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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈八〉

前回はmas氏のライカと新宿の話。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」のシリーズは数えると今回で8回目である。これは私自身の、カメラと写真を軸とした“素行”を紐解く重要な鍵としての(「茶」の精神と絡めたりして)、過去に読み耽ったウェブサイトにまつわる“回想録抄記”となっている。  いま私は、自主制作映画というスタンスで、“ちっちゃな映画”(タイトルは『アヒルの狂想曲』)を本気で創り始めているのだけれど、その“ちっちゃな映画”的なものをかつて創ろうとしていたのが、サブカルで私淑するmas氏だったのだ。私は彼の影響を(ウェブとサブカルの側面で)多大に受けている。mas氏は90年代末頃、アメリカの写真家デュアン・マイケルズ(ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals)に感化され、自身のカメラで撮影した散歩写真を掻き集め、一つのフォト・ストーリー作品を創ろうとしていたのだった。タイトルは、「My Last Pictures」であった。
 いま、“ちっちゃな映画”を創り始めた矢先、私はmas氏のウェブサイトをあらためて思い出す。そこにはサブカルへの深い愛着があった。彼は2000年代初め、自身のホームページ上のアーティクルにその映画創りの話を持ち込んで、読み人であった私にある種の熱量を注ぎ込んだのである。カメラとレンズと、そのアクセサリーを満遍なく揃えること。たっぷりと落ち着いた風情で世界を見わたし、その風景に己の足で大きく踏み出すこと。人生の最大の《余興》であり得るのが、映画ではないかということ――。
§
 とても残念なことに、「My Last Pictures」のフォト・ストーリーのテクストも、そのウェブサイト自体も、今は現存していない(ただし、テクストは私個人がアーカイヴしてある)。それでも今年、彼の別のサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)がWWWのサーバー上に残っているのを発見して、今のところそれは、誰でも見ることができるようになっている(いずれ消えてしまう可能性がある)。更新は10年以上前を最後に途絶えてしまっているが、mas氏がそこに残した、旅行記や家族を写した写真、花などのフォト・ギャラリーとなっており、2000年代に作成したウェブサイトの一端を垣間見ることができ…

PC-6001で思い出すこと

【思い出がありすぎるPC-6001(2008年撮影)】
 年内のいずれかの日に、PC-6001を処分することを決意した。
 PC-6001とは、NECの8ビット・パーソナル・コンピューターのことである。私が小学生の頃に使っていた1台と、2002年頃にネット・オークションで入手した同機の計2台あって、6001で扱っていたソフトウェアのカセットテープも10本程度あるだろうか。いずれも古いハードとソフトである。これまでずっと、段ボール2箱に入れて保管していた機器達であり、これらととうとう訣別することを決めたのである。

 どのようにして処分するか、今はまだ決めていない。とにかく家の中が手狭になってきたので、処分しなければ…という気持ちは前からあった。
 普通に廃棄するのも構わないが、最近久しぶりにこれらが懐かしくなり、ちょっと引っ張り出してきて、最後の名残とばかり、当時のアドベンチャー・ゲームをロードしてみたりしているうちに、何だかまだ元気に稼働するし、所有するソフトウェアの歴史的な貴重価値(マニアが泣いて喜ぶ)を思ったりすると、誰かに譲った方がいいのではないかという考えも芽生えてきて、さてどうしたものかと思案している次第なのだけれど、これらを手元から離し、周囲の手狭さを解消しなければならないのは、重い腰を上げて確実に実行せねばならぬことでもあった。

*

 とにかく今は思い出話に浸ろう。NEC PC-6001は、1981年に発売されたホビー向けのパソコンだった。国内で群雄割拠、あちこちのメーカーでホビー向けのパソコンが生産され、当時これらのパソコンを親しみ込めて、“マイコン”と呼んだ。70年代から80年代にかけて、大“マイコン”ブームがあった(1976年にNECから発売されたトレーニングキット用ワンボード・マイコンTK-80で人気に火が点いた)。
 PC-6001は、既に発売されていた兄貴分のPC-8001よりもグラフィックやサウンド性能が幾分優れ、サウンド性能を比較すると、PC-8001が「BEEP音」だったのに対し、6001は「8オクターブ、PSG3重和音」と他のメーカーと比較しても追随を許さなかった(音源チップはAY3-8910)。CPUは8001と変わりない「μPD780C-1/4MHz」で、これはザイログのZ80相当であった。

