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漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
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 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

藤城清治の影絵―聖フランシスコ

銀座・教文館『藤城清治影絵展』
 この世は《光》と《影》に満ち溢れているのにそれに気がつかない。気にも留めないことがある。何かを照らし浮かび上がらせ、何かを隠し暗闇にするということ。
 幼少の頃、初めて映画館で映画を観た時、後方から延びた煌びやかで細長い投射光がスクリーンを照らして、そこに動く画が次々と現れることの不思議さに、私はとても感動した。そうしてこれも少年時代のことだったが、5分にも満たないテレビの天気予報のスポット番組で、確かに藤城清治さんの影絵作品が淡い光と影によってちらちらとうごめいていたのを観、自らの身体がその中へ吸い込まれていくのを感じた。この世は《光》と《影》に満ち溢れている。しかし、誰もそのことに気づいていない――。

 今月の9日、東京・銀座の教文館にて『藤城清治影絵展』を観た。サブタイトルは「光と影は幸せをよぶ」。この場を訪れて、まさに少年時代の懐かしいあの《光》と《影》の感動に浸ることができ、また新たな感動の上書きさえもあった。この影絵展の広告の画にある抱き合う少年と少女の大きな瞳。その寄り添う二人の手の温かさ。このなんとも言えないぬくもりの画に惹かれて、私はその9階の小さなホールに足を運んだのだった。

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『影絵展』にて「聖女クララの光」
 影絵については、こんな思い出がある。
 私は小学校の6年間、ほとんど何一つ得意とする教科がなかった。強いて言えば音楽の授業で歌を歌うこと、国語の授業で朗読することが楽しみであった。図画工作というのは特に不得意と言っていい、人に自分の拵えた作品を見せたくない、恥ずかしいと思っていたほどで、授業そのものがいやであった。何か作っては友達にその不出来を笑われていたし、作るたびにまた笑われるのかと思うと、とても図画工作の授業がしんどかった。もちろん通信簿の評価も低かった。

 そんな図画工作の授業で唯一自分で楽しいと思えた、夢中になって作ったのが、ステンドグラスの模倣であった。ガラス細工は子供には危ないので、黒色の板だったか画用紙だったかを枠にして下絵を描き、それに沿ってカッターで画をくり抜き、裏側から各々の色のセロハンを貼り付け、アルミホイルを背景にして枠を閉じたもの、という代用のステンドグラス画であり、見た目はステンドグラスのように色彩豊かな光と影の造物となった。本当にこれだけは楽しい工作の体験だったし、おそらくそれまでと同様にして不出来の笑いの対象となったのだろうが、自分の気持ちの中では満足感があった。

 何故それが唯一楽しいと思えたのか。幼い頃の藤城さんの影絵の美しさを覚えていて、それに惹かれたせいではなかったか。子供ながら《光》と《影》を作り出すことに魅力を感じていたのだと思う。

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「アッシジの聖フランシスコ」
 教文館の『藤城清治影絵展』で観た「聖女クララの光」や「聖フランシスコの肖像」に私が強い関心を抱いたのは、そこに画の柔らかさや優しさが感じられたからだ。
 無論、藤城さん特有の画の筆致と投影の美というのがある。そこから喚起される、言葉にできない“目に見えないかたち”こそが、私がここを訪れた本意のかたちなのだということを悟り、彼が出会った歴史や物語、人々に対する深い愛情を感じないわけにはいかないのである。

 今月24日に起きたイタリアの大地震は、中部の町アマトリーチェを壊滅させた。死者の数は数百人に達したという。けれども、そこより震源に近いノルチャという町は、建物に耐震対策が施されていて、大きな被害がなかったらしい。そんなようなことを新聞で知った。地震の被害に遭った方々への支援が広がることを心から祈りたい。地震については、大聖堂のあるアッシジも過去に部分的な崩落を招いたことがあり、その時の教訓がイタリア・ウンブリア州の耐震対策に生かされたようであった。

 そんなようなことを含め、藤城清治さんが向けられたイタリアの宗教画に対し、いま私は作品の素晴らしさと共に人々の厚い志について、心に触れるものがある。
 音楽家フランツ・リストが1865年頃に作ったピアノ曲『2つの伝説』のうちの第1曲、「小鳥に説教するアッシジの聖フランシスコ」(St François d'Assise: la prédication aux oiseaux)という曲があるのだけれど、私はこれをジョルジュ・シフラのピアノで聴く。ジョルジュ・シフラでなければならない。
 藤城さんのアッシジの聖フランシスコ、小鳥を手に、空を見つめるフランシスコの静謐な肖像を思い浮かべながら、遠い彼方に思いを馳せる。そしてそれは、最も身近な《幸せ》の在処を、照らしてもいた。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

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《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
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 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
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 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…