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7月, 2016の投稿を表示しています

漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
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 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

浅川マキの歌

1976年1月号の『ビックリハウス』については、前回書いた(「サブ・カルチャー雑誌『ビックリハウス』のこと」)。私はここで、その号の一般投稿者による、あるエッセイを全文、以下に書き記しておこうと思う。  それは、歌手・浅川マキに関するエッセイである。――しごく私は気に入ってしまった。何度も読み返しているうちに、紫煙を燻らす浅川マキが容易にイメージできるし、私はこれと同じ文面をどこかの機会で既に読んでいたのではないか…何かそれは初めて出会ったのではない感触のある、心にじわりと響くエッセイなのであった。  あらためて詳しく書いておく。これは、『ビックリハウス』(パルコ出版)1976年1月号の、「フルハウス」という投稿ページに寄せた、(当時)国府台高校3年18歳、永田裕之さんのエッセイである。タイトルは「マキについての断片 または『極私的浅川マキ論』」。
《僕が、浅川マキを聴くようになったのは、たしか中3の終わり頃だったと思う。あのころの僕は、教師の何かと言うと勉強勉強、異常なまでの受験指導等に嫌気がさし、それでいて現実には受験せざるを得ないというジレンマみたいなものがあって、なにか世の中を斜めに見るような(今でもそうなんだけれど)中学生だった。
 淋しさには名前がない  ……誰が言ったの  何にも いらない  これからは  ドアを開けたら 朝の光が  また ひとりよ 私
 なんて言う歌があって、そんな詩がマキのハスキーでそれでいて各小節の終わりのところが、ピョッと上がるような声で歌われるともう理論もクソもありゃしない。ただただ、歌のイメージに浸りこみ、そのイメージをレコードの中のマキ自身に勝手に投影して、精神的オナニズムの世界に漂よいながら生きてきた。
 つまり、結局なんだかんだと言っても進学校と言われる高校に入ってしまった僕にとって、浅川マキの世界というのは、常に逃避場であった訳なんだ。それにマスコミやレコードやコンサートを通じて感じるマキのイメージも、その弱虫な僕の要求を満すような黒一色(でも黒というのは、色では無く光の無い状態、つまり闇の中でいくらでもイメージなんかふくらむのだけど)を通してきた。
 いつもは、マキのことなんか、ごく近しい友人に、しかもアルコールでも入っていなければ話さないのだけれど、こんな風に有名な雑誌『ビックリハウス』に書く気になったのは…

サブ・カルチャー雑誌『ビックリハウス』のこと

物心ついた頃に、日曜日になると、地元のK書店に通っていた光景が目に浮かんだ。大方、自分の行動癖は変わらない。自転車を書店の目の前に止め、店頭に並んだ小学館の雑誌「小学○年生」や「めばえ」が視界に入り、店内に踏み入る。1階は一般雑誌系、児童書、単行本、文庫本、奥には文房具の売り場があり、レジを取り囲んだショーケースには、気品漂う万年筆が鎮座していた。2階は専門書、学習参考書、漫画本の売り場である。  本は買ったり買わなかったり。腹が空くと、K書店の右隣の、薄汚いやつれたショッピングセンターの1階にあるハンバーガー・ショップでハンバーガーとコーラを注文し、さて同じ階のゲームセンターへ行くか、道路の向かいにあるホビー専門店に駆け込んで“くるくるてれび”か“くるくるびでお”をいじるか、他の書店に移動するかを悩ましく思案したりする。日曜の午後というのは、女の子がチャラチャラしたファンシー文具(やたらキラキラしたシャーペンやシール、いい香りのする消しゴムのたぐい)に群がって誰がどの子の真似をするかを生活コーディネートするのを街中で見かけながら過ごす、あながち悪くない時間帯なのであった。
 その頃、私にとってK書店は広い宇宙であった。世の中を知るための、自分の趣味を広げるための、とてつもなく大きな知的空間であった。  そこに、奇妙な雑誌がいつも寝そべっているのを、私は欠かさず目視していた。目視して素通りするのが常だ。最初は、いったい何の雑誌なのか分からない。『ビックリハウス』――。意味不明なタイトル。しかし、なんとなく面白そうな雰囲気の、しかも大人の雑誌である。  束の間の好奇心に駆られて、一度だけ手に取ってページをめくってみたことがある。大人がおそらく面白がるような写真やイラストのコラージュ。なんだか訳の分からないコラム。あとは文字、文字、文字。小学生の私は、大人の雑誌を咄嗟に開いてしまった罪悪感と羞恥心でその一瞬、ついに限界に達し、素早く本を閉じてその場を去ることしかできなかった。
 決して自分は悪いことなんかしていない!だが、顔を赤らめた私の身体はなかなか興奮が冷めない。他の本を読む気分にもなれない。あれを開かなければよかったと、ひどく後悔した。  そうしてK書店へ来るたびに、奇妙な雑誌『ビックリハウス』がそこにあることを目視しつつも、白々と素通りして他の本へありつく…

