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8月, 2016の投稿を表示しています

漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
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 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

藤城清治の影絵―聖フランシスコ

この世は《光》と《影》に満ち溢れているのにそれに気がつかない。気にも留めないことがある。何かを照らし浮かび上がらせ、何かを隠し暗闇にするということ。  幼少の頃、初めて映画館で映画を観た時、後方から延びた煌びやかで細長い投射光がスクリーンを照らして、そこに動く画が次々と現れることの不思議さに、私はとても感動した。そうしてこれも少年時代のことだったが、5分にも満たないテレビの天気予報のスポット番組で、確かに藤城清治さんの影絵作品が淡い光と影によってちらちらとうごめいていたのを観、自らの身体がその中へ吸い込まれていくのを感じた。この世は《光》と《影》に満ち溢れている。しかし、誰もそのことに気づいていない――。
 今月の9日、東京・銀座の教文館にて『藤城清治影絵展』を観た。サブタイトルは「光と影は幸せをよぶ」。この場を訪れて、まさに少年時代の懐かしいあの《光》と《影》の感動に浸ることができ、また新たな感動の上書きさえもあった。この影絵展の広告の画にある抱き合う少年と少女の大きな瞳。その寄り添う二人の手の温かさ。このなんとも言えないぬくもりの画に惹かれて、私はその9階の小さなホールに足を運んだのだった。
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 影絵については、こんな思い出がある。  私は小学校の6年間、ほとんど何一つ得意とする教科がなかった。強いて言えば音楽の授業で歌を歌うこと、国語の授業で朗読することが楽しみであった。図画工作というのは特に不得意と言っていい、人に自分の拵えた作品を見せたくない、恥ずかしいと思っていたほどで、授業そのものがいやであった。何か作っては友達にその不出来を笑われていたし、作るたびにまた笑われるのかと思うと、とても図画工作の授業がしんどかった。もちろん通信簿の評価も低かった。
 そんな図画工作の授業で唯一自分で楽しいと思えた、夢中になって作ったのが、ステンドグラスの模倣であった。ガラス細工は子供には危ないので、黒色の板だったか画用紙だったかを枠にして下絵を描き、それに沿ってカッターで画をくり抜き、裏側から各々の色のセロハンを貼り付け、アルミホイルを背景にして枠を閉じたもの、という代用のステンドグラス画であり、見た目はステンドグラスのように色彩豊かな光と影の造物となった。本当にこれだけは楽しい工作の体験だったし、おそらくそれまでと同様にして不出来の笑いの対象となったのだろうが、…

『洋酒天国』と再びジンの話

今夏、大活躍したリオ五輪の選手団が帰国し、台風一過の穏やかな日光浴を愉しんでいると、どこかで秋の気配を感じさせてくれる今日この頃。夜な夜な酒も美味い、ということで2ヵ月ぶりのヨーテンを。
 『洋酒天国』(洋酒天国社)第12号は昭和32年3月発行。真っ赤な表紙は坂根進氏のイラスト。「編集後記」にちょっとした酒の飲み方のアドバイスが書いてあって、ストレートでウイスキーやブランデーを飲む際は、追い水を一口飲むこと。それも水道水より井戸水がうまいとか。先日私は村上春樹氏の本を読んで、アイルランドのパブではアイリッシュを、半々のタップ・ウォーターで割って飲むのがほとんど、と知って試してみたところ、どうもこれが馴染めない。向こうではちょっと嫌がられるロックの飲み方の方がきりっとして舌触りがいいと私は思ってしまうのだけれど、本当に様々な飲み方があるものだ。
 女優・杉村春子さんの写真と文の「レニングラード」。その駅のホームの写真は本当に杉村さんが撮ったの?と俄には信じられないほど、美しい構図と色彩による旅人達の活き活きとした光景の一コマ。杉村さんにとっては憧れの地だったようで、革命の地レニングラード(現サンクトペテルブルク)への熱情が伝わる文である。夕焼けや夜明けを見て、松井須磨子さんの「生ける屍」で唄った歌を思わず口ずさんだ、と最後を結んでいるが、私もそのトルストイ原作『生ける屍』で松井須磨子さんが歌った「さすらいの唄」を聴いてみた。うん、これはやはり彼の地で口ずさみたくなる、トルストイのロシア文学の世界なのだなという気がした。そしてまたこれが、日本の大正浪漫の大衆風を吹いてもいた。
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 そんな話の後で、ドライ・ジンの話題に移るのは少々気が引ける。しかしこのところ私は、ジンという酒の深みを知って、心からとろけて酔っている。すっかりドライ・ジンの虜になってしまった。  「洋酒の豆知識 ジンのことなど」。おそらくこれを書いたのは開高健氏ではないかと思うのだが、冒頭の書き出しが実に軽妙洒脱である。《ジン。これはオランダ人が発明し、イギリス人が洗練し、アメリカ人が栄光をあたえた酒です》。個人的に私はこのうちの、“イギリス人が洗練”させたロンドン・ドライ・ジン――BEEFEATERを愛して已まない。  以前、ヨーテンの第26号を紹介した時(当ブログ「『洋酒天国』とジンの話」)、ジ…

