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思い切って森鷗外を読んでみよう〈一〉

中高生が本を読まない、「読解力」が不足しているということが、昨今あちらこちらで聞かれる。どの程度?ということがよく分からなかったから、ふうーんってな具合で聞き流していた。しかし本当に、深刻らしい。  ちなみに、「読解力」を身につけないと、試験や就職に不利、ということは確実に言える。いやいや、それだけではなく、社会生活を送る上で、あらゆる面で不利、であることは間違いない。  私はここで、「本や新聞を読むことは、とても楽しい」ということを訴えたいのだけれど、いっそのこと「中高生が」という主語を拡大解釈し、それ以外の大学生だって大人だって、けっこう本を読まない、「読解力」が“苦しい人”がいるわけだから、そういう人達もひっくるめて、「読書が楽しい」ということを訴えたいと思うのである。  ならば、だ。ある中学国語教科書を参考例にし、これは私からの「提案」なのだが、思い切って森鷗外の小説に挑戦してみたら――。森鷗外って誰すか?ということも含めて、もし、“あまり面白そうでない”森鷗外の小説が読めて理解できたとしたら、人に自慢できるし、本を読むことの自信がかなりつくのではないか、と思ったのである。  本を読むことが苦手な人にとって、これはとんでもない冒険になるかも知れないが、私は「思いきって森鷗外を読んでみよう」ということをここで提案したい。実は私もあまり、森鷗外が好きではないのだ。
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 とりあえずその話は少し後回しにして、読解力が不足している昨今の云々について書いておく。  むかしむかし、私が高校3年生だった夏休みのある日。前夜から夜更かしをしてしまったせいで早朝になって急に睡魔に襲われ、そのくせ、今日は朝から出掛けなければならない、ということを突然思い出した私は、焦った。そうだった今日は、電気関連の試験を受ける友人に連れ添い、東京の試験会場まで行かなければならないのだ…(自分が試験を受けるわけではないのに)。とにかく眠い眠い眠いと思いながら(むろん電車の中では爆睡。その友人への応対はほとんど「無言の態度」をきめこんだ私)、神田駅だったか御茶ノ水駅だったかに降り立ち、大通りを少し歩いて、試験会場のあるビルに我々は到着した。  まだサラリーマンのごった返す、早朝の時間帯である。午後の待ち合わせ時間を決めた私は、友人と別れ、すたすたとJR神田駅に戻った。そして駅のホームのベン…

天正遣欧少年使節―伊東マンショ

東京国立博物館『伊東マンショの肖像』
 己の中でそっとしておけなくなった思い、煩悶、悲しみ。拙くともそれらを言葉にし、じっと受け止めて対話してくれる誰かが今、いて欲しい――。20代の頃、そうしてふらふらと立ち寄った上野の博物館の薄暗い展示室の一隅で、おそらく声をかければ自分と対話してくれるであろう20代の青年を見つけた。緑衣の青年。しかし私は、その青年に声がかけられなかった。最もひ弱で勇気のない、意志のもどかしさ。同じ経路を辿った青年はいつしか姿を消し、最後のチャンスは失われていった――。(当ブログ「不思議な少年の話」参照)。

 昨年より待望していた上野・東京国立博物館の特別公開『新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像』。その伊東マンショの肖像画を眺める時、過去のそんな20代のひ弱な光景――館内を静かにまわっていた緑衣の青年――を私は何故だか思い出した。きっと、ドメニコ・ティントレットが描いたその、若き伊東マンショの柔和な瞳が、緑衣の青年の和らいだ印象を想起させるのだろう。私がこの東博の特別公開を楽しみにしていた理由の一つは、そうした過去の光景を同じ場所で追体験できるのではないかという期待があったからである。

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 1581年(天正9年)、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは織田信長や豊後の大友宗麟らと面会し、キリスト教のさらなる布教のため、その資金援助を取り付けるべく、ヨーロッパに少年使節を送ることを計画した。

 この時代の九州のキリシタンについて、以前私は司馬遼太郎著[街道をゆく]シリーズの『島原・天草の諸道』(朝日文芸文庫)で読んだことがある。しかし少年使節に関しては、そこではごく簡単な一節にとどめられている。
《天正十年(1582年)、九州の諸大名がローマ法王に対して派遣した四人の少年使節が、八年余をへてもどってきたのである。かれらは、活版印刷機をもちかえった》
(司馬遼太郎著[街道をゆく]17『島原・天草の諸道』より引用)

伊東マンショの肖像画(東博リーフレットより)
 東博の本館7室で展示されていたのは、先述した「伊東マンショの肖像」画(ミラノ・トリヴルツィオ財団蔵)のほか、1585年に北イタリアのレッジオで出版された「天正遣欧使節記」(東京国立博物館蔵)、2点の三聖人像画、江戸時代に宣教師シドッチが携行していた聖母像で、このうちの「天正遣欧使節記」が、当時のヨーロッパの活版印刷技術を示しており、活字本としての体裁は現代の印刷書籍と比べても、さほど見劣りしない。

 活版印刷は当時、文字の複製技術を高いレベルにまで持ち上げた。司馬氏は先の著書で少年使節の話を膨らまさず、何より活版印刷機について刮目した。中国式の版木による印刷機は古くから伝えられているが、グーテンベルクが発明した活版印刷機、つまり銅活字の印刷技術が少年使節によって持ち帰られたことについて、《驚歎すべきこと》と表している。このことに関連するのだが、司馬氏は同シリーズ『肥前の諸街道』の中で、カトリックという宗教が、禁教されずに日本にずっと世界の普遍的なものを絶えず注入し続けていてくれていたならば、情報感覚のない太平洋戦争のようなたぐいは、なかったかも知れない、というようなことを述べている。

 秀吉が激怒したとされるサン・フェリペ号事件が起こったのは1596年で、キリスト教の伝道を禁じた1587年の禁教令から9年後のことだ。その間、1590年には旅から帰国したマンショらが、長崎より瀬戸内を海航して下関、室津、大坂を巡り、翌年に京都の秀吉と謁見。旅先で献上された品々や西洋の楽器演奏を披露し、秀吉を喜ばせた。しかし、サン・フェリペ号事件以降、キリスト教弾圧は苛烈となる。鎖国体制をしいた徳川幕府時代のキリシタン弾圧では、キリシタンがもたらした諸処の技術や文化を喪失した。

 それによって日本という国家は、文明開化という局面があったにせよ、司馬氏の言う“普遍的なもの”から逆行していくことになる。太平洋戦争のような悲劇は、そうした世界的感覚の欠如によって生じた不幸であると言っていい。

 キリシタン大名の名代として選ばれた少年ら、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4人は1582年(天正10年)、長崎を出航する。実はここからの旅が壮絶であった。ポルトガルのリスボンに到着したのは2年後の1584年である。スペイン国王フェリペ2世に謁見。その後ローマへ。翌年にローマ法王グレゴリオ13世と謁見。ヴェネチアなどイタリアの都市を周り、帰国すべくリスボンを出航したのはさらに翌年の1586年。2年後にマカオに到着。そうして1590年にようやく、長崎へ辿り着く。幾度にも襲われた病気との闘いの旅。課せられた使節という重圧。少年らは青年へと成長したが、なんと8年にも及ぶ壮大な旅であった。

 持ち帰られた活版印刷機が布教活動を推進したことは言うまでもない。が、国内での激しいキリシタン弾圧によって彼らの運命は大きく狂わされていく。マンショは1612年(慶長17年)、43歳で長崎にて死去する。その後、原マルティノはマカオに追放され、中浦ジュリアンは長崎で処刑される。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

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《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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