「オスの戦略 メスの戦略」を考える

国語教科書を読むことが好きである。いつだったか入手した2005年発行の高校国語教科書『新現代文』(筑摩書房)はすっかり手に馴染んで、まるで自分の高校時代の教科書であったかのような錯覚すらある。画家・有元利夫氏のタブロー「1人の芝居」の表紙は、この本の読書への気分を緩やかに高め、その落ち着いたアイボリーの画面が程よい名調子となっている。
 日増しに国語教科書への愛着感が強くなってくる。学生時代から遠のくのとは裏腹に。その頃はあまり敏感でなかった教科書というアイテムの、直接的な感触と適度な郷愁。それは文学の宝庫であり、文学を味わう悦びのための入口となっている。普段読まない作家への、処女航海。漱石や中島敦、室生犀星の詩などは定番中の定番で、どの国語教科書にも出てくるから、読み手として手垢がついている感があるが、その定番と言えるものでも、特に私は、与謝野晶子の短歌や正岡子規の俳句などをこれまで好んで読んでこなかった。そのツケはいずれ必ずやって来る、とも。やはり文学との出会いは、長い人生のうちのタイミングに左右される。
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 さて『新現代文』では、[評論三]というカテゴリーが設けられている。普段読まない人の文章が読みたくなった。まるで、日頃飲み口の慣れた酒から離れて、冒険をしてみたくなるかのように。ここで登場する3人の筆者(木田元、長谷川眞理子、冨山一郎)のうち、長谷川眞理子著「オスの戦略 メスの戦略」を初めて読んでみることにした。科学モノで寺田寅彦的な印象があったから、自然に興味が湧いた。
 長谷川眞理子さんの職業は、人類学者(霊長類研究者)とある。作家ではない文筆家。調べてみれば著書や翻訳本は多くあって、例えば『ダーウィンの足跡を訪ねて』とか『クジャクの雄はなぜ美しい?』といったタイトルには、進化・人類学への知的好奇心がくすぐられる。  この教科書の「オスの戦略 メスの戦略」というタイトルもなかなか興味深い。生き物の雄雌の関係性において、雄には戦略があり、雌にも戦略がある、というニュアンスが伝わってきて面白そうだ。私が少し前に読んだ牧野富太郎の植物本で、なぜ花は匂うのかについて、植物と虫との関係を楽しく読むことができたから、長谷川さんの「オスの戦略 メスの戦略」もそうした趣旨だろうということは想像できた。ちなみに「オスの戦略 メスの戦略」は、1999年の著書『オスの…

心霊写真のときめき

《恐怖の心霊写真集 中岡俊哉編著―日本、初の怪奇異色写真集》 《霊魂は果たして存在するのか? 人類永遠の謎に、いま 三次元のメカニックが挑戦する 現代科学では解明不能な 世にも不思議な世界がここにある》 (中岡俊哉編著『恐怖の心霊写真集』より引用)
 二見書房のサラブレッド・ブックスより1974年に刊行された“心霊科学研究家”中岡俊哉編著の『恐怖の心霊写真集』は、私が小学校の高学年だった頃(80年代半ば)の愛読書だった。クラスメイトの中にもこの本に興味を持った人がいて、教室に持ち込まれたこの本に皆がよく群がって怖がったものだ。その頃のテレビや雑誌などでの心霊写真ブームによって、我々子供達は、“ゲゲゲの鬼太郎”のような妖怪やお化けは嘘っぱちで、心霊写真に写り込んだ心霊=幽体こそ本物なのだ、という共通認識があったように思う。  ただし、エクトプラズムだけは笑いものにされた。この本に掲載されている、ブラジルで有名とされる霊媒者のエクトプラズム実験写真=「鼻からエクトプラズム」写真は、どう見ても白いフンドシか何かの布切れを、鼻穴に貼り付けているようにしか見えない。ちなみに中岡氏はこのエクトプラズムに触れたことがあるらしい。綿アメとマシュマロをミックスしたようなもの…と書いているが、フンドシで十分だろう。  ともかく私は、この敬愛する(私淑しているとまでは言えない)中岡氏の心霊写真シリーズを、他に2冊ほど買って貪り読んだものである(当ブログ「左卜全と心霊写真」「拝啓心霊写真様」参照)。
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 シリーズの第1弾『恐怖の心霊写真集』には、私にとって驚くべき写真が掲載されていた。線路が見える林の写真である。 《これは東京・板橋に住む熊坂義己さんが写したもので、事故や不思議なことが続発する現場である。現場は、某鉄道の栗橋―古河間で、樹木の中に二体の霊の顔が写っている地縛霊ではないかと考えられる》 (中岡俊哉編著『恐怖の心霊写真集』より引用)
 心霊写真としてはインパクトの薄い地味な、そもそも板橋に住む熊坂さんが何故こんな辺鄙な所で美的に乏しい写真を撮ったのか、あるいは鉄道マニアで線路フェチだったのか、理解に苦しむ点はあるのだが、写真の四角で囲まれた箇所に、ぼんやりと人の顔のようなものが、“見えなくもない”写真である。
 もし板橋に住む熊坂さんが線路フェチでないとすれば、雑木林フェ…