サネアツの『友情』

先月末、朝日新聞の記事を読んで武者小路実篤の『友情』をふと思い出した。あまりに長らく忘れ去っていた小説を思い出した、という感がある。武者小路実篤『友情』――。その新聞記事は、「文豪の朗読」を聴くというコラムで、実篤の『友情』の書評と合わせ、作家自らの朗読音声を聴いた奥泉光氏の朗読評なるものが綴られていた。こうして私はその実篤の小説の思い出深い、自身の高校3年の夏を振り返ることとなった。
 『友情』については、実は2年前の当ブログ「漱石と読書感想文」で少し触れている。高校3年の夏休みの宿題として、何か一つ本を選んで読み、その読書感想文を9月の始業式の日に提出しなければならなかった。提出の条件は、「漫画本以外」を読め、である。原稿用紙の枚数に関しては、おそらく400字詰め「3枚以上」ほどではなかったか。

 私はその宿題に対し、実篤の『友情』を選んだ。選んだ理由については思い出せない。もしかすると、3学年で指定された課題作品の一つだったのかも知れない。ただ基本的には、「漫画本以外」であれば何を読んでもよかったのだと思う。他のクラスメートも何人か『友情』を選んでいたこともあり、当たり障りのない無難な課題作品を選んだことになる。ともかくこれを読むために、私は夏休み開始の頃に書店に駆け込んだ。その時手にしたのが、実篤が描いた「和楽」画装幀の角川文庫版であった。
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 その時の私にとって実篤という人への、ムシャノコウジサネアツという仰々しい名前に対する畏敬の念は実に単純なもので、漱石よりも遥かに遠い存在にあった。言い換えれば、何をした人なのかまったく分からない恐ろしさを感じていたのだった。年譜の一部をはしょって読めば明治18年、《家は藤原氏から分かれた公卿華族で子爵》とあって《父は第10代の当主》となっていたし、明治24年の6歳で《学習院初等科に入学》とあれば、もはや人物として程遠い、“おののきの文豪”と思う以外になかったのだ。
 そんな高貴な実篤に対する嫌悪感に近い雑感を抱きながらも、高校3年生の私は、その夏、必死になって『友情』を読み、8月の最終日になんとか作文を書き上げた。しかし高校生であったから、内容を吟味し、よく理解していたとはとても言い難い。それはもう読書感想文という体裁の、規定の原稿用紙に字を埋め尽くすだけの、ゲームにもならない苦行そのものであった(他の教科の…

魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
 「藤野先生の『頓挫のある口調』について」。  三宝氏は『藤野先生』(魯迅『朝花夕拾』所収)で、魯迅が綴った先生の“口調”にまつわる表現――頓挫のある口調――の翻訳について鋭く言及している。頓挫のある口調とは、いかなる口調であるのかと。  さて、と思い、私は高校時代の筑摩書房の国語教科書を開いた。残念ながらその教科書には魯迅の『藤野先生』は収録されていなかった。書棚を探して皮肉にもそれを見つけたのは、同じ筑摩の『筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫)である。ここに収録されていた『藤野先生』は竹内好訳で、『世界文学大系』第62巻(筑摩書房)に拠っている。私はこの竹内氏の訳版によって、三宝氏が言及する部分を見つけることができた。
 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。  『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。  読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。  私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じで…

