒をこよなく愛する男・…

見返り美人のこと

日本美術史において美人画の最高傑作というものが何であるか、私は知らない。考えたこともなかった。ただし近頃何故か、美人画と称される絵画に出くわす機会が多い。無論、最高傑作などという商業性を帯びた概念に脅かされない方がいいに決まっている。それらに優劣だとか順列を付けるのは、とても気色の悪いことだ。
 しかし一言、日本人女性で美人は誰か?と聞かれれば、私はどうしても女優・原節子さんを思い出すのだが、彼女が絵画のモデルとなって美人画の最高傑作だと称されたエピソードは、かつて聞いたことがない。美人というのと美人画というのは、何か相容れないものがあるらしい。そんなような気がする。もし原節子さんの出演した映画が、美人画ならぬ美人映画とメディアに称されることがあったとしたら、即刻彼女は銀幕から姿を消したであろう。皮肉なことながら事実、それと似たようなかたちで原さんは銀幕から姿を消してしまった。  美人という形容には親密なる愛着感よりも畏敬的な疎遠感が上回る。生身の人間としてなら、他者との疎遠感はより深刻で孤独な心持ちとなる。ある種不幸である。美人であればあるほど磊落性を失い、不幸を背負う量が多くなるというのは、どうやら免れない現実のようである。
 さて、美人画で思い出したのが、菱川師宣の「見返り美人」であった。正確に言えば「見返り美人」の切手である。少しでも切手蒐集を嗜んだ者ならば、その価値やら評判を聞いたことがあるかも知れない。私も切手を集めていた子供の頃、“美人”が“見返る”というので一体どんな美しい切手かと関心を持ったが、その切手を書籍で眺めたところ、イメージしていたのとは違い、着物を着た女性が後ろを振り向いているだけであった。しかもそれが美人かと言えば、子供の時分としてはとてもそうは思えなかった。納得がいかないながらも、私はとうとうその「見返り美人」を忘れることができなかったのだ。
 小学生時代の切手蒐集の趣味は、私にとってその小さな枠に収まった図案の、そこはかとない美しさに惹かれるような、恍惚とした気分を味わう楽しさがあった。そうした切手を蒐集する経験則が身体のどこかに染みついているせいか、近年でも偶然目に付いた切手の図案を眺めることに恍惚を覚えるし、しばし忘我することもある(当ブログ「美しき色彩―沖縄切手」参照)。
 小学校の低学年の頃に、もともと父親が集めていた…

乾板写真―家族の肖像〈2〉

前回からの続き。
 私が入手した13枚の写真乾板は、明治40年頃撮影されたものと判断できた。が、元々の持ち主だとか撮影された人物の詳しいデータは、残念ながら取得できておらず、不明。もちろんこれらの乾板が、冒頭で述べた下岡蓮杖と何の関係もないことを断っておく。  この13枚は、持ち主の家屋を写した「風景」写真と、持ち主の家族あるいはその関係者と思われる人物が被写体となった「肖像」写真とに分類でき、そのうちの「肖像」写真を4枚ほどスキャンしたことは前回書いた。13枚のうち、被写体の人物はほとんどこの4枚に写り込んでいる。
 まずデジタル化した乾板写真①を見てみる。男5人衆。  いったいこの人たちはいかなる関係で(理由で)、一つのフレームに収まっているのだろうか。5人は年齢の幅があるだろう。血縁者とはどうも見えない。これは私の見た限りの主観であるから、何とも言いようがないのだが、血縁の近い親類ではなく、商売柄付き合いのある関係者、同志といったところであろうか。もしこれがはっきりとした主従の間柄であれば、人物の位置構図はもっと工夫されて撮られていたはずである。それにしても皆、表情が堅い。  乾板写真②を見てみよう。男の子が写っている。10歳から14歳くらいであろうか。整った丸刈り、着物は木綿の縞柄といった清潔感のある男の子である。この子は主人と縁故が深いことは想像できる。撮影者の緊張が幾分感じられる。もしかすると写真撮影の真の目的は、この子を撮ることにあったのかも知れない。  乾板写真③には、現代の若者にも通ずる精悍な青年と、年齢が少し離れた子供が写っている。子供の方の頭に、禿げのような跡が見える。この二人は兄弟であろうか。あるいは親戚同士なのであろうか。普段仲の良い二人が、一つのフレームに収まっていることだけは否定できないと思う。  乾板写真④は、2人の女性そして子供3人。嫁と姑、嫁の子供らという想像もできるが、二人の女性が姉妹でそれぞれの子供、とも想像でき、彼らの縁故の決定的な結び目は写真からは掴めない。しかし主人との関係において、少なくとも後継者とは遠い人達という括り方はできる。特に重要な人物が写っているのではない、という意味で。
 これら全体が広義の意味での「家族写真」と理解するには、あまりにもその証拠となる要素が少なすぎて、私には判断できない。まったく他人同士で…