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9月, 2016の投稿を表示しています

漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
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 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

舞踏そしてアラーキーの「顔」論

先週の当ブログ「写真集『nude of J.』」の中で、写真家スペンサー・チュニックの「老若男女の大集団全裸」パフォーマンスについて僅かに言葉をかすめている。そこで述べたヌード・モデルの《表情》の問題とスペンサー・チュニックの身体表現とは、実に対照的な芸術の方向性を示しており、写真という形態での視覚性は、片や無数の人間達による、もはや個々の表情や肉体の性差すらもとらえることのできないマクロな眼差しがあり、一方で純粋に個々の肉体を精細にとらえ、その人間の《表象》や《表情》を炙り出した等身大の眼差し、というのがある。  さらに広範な視覚性について述べるとすれば、肉眼を超えた小さな、虫眼鏡や顕微鏡のような極微の眼差しがあり、可視光の限界までをとらえた電子的な眼差しなどもある。身体表現のレベルで視覚性を考えた時、スペンサー・チュニックのマクロの造形から、等身大の眼差しによる肉体の《表象》《表情》までがその範囲に収まるであろうし、舞踏としての身体表現もその範疇のものと定義したい。
 「顔」についてはどうだろうか。私が舞踏というものを探ろうとした矢先、肉体的なdanceの観点ですべてを切り取ろうとしていたことにハッとなった。重大な部分を欠落させていたのだ。「顔」である。舞踏にとって人間の「顔」はどんな意味をもつのだろうか。あるいはどんな意味すらももたぬものなのだろうか。
 ――あらためて宣言する。私はいま“舞踏”(BUTOH)という身体表現の可能性の、虜になっている。この舞踏とやらを単にdanceと訳してしまった場合、それに秘められた「重大な何か」を欠落させてしまうのではないかという不安があった。それはいみじくも的中した。したがってここは、danceではなく、“BUTOH”と記しておいた方が良さそうだとも思える。  しかしながらもし、danceというものの中に、同じ「重大な何か」が根源的に含まれているのだとすれば、私の一抹の不安は杞憂にすぎなくなる。ただしそれをまだ証明することができない。果たして、私の思い描く“舞踏”とはいったい何だろうか。ともかくそこに秘められた可能性を創造しつつ、音楽(又は音響的表現)の問題を絡ませながら、新しい表現への欲求を膨らまそうとしていることは確かなのだ。
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 そんな中、偶然、荒木経惟の『いい顔してる人』(PHP研究所)のエッセイ本をめくる…

西暦と和暦の話

近頃、片付け仕事が追いつかず、やっておかなければならないことが1ヵ月も2ヵ月もずれ込んでしまい、慌てふためく。当然、季節感もずれてしまう。私にとってはまだ暑い“夏”であって欲しい。ああ、時間を止めることができたら、どんなに便利だろうと思う。
 少々大袈裟な話だけれど、私にとって時間とは、一生のうちに、つまり死ぬまでの間に何が出来るかの刻印なのである。そういう意味では10代の学生時代、やるべきことをやらず(その時何をやるべきかも分からなかったけれど)、大量の時間を無駄にしてきたような気がして、そのツケがいま、自分自身に大きく降りかかっているのではないかと強迫観念に駆られる。したがって片付け仕事では、常に時間との勝負。作業自体を時間に換算して、これをやるにはどれだけ時間を要するか、いつそれをやればよいか、もっと合理的に時間を短縮して出来る方法はないか、などといった具合に時間的概念にうずもれて囚われることが多い。
 そうした時間的概念に囚われているせいか、あれはいつやったのだろうかと、正確な月日まで割り出しておきたい衝動もあったりする。  昭和生まれの私にとって昭和元号での和暦は、比較的時間変遷を認識しやすい。昭和47年に生まれて、昭和54年は7歳。昭和63年は16歳で高校1年。翌年の1月8日に平成元年となり、高校2年が平成の始まりだということは認識できている。しかし、平成になってからは元号への関心が薄れ、例えば平成14年は自分が何歳で何があったかと訊かれても、すぐに答えることができない。平成になってからの元号では、自分の時間的概念がほとんど機能しないのだ。これは個人的な感覚の問題であろうが、平成という年号は完全に疎くなっており、それ以降は西暦でないと物事を思い出すことができなくなってしまっているのである。
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 9月21日付の読売新聞朝刊で興味深い記事があった。笠谷和比古氏の「歴史の年月日 正確な表記を」。歴史本やムック本などで、和暦の月日に西暦をくっつけた間違った表記があって改善を促したいという話。
 そもそも西暦とはなんぞや、とはっきりしなかったので調べてみた。 《西洋の暦法。イエス‐キリストが誕生したとされる年を一年目として年を数え、それ以前は「紀元前」としてさかのぼって数える。また、その暦法によるこよみ。現在、世界の公用紀元として用いられている。西暦。西暦…

写真集『nude of J.』

個人的にここ数年、“舞踏”(BUTOH)というジャンルに寄りかかり、その身体表現の世界をメディアを通じてあれこれ知るようになると、希に興味深いものを見ることがある。「演者の女性たちが屋外で全裸のまま演劇」をやる集団とか、写真家スペンサー・チュニックによる「老若男女の大集団全裸」パフォーマンスとか、遥かにアートの常識を越えた底知れぬ身体表現の世界を覗いたような気がして、人類の芸術史における《奔放》と《叡智》を感じさせてくれる。  そうした時代において、これまでになく写真媒体としてのヌードが問われる時代もない。もはや有名なアイドルが、あるいは女優が、“服を脱いだ身体”を写真集にしてさらけ出しただけでは、見向きもされぬ時代となった。端的に言い換えれば、“服を脱いだ身体”=肉体に限りなく近い身体が「何を演じたのか」が問われる、そこにこそメディアに刮目される時代になった、ということである。
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 写真家・五味彬氏の“YELLOWS”シリーズ写真集を、個人的に追ってきた経緯がある(当ブログ「YELLOWSという裸体」「YELLOWS再考」「YELLOWS RESTARTのこと」参照)。“YELLOWS”は1990年に始動し、1993年にはセンセーションを巻き起こした『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』が発売された。確かに当初、この写真集は、不特定多数の若い日本人女性のヌード写真集、ということだけで話題沸騰になった。テレビのワイドショーでも取り上げられた。言わば、90年代初めのヘア・ヌード写真の先駆である。それまで暗い隠微な地下ポルノ雑誌にあるヌードが、一気に地上に躍り出てファッショナブルなヘア・ヌードをさらけ出した感があり、次々と有名人がヘアを露出させてブームとなった。極端なことに、ヘアさえ見せれば写真集は売れたのだ。
 そうした興味本位的反動の痕跡が、“YELLOWS”シリーズには色濃く残されている。それ故に私はこのシリーズに関心がある。先述のテーゼ=身体が「何を演じたのか」に鑑みて、“YELLOWS”シリーズ写真集に決定的な不具合があるとすれば、まさにそこにきわまれりであろう。被写体となった彼女らは、“何も演じず”に佇立していただけなのだから。
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 1993年の『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』から1999年の『YELLOWS RESTAR…

電算室での想い出―TK-80への考古学的哀愁

最近、PC-6001関連の本や資料を眺めていて、ふと古いコンピューターのことを二、三思い出したりした。

 当ブログで以前書いた「ミニコンに萌え萌え」では、母校の工業高校の電算室で扱っていた、三菱電機の「MELCOM 70」らしきミニコンが懐かしく思えた。高校を卒業したのが1991年なので、もう25年の前のことになるが、その光景はともかく、この電算室でどんな授業を受けていたのか、あまりよく憶えていない。
 ただ、その授業中にクラスメイトの誰かが、以下の文章を工業プログラム用の用紙にプリントアウトしたのだけは、はっきりと記録が残っている(私が文章をコピーしておいた)。
《私は関口○○だ。趣味はGAMEで、毎日平均8時間ぐらいやっている。自分では、少ないと思っているが、最近、GAMEを始めたのだが、謎が解けず困って、友達の家に午前3時に、電話をした。今年のX'masに友達の家に行くことになり、自転車で1時間30分かけて行くことになったが、夜は寒いと思ったので、友達に車で迎えに来るように言ったら、おまえは、自転車で来いと言われた》
 ミニコンを使ったのかPC-9801を使ったのか定かではない。授業中にそんな文章を打って、そのプリントが電算室の中をぐるぐると駆け巡った。私はそのプリントを捨てずに持ち帰ったのである。当時のコンピューターで、まだ漢字変換のワード・プロセッサにも慣れていない高校生がキーボードを睨みつつ、のたうち回りながら数十分かけて熱心に打った文章だ。私はこのプリントに愛を感じ、捨てることができなかった。
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 現在の母校の高校のホームページを閲覧してみると、かつて一部屋を占領していたようなミニコンの存在は、もはや確認できない。ごく普通に日常的に生徒がパソコンを扱っている光景がある。私が卒業した電気科の、現在の実習内容を引用してみると、こうなっている。
《①デジタル時計の製作 ②電磁石の製作 ③3極モーター製作 ④電圧計や電流計製作 ⑤コンピューター・プログラミング ⑥電気工事の実習 ⑦デジタル回路実習 ⑧交流発電機・電動機の実習 ⑨リレー・シーケンス制御実習》
 ほぼ昔と変わらない実習内容だろう。デジタル回路実習というのは、もしかすると我々の頃にはなかったかも知れない。⑨のリレー・シーケンス制御実習は重要であり、電子的な論理回路で2進数を学ぶための…