レコードとCDのミゾ

これ、着物の模様柄かしらん?  と、多くの人が思ってしまうこの画像は、レコードとCDのミゾ=“溝”の拡大写真である。
 岩波書店のPR誌『図書』ではここしばらく、科学写真家の伊知地国夫さんの写真が表紙となっていて、私は毎号、その科学写真を眺め、表紙扉裏にある伊知地さんの解説を読むのが楽しくて仕方がない。8月号のこの画像を最初見た時、私もやはり一瞬、着物の柄ではないかと思った。表紙の裏を読んだら、音楽を再生するレコードとCDの記録溝の拡大写真だと分かって、これはすっかりやられたと舌を巻いた。
 というのも学生時代、音響芸術科に通っていた私は、こういう写真を事ある毎に見てきたつもりだったのである。伊知地さんの本文を借りながら、もう一度表紙の写真について簡単に説明しておくと、右がエジソン蓄音機の円筒管で、溝の大きさは横幅約2ミリ。写真中央がモノラルLPレコードで、横幅約1ミリ。左写真の記録溝はCD(コンパクトディスク)で、大きさはかなり小さく、横幅約0.03ミリだという。やはりこうして露骨に記録溝の拡大写真を並べられると、どうしても着物の柄にしか見えない。  もう少し伊知地さんの解説に頼る。円筒管の溝は、音の振動を針の深さ方向に記録し、レコードは音の振動を横方向のゆれとして記録する。したがって記録溝の形状はまるで違う。単純に比べただけでも、LPレコードの溝の方が精確な音の信号を再現するのに適していると分かるだろう。CDの溝はさらにまったく別物で、それはピットと呼ばれ、デジタル化した音の“データ”を記録している。それぞれ溝の大きさから考えれば、媒体に記録できる量が違うのも頷ける。量とはつまり、ここでは全体の曲の許容時間を指す。
 蓄音機の円筒管については、以前、実物を手にしたことがある(ホームページ[Dodidn*]の「円筒レコード入手!」参照)。その時は入れ物の中の円筒管(ロウ管=ワックス・シリンダー)が黒く煤けて気味が悪く、その溝まで目視することはなかったのだが、基本的に円筒管もLPレコード(の原盤)も鋭い針で表面を削って記録することに変わりない。しかしやはり記録の精確性で言えば、塩化ビニールのLPレコードよりロウでできた円筒管の方が劣っていることは明らかで、私も実際に円筒管の記録を試してみた際には、音が出ること自体が奇跡、という程度のものであった(私が試したのは…

リオ五輪の競泳を応援する私

早いものでロンドン五輪から4年、リオ五輪の夏がやってきた。どれほどスポーツに疎い私であっても、夏季オリンピックの盛大なる祭典の直前の、ゾクゾクした気分というのは少なからず楽しいものである。
 小学校最後の夏休みのある日、その日は希にある登校日で、なんの目的で登校したのか今となってはまったく憶えていないのだが、教室でのやりとりが終わった後、校長室と職員室の掃除をしたことだけは薄らとした記憶がある。(当ブログ「魚の骨」参照)。  校長室に置かれていた細長い花瓶の花の、花弁に近づいて匂いを嗅いでみた時、雌しべのあたりにぽつりと蜜がたまっていたのを発見した。私はミツバチの気持ちになって、その蜜を舐めてみた。さてそれがどんな味だったかまでは憶えていない。が、校長室で掃除をしたことで思わぬ発見があったことを内心喜んだ。ただでさえ夏休み期間中に学校に来るなんて鬱陶しかった気分が、それで一気に晴れやかになったのである。  そして帰り際に職員室の前を通ると、テレビでロス五輪をやっていた。実に賑やかな音声であった。今までオリンピックに興味がなかった自分が、何故かその時だけとてもオリンピックが愛おしく思われたのだ。花の蜜のせいだろうか。カール・ルイス、レーガン大統領、マラソン競技で印象的だったガブリエラ・アンデルセン――。
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 『AERA』(朝日新聞出版)'16.8.8 No.34の表紙は、競泳の瀬戸大也選手。考えてみれば私は、今度のリオの五輪について、まだ周囲の誰ともおしゃべりしていない。リオ五輪が私の中で話題にすらなっていなかった。  だから私は、ほとんど直感でこの号を買った。ぱっと思いついたのは、もうなんの前触れも脈略もなく無条件でこの人を応援しよう、表紙で大写しになっている瀬戸大也選手をテレビで応援しようじゃないか、ということだった。
 応援するにも準備が必要である。  これは他の雑誌になるが、“日本代表選手名鑑”なるものを見つけた。そこで競泳の36人の顔と名前と略歴を頭にインプットし、イメージ・トレーニング的に競泳フィーバーさせてみた。さらには競泳スケジュールも頭にたたき込んでみた。…8月6日土曜、予選、男女400メートル個人メドレー、女子100メートルバタフライ、男子100メートル平泳ぎ。7日日曜、準決勝は女子100メートルバタフライと男子100メートル平泳ぎ…