スキップしてメイン コンテンツに移動

恋とK先生と牧野富太郎

『牧野富太郎 なぜ花は匂うか』(平凡社)
 私が植物学者の牧野富太郎という人を知ったのは、小学4年生の時である。
 学校の図書室にあったポプラ社の児童向け伝記全集で、牧野富太郎の本を開いて私は驚いた。そこで見たのは、凄まじい写真であった。それは、牧野富太郎の家の書斎か標本部屋かを写した写真で、無数に積まれた植物標本、又は彼の身長を遥かに超えてしまう常軌を逸した数の書籍が山積みされた書棚の写真であった。これを見て私は失神しそうになったのだ。

 人はこれほどまでにして何かに没頭できるものであろうか。そこには気配の凄みが感じられた。彼の権威を煽るためのつくられた張りぼての背景ではなく、まさに彼自身が熱心に蒐集した実存としての物的証拠的背景。その中心に彼が居て、視線をこわばらせている。誰も近寄ることができない。大地震が来れば間違いなく確実にこれらに埋もれ死すであろうに、本人はヘでもない、それも本望のうちと思っているであろう覚悟――。

 この写真は今、高知県立牧野植物園のホームページで閲覧できる。小学4年でこの牧野富太郎という人を知り、私の中で何か芽生えたものがあるとするならば、この凄まじさの根幹にある動物的集中力だろう。それは獲物を捕らえて絶対離さない狩猟の本能的集中力と言える。牧野にとってそれは生きる源ではなかったか。ともかく私はあの時、牧野富太郎は尋常ではない人、と直感的に悟った。と同時に植物とは、それほど人にとって愛すべきものなのだろうかという不思議な観念の出発点ともなった。

*

4月25日付朝日新聞朝刊の記事
 去る4月25日、朝日新聞朝刊に牧野富太郎を紹介する記事(編集委員・宮代栄一)が掲載された。これに連動させられて私は、平凡社から刊行された『牧野富太郎 なぜ花は匂うか』を買った。これで今のところ所有する牧野本は、昭和15年初版の昭和17年再刷版である『牧野 日本植物圖鑑』(北隆館)と、『植物一日一題』(ちくま学芸文庫)の3冊となった。

 新聞の記事の書き出しは、《牧野富太郎の名は、ある年齢以上の人にはなじみがあるのではないか》となっていて、今の子供達はこの人をあまり知らないのかと少し愕然とするような残念な気持ちになった。私が小学4年の時、理系で植物にえらく詳しかった担任のK先生との出会いによって牧野富太郎を知るきっかけとなったのだけれど、K先生はたびたび日曜日にクラスの児童を何人か連れて、学校の近くの河川敷で植物採集をした(当ブログ「植物採集のこと〈一〉」参照)。

 必ずしも毎週ではなく、日曜の植物採集はあくまで不定期だったのだが、おおよそ1年が経つ頃には、順番にほぼクラスの児童のすべてがK先生と植物採集を体験したことになる。ただし私だけが漏れた。私はK先生と植物採集をしていない。

 していない・行っていない、ことが逆に強烈な想い出となっている。考えられる理由としては――その時大好きな女の子がいて、その子と一緒に植物採集に出掛けたいとやましい思いに駆られ、その機会を窺っているうちに参加する機をとうとう喪失してしまった、のかも知れない。
 女の子に恋をする、夢中になるということが私にとってあの時、身の回りのすべての関係を優しく緩やかなものにしたのは確かだ。K先生に対しても植物というものに対しても、あるいはそこで知り得た牧野富太郎という人物に対しても。程なくしてその大好きだった女の子は町を去って行くのだが、私の中でこの小学4年という1年間は、結果的に苛烈な《植物》と《音楽》の記憶となった(《音楽》についてはここでは触れない)。

*

《むじなも Aldrovanda vesiculosa L.
世界ニ點存シテ生ズル食蟲植物ノ一珍種ニシテ我國ニテハ初メ明治廿三年五月十一日ニ關東利根川流域内ノ武州小岩村ニ発見セラル。沼澤・水田側小溝等ノ止水中ニ浮遊生育シテ根ナク、冬季ハ其梢頭球状ニ緊縮シテ越年ス》
(牧野富太郎著『牧野 日本植物圖鑑』(北隆館)より引用)

 今は便利になり、北隆館の『牧野 日本植物圖鑑』はインターネット版でも参照することができる。
 むじなも。植物を“愛人”とまで称した牧野富太郎は、その明治23年5月11日、江戸川の土手の用水池にて、ヤナギの実の標本を採るべく手を動かし水面に視線を移した際、見慣れぬ水草を発見したという。これが後のムジナモというモウセンゴケ科の食虫植物の発見である(『牧野 日本植物圖鑑』ではいしもちそう科となっている)。『牧野富太郎 なぜ花は匂うか』の「世界的の希品ムジナモを日本で発見す」(1947年)の稿でその時のことが詳しく述べられている。またそこには彼が描いた写生図が掲載されていて、思わず緻密な画に驚嘆せずにはいられない。まさに彼は尋常でない人だ。

 そう言えばかつてK先生は、アカネ科の多年草ヘクソカズラ Paederia scandens(『牧野 日本植物圖鑑』では、へくそかづら、Paederia chinensis Hance.とある)のことを教えてくれた。校庭に生えていたヘクソカズラをてのひらで揉み、ニオイを嗅ぐと非常に臭い。我々児童はたいへん面白がった。そんな教え方というか話し方は、いわゆる“牧野節”とよく似ている。

 そうやって児童に植物に対して関心を抱かせ、面白いことを体験させてくれたK先生はもしかすると、牧野富太郎の名を出してムジナモの話をしてくれていたのかも知れない。それは私が憶えていないだけかも知れない。
 何故なら、ムジナモの自生地であった羽生市宝蔵寺沼は隣の埼玉県であり、車で行けばそれほど遠くない距離にあって、昭和40年代には自生としては絶滅していたムジナモの再生のために、今、沼の水質を改善させムジナモの放流が試みられている環境保全の現場だからだ。

 おそらくK先生だったら、ムジナモの絶滅の話をしてくれただろうし、その復活再生を願っていたに違いない(私は恋に現を抜かして、そんな大切な話を聞き逃した可能性がある)。そしてK先生は今も、そのことに関心があるかも知れない。牧野富太郎の話題を通じて、私にとってのあの小学4年の記憶がまだ、自身の胸を躍らせているのをひしひしと感じるのである。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
*
 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
*
 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…