PC-6001で思い出すこと

年内のいずれかの日に、PC-6001を処分することを決意した。  PC-6001とは、NECの8ビット・パーソナル・コンピューターのことである。私が小学生の頃に使っていた1台と、2002年頃にネット・オークションで入手した同機の計2台あって、6001で扱っていたソフトウェアのカセットテープも10本程度あるだろうか。いずれも古いハードとソフトである。これまでずっと、段ボール2箱に入れて保管していた機器達であり、これらととうとう訣別することを決めたのである。

 どのようにして処分するか、今はまだ決めていない。とにかく家の中が手狭になってきたので、処分しなければ…という気持ちは前からあった。  普通に廃棄するのも構わないが、最近久しぶりにこれらが懐かしくなり、ちょっと引っ張り出してきて、最後の名残とばかり、当時のアドベンチャー・ゲームをロードしてみたりしているうちに、何だかまだ元気に稼働するし、所有するソフトウェアの歴史的な貴重価値(マニアが泣いて喜ぶ)を思ったりすると、誰かに譲った方がいいのではないかという考えも芽生えてきて、さてどうしたものかと思案している次第なのだけれど、これらを手元から離し、周囲の手狭さを解消しなければならないのは、重い腰を上げて確実に実行せねばならぬことでもあった。
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 とにかく今は思い出話に浸ろう。NEC PC-6001は、1981年に発売されたホビー向けのパソコンだった。国内で群雄割拠、あちこちのメーカーでホビー向けのパソコンが生産され、当時これらのパソコンを親しみ込めて、“マイコン”と呼んだ。70年代から80年代にかけて、大“マイコン”ブームがあった(1976年にNECから発売されたトレーニングキット用ワンボード・マイコンTK-80で人気に火が点いた)。  PC-6001は、既に発売されていた兄貴分のPC-8001よりもグラフィックやサウンド性能が幾分優れ、サウンド性能を比較すると、PC-8001が「BEEP音」だったのに対し、6001は「8オクターブ、PSG3重和音」と他のメーカーと比較しても追随を許さなかった(音源チップはAY3-8910)。CPUは8001と変わりない「μPD780C-1/4MHz」で、これはザイログのZ80相当であった。
 あの頃は電子ゲーム、すなわち小型のLSIゲーム機も流行っていた。代表格はナムコの「パッ…

『ポートピア連続殺人事件』の時代

1983年、私が小学5年生の時、猛烈に夢中になったゲームがある。PC-6001版の『ポートピア連続殺人事件』(エニックス/作者・堀井雄二)である。このゲームの概要については、5年前の当ブログ「ポートピア連続殺人事件」で書いた。この度、保管していたPC-6001を引っ張り出して(数年ぶりに引っ張り出したのは別の理由があったのだが)、その実機による『ポートピア連続殺人事件』をもう一度体験してみようという気になり、ソフトウェアのロードのセッティングを企てた。モニターはSONYのBRAVIA20インチ、専用のデータレコーダーは既に無いので、一般のモノラル・ラジカセをその代替とした。
《ある夜おこった密室殺人。キミは部下のヤスをひきつれ捜査にのりだすが、次々死んでゆく容疑者たち。犯人は誰か!港神戸を発端に、舞台は京都から淡路島へ…。「君は犯人を追いつめることができるだろうか?」サスペンスアドベンチャーの決定版!》 (『ポートピア連続殺人事件』パッケージ文より引用)
 このゲームのパッケージがとても印象深い。おどろおどろしいイラストは、さにい・パンセ(という会社か人か?)の作である。背景にある夜の京都・東山、1981年に開催された神戸ポートアイランド博で一躍有名になった愛称“ポートピア'81”の会場の神戸港。さもその港で死体が発見され、そこで女性が取り調べられているかのようなイラストで、事件への好奇な関心を抱くけれども、あくまでこれは脚色的なもので、実際には港では殺人事件は起きない(企画段階ではそんな展開があったのかも知れない)。  ゲームの全体としては、おどろおどろしいイラストとは裏腹に、朗らかにストーリーが進行する。関西弁が時折飛び交うせいか、この妙に明るい朗らかさが、“ポートピア連続殺人事件”の真の姿であろう。まず、そのことを踏まえておきたかった。
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 ここからはストーリーの内容に触れ、完全な“ネタバレ”となるため、注意していただきたい。これからこのゲームに挑戦してみたいと思う人は、とりあえず読まないことを推奨する。
 ――神戸。ローンヤマキンの社長、やまかわこうぞうが自宅マンションの書斎で死体となって発見された旨の一報から始まる。こうぞうの秘書のさわきふみえが第一発見者で、書斎には鍵が掛かっており、マンションの管理人のこみやを呼んでドアを叩き開けてもらっ…