 あの頃は電子ゲーム、すなわち小型のLSIゲーム機も流行っていた。代表格はナムコの「パックマン」である。友人の家をハシゴしては、それぞれ持っているLSIゲーム機を交換しながら、放課後の余暇を過ごしたりしていた。特に黄色いボディで目立つ「パックマン」は人気があっていつも取り合いになっていた。
 やがて田舎の町にも、マイコンってなんだ?という話題が飛び交うようになった。あれは確か小学4年生の頃。今までたくさんのLSIゲーム機を所有していたある友人(こいつが「パックマン」を持っていた)が、突然それらの遊びを放棄して、親に買ってもらった新しいマイコンにのめり込むようになったのだ。松下電器のJR-100という機種だった。
 彼の自宅へ行くと、ゴム製のキーボードが特徴の、実にコンパクトなJR-100がテレビの前に置かれてあって、大概そこで彼はカセットテープからロードされたゲームに夢中になっていたのだ。何度かキーボードを触らせてもらったけれど、ゴムのぷにゅぷにゅした感覚が指に残り、変な気持ちになった。
 初めて触ったマイコンがぷにゅぷにゅして、そのぷにゅぷにゅの甘ったるい感覚と、次世代のマシンとして絶対ぷにゅぷにゅなんかしてほしくなーい現実逃避的な感覚とが頭を駆け巡り、「パックマン」の格好良さに比べてなんだいあのぷにゅぷにゅは!と苛立ちを交えながら、私はマイコンへの憧れを強めていった。そして直感的にマイコンというものは、それまでのLSIゲーム機のように持ち寄って交換して遊ぶものではなくなって、もっとひんやりとした、むしろそれをあまり他人には触らせてくれない(ぷにゅぷにゅはしたけれど)、主人だけの桃源郷なのだということに気づいてしまったのである。

*

【美しい落ち着いた配色のキーボード部】
 それから程なく、私の父親がどこからもらってきたPC-6001のカタログを見て私は、これが欲しいのだと感じた。
 その間憧れていたマイコンは実は別のもので(もちろんJR-100ではない)、アメリカのコモドール社のCommodore64だった。JR-100のぷにゅぷにゅキーボードとはまったく違う白と黒の頑丈そうな筐体で、ゲーム・ソフトもたくさんありそうな気がしたのだ。

 しかしこの機種は田舎町では手に入りにくそうだったし、6001のカタログを見ているうちに、「カラーで9色、3重和音の音源」のこちらの方が良さそうに思えてきて、ついに決断してPC-6001が欲しいことを父親に告げたのだった。
 それは何とも不思議な儀式であった。今いかにマイコンというものが子供達の間でも学びの道具=“学習機”として必要であるかを説き、これからの世界はマイコンの時代なのだ、これが使えなければ会社勤めできなくなるのだ、というようなことまで力説した。

 当時、6001のカタログ価格は89,800円だったが、おそらく月賦払いである。結果的に父親がカタログをもらってきた店で購入したのには、少々の理由があった。

 その店というのは、当時同級生だった女の子の父親が細々と経営していた電機店だったのだ。私の家から歩いて10分もかからない近所の、小さな店であった。もともとマイコンを扱うような店ではなく、もっと大型の家電製品を扱う店であった。マイコン・ブームの波で、流行りのマイコンをセールスし始めたのは、どこの電機店も同じ様子だった。

 その女の子は少しぽっちゃりしていたのでよく憶えている。性格はやんちゃで、男子と時々張り合う面もあった。私と父が毎週通っていたスポーツ少年団に入っていたので、私の父と彼女の父親も顔見知りだったのをきっかけに、おそらくうちでもマイコンを扱ってますよ、といった話が出たのだろう。向こうにとってはそれこそ必死のセールスだったに違いない。もしかすると、6001をカタログ価格よりいくらか安く買えたのかも知れない。こうした経緯があって後々、PC-6001が我が家にやってくることになる――。

*

 さて、あれは小学5年の終わり頃だったろうか。
 毎週一緒にスポーツ少年団に行き帰りしていた彼女が、ある日突然学校へ来なくなった。教室では既に噂が流れていた。一家揃ってこの町を去ったのだと。担任の先生は彼女がその日からいなくなったことを、あまり説明してくれなかった。教室では、大人の事情だから、という諦めの雰囲気が漂っていた。

 電機店の経営が火の車だった、というような噂話を、後で聞いた時、私はPC-6001に深い哀しみが宿るのを感じた。いくらリセットボタンを押しても消えることのない、少女の面影を残して。もう33年も前のことである。

コメント

  1. PC-6001で検索していてたどり着きました。
    なんという悲しい結末(´;ω;`)
    たくましくいきていったことを願うばかりです。。。

    返信削除
    返信
    1. コメントありがとうございます。
      いま振り返ると、本当に悲しい“大人の事情”だったのだと思います。友達がある日突然訳も分からずいなくなってしまうのは、切ないですね。
      でも、男子と張り合うくらいの元気な子だったから、きっとどこかで幸せなお母さんになってると思いますよ!

      削除

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

高校で学んだ「清光館哀史」

高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。  「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。  そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。
 子供を連れて汽車の旅を続けていた柳田が、子供に《今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ》と訊かれ、別に悪いわけではないけれども、九戸の小山内の清光館は小さくて黒かったね――と答えるこの随筆の最初の文章が印象的で、教科書には、“当時の小山内周辺”という岩手県九戸郡の地図まで付記されており、神妙な親子の汽車の旅の小景が目に浮かぶようである。しかも紀行への敬慕の度合いが日増しに――少なくとも今、28年という重みで――自己の内心に跳ね返りながら増幅してくる不思議な随筆である。「清光館哀史」をあらためて読み返す意義は、確かにあったのだ。この心持ちの正体は、いったい何であろうか。
§
 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。
 平成2年(1990年)、そのうちの春であったか夏であったか、あるいは秋であったかは思い出せないが、工業高校の3年生だった私は、国…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
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We Are The World―伝説のレコーディング

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 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ…