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心霊写真のときめき

中岡俊哉の『恐怖の心霊写真集』
《恐怖の心霊写真集 中岡俊哉編著―日本、初の怪奇異色写真集》
《霊魂は果たして存在するのか? 人類永遠の謎に、いま 三次元のメカニックが挑戦する 現代科学では解明不能な 世にも不思議な世界がここにある》
(中岡俊哉編著『恐怖の心霊写真集』より引用)

 二見書房のサラブレッド・ブックスより1974年に刊行された“心霊科学研究家”中岡俊哉編著の『恐怖の心霊写真集』は、私が小学校の高学年だった頃(80年代半ば)の愛読書だった。クラスメイトの中にもこの本に興味を持った人がいて、教室に持ち込まれたこの本に皆がよく群がって怖がったものだ。その頃のテレビや雑誌などでの心霊写真ブームによって、我々子供達は、“ゲゲゲの鬼太郎”のような妖怪やお化けは嘘っぱちで、心霊写真に写り込んだ心霊=幽体こそ本物なのだ、という共通認識があったように思う。
 ただし、エクトプラズムだけは笑いものにされた。この本に掲載されている、ブラジルで有名とされる霊媒者のエクトプラズム実験写真=「鼻からエクトプラズム」写真は、どう見ても白いフンドシか何かの布切れを、鼻穴に貼り付けているようにしか見えない。ちなみに中岡氏はこのエクトプラズムに触れたことがあるらしい。綿アメとマシュマロをミックスしたようなもの…と書いているが、フンドシで十分だろう。
 ともかく私は、この敬愛する(私淑しているとまでは言えない)中岡氏の心霊写真シリーズを、他に2冊ほど買って貪り読んだものである(当ブログ「左卜全と心霊写真」「拝啓心霊写真様」参照)。

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雑木林に写った心霊写真
 シリーズの第1弾『恐怖の心霊写真集』には、私にとって驚くべき写真が掲載されていた。線路が見える林の写真である。
《これは東京・板橋に住む熊坂義己さんが写したもので、事故や不思議なことが続発する現場である。現場は、某鉄道の栗橋―古河間で、樹木の中に二体の霊の顔が写っている地縛霊ではないかと考えられる》
(中岡俊哉編著『恐怖の心霊写真集』より引用)

 心霊写真としてはインパクトの薄い地味な、そもそも板橋に住む熊坂さんが何故こんな辺鄙な所で美的に乏しい写真を撮ったのか、あるいは鉄道マニアで線路フェチだったのか、理解に苦しむ点はあるのだが、写真の四角で囲まれた箇所に、ぼんやりと人の顔のようなものが、“見えなくもない”写真である。

 もし板橋に住む熊坂さんが線路フェチでないとすれば、雑木林フェチ(雑木林写真の蒐集家?愛好家?)なのかということになろうが、たまたま撮られた風景写真とは到底思えず、やはりこの写真は、そこに幽体が在るであろうことを見越して、場合によっては板橋に住む熊坂さんは霊感が強く、既に幽体が見えていた中でシャッターを押したのではないか、ということが推測されよう。そうでなければこんな辺鄙な所で写真など撮らない。

 “こんな辺鄙な所”と断言して書いたのは、私はこの現場を、厳密に言えばこの現場付近を、実はよく知っているからである。この現場はなんと、私の家から徒歩15分くらいの所にある、JR東北本線(宇都宮線)の線路に面した雑木林なのであった。

 この本が刊行されたのは1974年であるから、板橋に住む熊坂さんが撮られた写真は、それよりも以前ということになる。当時は国鉄の線路だった。そもそもこの付近は旧日光街道があり、松並木が連なった鬱蒼とした林となっていて、薄暗い林の中を列車が通過していくという場所だ。念を押すようだが、こんな辺鄙な所は、写真を撮るような場所ではない。

 私はこの写真のことを小学生の頃から知っていた。ところが当時、あれだけ心霊写真熱で湧き上がっていたクラスメイトに、この写真について触れたことは、たぶん一度もなかった。友達同士で興味本位にこの現場を訪れてみた、ということもなかったはずだ。
 本来であれば、自分たちと最も近い場所に心霊写真の現場があるというのに、何故私はそれを伏せていたのだろうか。あるいは他の友達も、『恐怖の心霊写真集』に掲載されたこの写真のことを知っていたかも知れない。写真としては地味すぎて、またインパクトの薄い心霊写真でもあり、これを見ただけでは地元の写真であるとは気づかなかったであろう。しかし、誰かがきちんとこの解説文まで読んでいれば、これがあそこだということは分かったはずである。いずれにしてもその時、この写真がまったく話題にならなかったのは何故か。

 要するに、私はあまりにも現場が近すぎて、この事実に触れることをためらったのだと思う。怖かったのである。話を持ち出すだけで、禍があるのではないかと。
 このあたりの現場は本当に薄暗く、いかにも幽霊が出そうな、何らかの怪奇現象が起きても不思議ではない雰囲気があった。近くに大きな集落はなく、ぽつりぽつりと民家が点在するだけで、日中夜、人の往来が極端に少ない。だから当時、自殺目的の人身事故というのは少なくなかったのかも知れない(私の耳にはそんな話は届かなかったが)。つまり、板橋に住む熊坂さんは事前にそれを知っていて、敢えてこの現場を訪れ、幽体を撮ろうとしたのかも知れないのだ。

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実際の現場付近
 昨日の夕刻、久しぶりにこの現場付近を訪れてみた。夏らしさがある。昔はもっと雑木林が繁茂していたが、年々徐々にその密度は薄くなってはいる。しかし、部分的には昔と変わらない箇所はあるのだろう。
 記憶を辿れば確かに、子供の頃この付近を通り過ぎるのがとても怖かった。人気の乏しい長閑な田園地帯が広がり、夏になるとこの雑木林から虫の声があちらこちらに聞こえてきた。寂しい場所である。できれば一息に走り込んで早く通りすぎたい、とも思った。夜になればその恐怖の度合いは数段増す。もし女の人が夜一人で歩くのだとすれば、心理的にかなり怖いのではないかと思われる。とは言いつつ――。

長閑で自然に恵まれた場所
 中岡俊哉氏はこの本の中でしきりに、カメラのメカニック、という言葉を強調している。例えば装幀にある、“三次元のメカニック”が特にそうだ。
 中岡氏にとって写真・カメラは実証主義としての科学であった。科学の眼が心霊現象を捉えた、と豪語し喧伝した。ところがメカニック、すなわち現像を伴う写真機構の本質は、科学というより化学である。印画は化学的反応の産物に過ぎない。多くの人はカメラは実証主義的に実物をとらえていると思いがちだがそうではなく、光を寄せ集めてできる物体の影像であって、人工的にその化学反応を操作することはいくらでも可能なのだ。

 《恐怖》は不安の心理から始まり、写真の中の“陰影”によってイメージされる――。心霊写真は人々の《恐怖》のイマージュである。

 いざ、現場に行って私は感じた。この場所にも物理的な“陰”が無数にあるが、むしろ静かで心地良い、ずいぶんと自然に恵まれた環境ではないかと。片方で恐怖を煽りながら、もう片方で私の心は落ち着きを払っている。都会では感じられない五感のときめきがあった。言い換えればそれは詩的なときめきであった。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
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ファミコンの思い出―プロレス

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