A子と教科書と魯迅

近頃、魯迅を読み始めていて、自宅の書棚にあった古い国語教科書に手が伸びた。  その所作は我ながら電光石火の如きであった。この国語教科書に、魯迅の作品がもしかしてあるのではないかというのは、なんとなくの、勘だった。  その勘は見事に当たった。竹内好訳の「故郷」がそれだ。教科書の口絵あたりには、魯迅の故郷である中国・浙江省紹興の、山と川辺の家々の侘しげなカラー写真が掲載されてもいた。「故郷」はちくま文庫の『魯迅文集』第1巻に拠っている。
 そうしてじっくりとこの教科書の中の魯迅――「故郷」を読むことができたのだけれど、そこらへんに附されたふりがなの、小さな手書きの文字にちらちら視線が止まる時、そう言えばあの頃、まだ中学3年だったA子も、魯迅のこれを教室などで読んでいたのだろうなと想像が膨らんでいき、俄に胸の当たりが熱くなっていった。  A子。いまやA子もそれなりにいい歳になっているに違いないのだが、私の心にはまだ高校生だったA子の姿が焼き付いている。
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 そうだったのだ。これはA子の教科書だったのだ。  裏の下隅には、ピンク色の水性ペンで書かれたA子の名前が、消えずにはっきりと残っている。紛れもなくA子の中学校時代の、光村図書の国語教科書(平成6年2月5日発行)であることが分かり、3年分、つまり3冊の国語教科書を彼女からもらったのだった。もらったのは彼女が高校に進学してすぐのことではなかったか。
 私が20歳になって間もない頃、自ら結成した小劇団の公演が地元の古びたホールでおこなわれた時、客席にはA子とその友人が座っていた。見知らぬ中学生であった。数少ない観客のうち、最も年少だった彼女らの存在は幾分意外だったし、場違いのようにも思われた。 しかし結局、それが縁となって、それ以降の公演の手伝いをたびたびしてくれたし、しょっちゅう稽古場にも顔を出してくれた。当然、稽古場は明るく賑やかな場となった。およそ3年間そんな状態が続いたのだった。
 果たしていつ頃のことだったか、私の心中に〈劇団を辞めたい〉という思いが憂いだしてまもなく、だったと思う。私は何気なくA子に、「A子の持ってる中学の国語の教科書が欲しい」と頼んだ。それが簡単に頼んだことだったのか執拗に懇願したことだったのか、その時の雰囲気をよく憶えていない。いずれにしても私の気持ちには、もうA子と会えなくなるのだか…

ドビュッシーのClair de lune

どんどんと子供の頃や学生時代の記憶が薄らいでいくような気がして、気が気でない。したがって憶えていることはどんどんと積極的に地道に書き留めていくしかない。書き留めておいたことが、後々の邂逅譚の補助となる(そうでなければ完全に忘れてしまう)。この自らの行動は、できるだけ純粋なしぐさとなるよう常々留意しつつ、まったく思いもよらぬ記憶の発見を惹起すると信じている。
 私が所有する古い百科事典のクラシック・レコード集「名曲鑑賞レコード」(EP盤全6枚、全30曲)については、当ブログ「『ラ・カンパネラの原風景』」で触れたのでここでは割愛するが、今年の秋、フランスのピアニスト、パスカル・ロジェが来日するというニュースを見聞して少々驚いた。
 パスカル・ロジェのドビュッシーは、20代の頃よく聴いた。――これにも多少記憶違いが発生していて、それ以前、つまり中学生の頃からパスカル・ロジェのCDを持参していたのではないかと思い込んでいたのだが、どうもそうではないらしい。それはポリドールの“LONDON BEST 100”シリーズのNo.74であり、どうやら高校卒業後に買ったようなのだ(信じられないことに、中学校から高校を卒業するまで、この曲を客観的に聴くことさえできなかった)――。
 ともあれ、今、再びドビュッシーへの個人的な思い入れが沸き立って、淡い記憶が甦ってくる。そもそも幼年時代に「名曲鑑賞レコード」で鑑賞した、ベルガマスク組曲の「月の光」(Clair de lune)が、私にとってドビュッシーの曲との最初の出会いだったのだ。
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 あまりにもその記憶が遠くなりつつあるので、過去に書き残した記録からそれを思い出していく作業が必要となった。12年前、私は山形県の山寺を訪れた時、ドビュッシーの「月の光」を携えた。そのことは、当ブログ「山寺 Piano Rhapsody」に記している。もはや忘れかけた「月の光」にまつわる少年時代の思い出が、そこには綴られていた。 《その時私は、悲愴な夢を見た。棺に眠った友が、月の光に照らされながら天に昇っていく光景を。私はその棺を見上げ、小さな一点になって消えるまで、友を思ったのである。その時、すべてを見定めるようにして流れていた曲が、ドビュッシーの「月の光」であった。  おぞましく超現実的な夢でありながら、そこには美のかたちが確かにあった。召され…