舞踏そしてアラーキーの「顔」論

【荒木経惟著『いい顔してる人』(PHP研究所)】
 先週の当ブログ「写真集『nude of J.』」の中で、写真家スペンサー・チュニックの「老若男女の大集団全裸」パフォーマンスについて僅かに言葉をかすめている。そこで述べたヌード・モデルの《表情》の問題とスペンサー・チュニックの身体表現とは、実に対照的な芸術の方向性を示しており、写真という形態での視覚性は、片や無数の人間達による、もはや個々の表情や肉体の性差すらもとらえることのできないマクロな眼差しがあり、一方で純粋に個々の肉体を精細にとらえ、その人間の《表象》や《表情》を炙り出した等身大の眼差し、というのがある。
 さらに広範な視覚性について述べるとすれば、肉眼を超えた小さな、虫眼鏡や顕微鏡のような極微の眼差しがあり、可視光の限界までをとらえた電子的な眼差しなどもある。身体表現のレベルで視覚性を考えた時、スペンサー・チュニックのマクロの造形から、等身大の眼差しによる肉体の《表象》《表情》までがその範囲に収まるであろうし、舞踏としての身体表現もその範疇のものと定義したい。

 「顔」についてはどうだろうか。私が舞踏というものを探ろうとした矢先、肉体的なdanceの観点ですべてを切り取ろうとしていたことにハッとなった。重大な部分を欠落させていたのだ。「顔」である。舞踏にとって人間の「顔」はどんな意味をもつのだろうか。あるいはどんな意味すらももたぬものなのだろうか。

 ――あらためて宣言する。私はいま“舞踏”(BUTOH)という身体表現の可能性の、虜になっている。この舞踏とやらを単にdanceと訳してしまった場合、それに秘められた「重大な何か」を欠落させてしまうのではないかという不安があった。それはいみじくも的中した。したがってここは、danceではなく、“BUTOH”と記しておいた方が良さそうだとも思える。
 しかしながらもし、danceというものの中に、同じ「重大な何か」が根源的に含まれているのだとすれば、私の一抹の不安は杞憂にすぎなくなる。ただしそれをまだ証明することができない。果たして、私の思い描く“舞踏”とはいったい何だろうか。ともかくそこに秘められた可能性を創造しつつ、音楽(又は音響的表現)の問題を絡ませながら、新しい表現への欲求を膨らまそうとしていることは確かなのだ。

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 そんな中、偶然、荒木経惟の『いい顔してる人』(PHP研究所)のエッセイ本をめくる機会があった。思い出せば6年前、荒木氏の『母子像』を知って興味を持ち、この本を買ったのだった。それは2008年、熊本市現代美術館でおこなわれた『荒木経惟 熊本ララバイ』という写真展であり、募集された一般市民の、40組の母子全身ヌード・フォトが当時話題になったのである。
 それにしても『いい顔してる人』は、帯が面白い。ついつい買って読みたくなるのだ。
《アラーキー生誕70年記念出版 いちばんの裸は顔だよ 過去も現在もすべて顔に出る。用心しろよ! 顔に始まり顔に終わる! 写真家生活50余年の到達点は顔だった! いい顔が増えれば幸せが増える!》
(荒木経惟著『いい顔してる人』より引用)

【アラーキーの『母子像』ヌード・フォト】
 帯さえ読めばどんな内容かだいたい分かる。とにかくアラーキー語録で埋め尽くされた本である。私が興味を持った「『母子像』~母という存在はいちばんいい顔をしている。」のページでも、彼の「顔」論がこれでもかと展開する。
 その内容については割愛するけれど、『母子像』の撮影ではどうやら、「女を忘れるな」というのがテーマだったらしい。アラーキーの魔法の手にかかれば、母として女として、それまで普段あまり見せることのなかったとっておきの“いい顔”を表出させたのではないだろうか。この本では2点の『母子像』フォトが掲載されているが、文句なく“いい顔”である。そこには女としての色気や可愛らしさも感じられる。

 敢えてこの本をヒントにしてみたくなった。先の舞踏についてである。
 何故、彼女らはカメラの前で、そんな“いい顔”を表出させたのだろうか。あるいはそれを隠し持っていたのであろうか。舞踏における身体性の顔=《表情》という問題には、人間以外を演じた場合と人間そのものを演じた場合とでは当然、差が生じる。果たして人間以外を演じた場合、人間以外の《表情》というのが生まれ出てくるものなのだろうか。逆に何故、女は、女としての色気や可愛らしさが《表情》として滲み出てくるのだろうか。
 何か共通項があるはずだ。《表情》とは、「顔」とは、いったい何なのだろうか。できうる限りの想像をしてみる――。しかしまだ、私の想像力は大いなる真理の前に太刀打ちできない。これは課題点である。

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 ところでヌード・フォトと言えば、これまでの私にとってそれは五味彬でありジョック・スタージスであり、ロバート・メイプルソープであった。そういう写真家の写真を思い浮かべることができた。いま私が眺めている『いい顔してる人』(6年前に買った本だけれど)を見て、相対的に、荒木経惟という人の写真をじっくりと鑑賞したのは、これが初めてではないかということに気づいた。
 以前、どこかで遠めから、「さっちん」であるとか、緊縛ヌード(1992年の『午後のリアリティー』)であるとか、『エロトス』の中の一部の写真を見たことがあった。これはこれで強烈な印象が残っているのだが、緊縛ヌードと言えば、私にとってジル・ベルケの写真なのであった。

 どうも私はアラーキーの過去の代表作を思い浮かべるより、「顔」論を展開したあの『母子像』を思い出す方がアラーキーらしさを感じられると思った。そうなりつつある。世の中にはある意味つっけんどんなヌード・フォトが多い中、あの『母子像』の温かみあるモノクロームは、特別な空気を纏ってしまっている。荒木経惟という人の思考や写真への愛着感が伝わったと同時に、ああいうのが自分の思い描く“舞踏”なのではないかと、どこかで感じ始めている。これは私の発見である。

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