スキップしてメイン コンテンツに移動

レコードとCDのミゾ

岩波書店PR誌『図書』8月号
 これ、着物の模様柄かしらん?
 と、多くの人が思ってしまうこの画像は、レコードとCDのミゾ=“溝”の拡大写真である。

 岩波書店のPR誌『図書』ではここしばらく、科学写真家の伊知地国夫さんの写真が表紙となっていて、私は毎号、その科学写真を眺め、表紙扉裏にある伊知地さんの解説を読むのが楽しくて仕方がない。8月号のこの画像を最初見た時、私もやはり一瞬、着物の柄ではないかと思った。表紙の裏を読んだら、音楽を再生するレコードとCDの記録溝の拡大写真だと分かって、これはすっかりやられたと舌を巻いた。

 というのも学生時代、音響芸術科に通っていた私は、こういう写真を事ある毎に見てきたつもりだったのである。伊知地さんの本文を借りながら、もう一度表紙の写真について簡単に説明しておくと、右がエジソン蓄音機の円筒管で、溝の大きさは横幅約2ミリ。写真中央がモノラルLPレコードで、横幅約1ミリ。左写真の記録溝はCD(コンパクトディスク)で、大きさはかなり小さく、横幅約0.03ミリだという。やはりこうして露骨に記録溝の拡大写真を並べられると、どうしても着物の柄にしか見えない。
 もう少し伊知地さんの解説に頼る。円筒管の溝は、音の振動を針の深さ方向に記録し、レコードは音の振動を横方向のゆれとして記録する。したがって記録溝の形状はまるで違う。単純に比べただけでも、LPレコードの溝の方が精確な音の信号を再現するのに適していると分かるだろう。CDの溝はさらにまったく別物で、それはピットと呼ばれ、デジタル化した音の“データ”を記録している。それぞれ溝の大きさから考えれば、媒体に記録できる量が違うのも頷ける。量とはつまり、ここでは全体の曲の許容時間を指す。

 蓄音機の円筒管については、以前、実物を手にしたことがある(ホームページ[Dodidn*]の「円筒レコード入手!」参照)。その時は入れ物の中の円筒管(ロウ管=ワックス・シリンダー)が黒く煤けて気味が悪く、その溝まで目視することはなかったのだが、基本的に円筒管もLPレコード(の原盤)も鋭い針で表面を削って記録することに変わりない。しかしやはり記録の精確性で言えば、塩化ビニールのLPレコードよりロウでできた円筒管の方が劣っていることは明らかで、私も実際に円筒管の記録を試してみた際には、音が出ること自体が奇跡、という程度のものであった(私が試したのは玩具のような実験だったけれども)。

 さて、CDの記録溝に関しては、私が学生時代に附けていた受講ノートがある。主にそれは、デジタル・オーディオの録音と再生システムについての授業であった。
 CDの材料はポリカーボネートやAPO(非晶質ポリオレフィン)、ゼオニックス、アートンと呼ばれるもので、かなり大まかに言えば、ディスクの読み取り面にピットを記録し、アルミ蒸着する仕組みである。受講ノートには、アナログ信号をデジタル化(標本化、量子化)する際の数理などがびっしり書かれており、いま自分で眺めてみて少々面食らってしまった。標本化する際のシャノンの定理から始まり、2進法におけるビットの計算方法、量子化する際の変調方式やエラー訂正システム、D/Aコンバーターの構成やその変換方式、さらには具体的な回路に至り、ピットの形状についてやピット信号の生成に関する処理方式や光変調器についても書かれてあり、授業としては凄まじく専門的である。

 日頃、何気なくCDで音楽を聴く時、そんな複雑な理屈や回路を経て音が鳴っていることをほとんど意識しない。が、音をデジタル化して記録し、再生時にそれを読み取ってアナログ化し音を鳴らすという仕組みは、実はたいへん面倒なものなのであり、瞬時に電子回路がそれをやってしまっているから意識しようがないのだ。デジタル・データは何度複製しても劣化しない(記録メディアの方は経年劣化する)記録の精確性に長けたシステムであるということは言える。

 専門的な難しい話はここまでにして、レコードとCDについて個人的な昔話を書こうと思ったのだが、長くなるので次回に回すことにする。
 私が個人的にレコードを主として音楽を聴いていた最盛期はいつだったかということを思い出してみると、どうやらそれは1988年あたりになる。自室に置いてあるオーディオ・システムから、レコードプレーヤーが消えた(処分した)ことが理由だ。もうその頃、街のレコード・ショップではCDメディアがレコードを追い払ってすっかり置き換わり、音楽を聴くメディアとしてCDが十分に浸透した背景がある。レコードはこの時――時代としては一瞬かも知れないが――初めて日陰の存在となったのだ。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
*
 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
*
 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…