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PC-6001で思い出すこと

思い出がありすぎるPC-6001(2008年撮影)
 年内のいずれかの日に、PC-6001を処分することを決意した。
 PC-6001とは、NECの8ビット・パーソナル・コンピューターのことである。私が小学生の頃に使っていた1台と、2002年頃にネット・オークションで入手した同機の計2台あって、6001で扱っていたソフトウェアのカセットテープも10本程度あるだろうか。いずれも古いハードとソフトである。これまでずっと、段ボール2箱に入れて保管していた機器達であり、これらととうとう訣別することを決めたのである。

 どのようにして処分するか、今はまだ決めていない。とにかく家の中が手狭になってきたので、処分しなければ…という気持ちは前からあった。
 普通に廃棄するのも構わないが、最近久しぶりにこれらが懐かしくなり、ちょっと引っ張り出してきて、最後の名残とばかり、当時のアドベンチャー・ゲームをロードしてみたりしているうちに、何だかまだ元気に稼働するし、所有するソフトウェアの歴史的な貴重価値(マニアが泣いて喜ぶ)を思ったりすると、誰かに譲った方がいいのではないかという考えも芽生えてきて、さてどうしたものかと思案している次第なのだけれど、これらを手元から離し、周囲の手狭さを解消しなければならないのは、重い腰を上げて確実に実行せねばならぬことでもあった。

*

 とにかく今は思い出話に浸ろう。NEC PC-6001は、1981年に発売されたホビー向けのパソコンだった。国内で群雄割拠、あちこちのメーカーでホビー向けのパソコンが生産され、当時これらのパソコンを親しみ込めて、“マイコン”と呼んだ。70年代から80年代にかけて、大“マイコン”ブームがあった(1976年にNECから発売されたトレーニングキット用ワンボード・マイコンTK-80で人気に火が点いた)。
 PC-6001は、既に発売されていた兄貴分のPC-8001よりもグラフィックやサウンド性能が幾分優れ、サウンド性能を比較すると、PC-8001が「BEEP音」だったのに対し、6001は「8オクターブ、PSG3重和音」と他のメーカーと比較しても追随を許さなかった(音源チップはAY3-8910)。CPUは8001と変わりない「μPD780C-1/4MHz」で、これはザイログのZ80相当であった。

 あの頃は電子ゲーム、すなわち小型のLSIゲーム機も流行っていた。代表格はナムコの「パックマン」である。友人の家をハシゴしては、それぞれ持っているLSIゲーム機を交換しながら、放課後の余暇を過ごしたりしていた。特に黄色いボディで目立つ「パックマン」は人気があっていつも取り合いになっていた。
 やがて田舎の町にも、マイコンってなんだ?という話題が飛び交うようになった。あれは確か小学4年生の頃。今までたくさんのLSIゲーム機を所有していたある友人(こいつが「パックマン」を持っていた)が、突然それらの遊びを放棄して、親に買ってもらった新しいマイコンにのめり込むようになったのだ。松下電器のJR-100という機種だった。
 彼の自宅へ行くと、ゴム製のキーボードが特徴の、実にコンパクトなJR-100がテレビの前に置かれてあって、大概そこで彼はカセットテープからロードされたゲームに夢中になっていたのだ。何度かキーボードを触らせてもらったけれど、ゴムのぷにゅぷにゅした感覚が指に残り、変な気持ちになった。
 初めて触ったマイコンがぷにゅぷにゅして、そのぷにゅぷにゅの甘ったるい感覚と、次世代のマシンとして絶対ぷにゅぷにゅなんかしてほしくなーい現実逃避的な感覚とが頭を駆け巡り、「パックマン」の格好良さに比べてなんだいあのぷにゅぷにゅは!と苛立ちを交えながら、私はマイコンへの憧れを強めていった。そして直感的にマイコンというものは、それまでのLSIゲーム機のように持ち寄って交換して遊ぶものではなくなって、もっとひんやりとした、むしろそれをあまり他人には触らせてくれない(ぷにゅぷにゅはしたけれど)、主人だけの桃源郷なのだということに気づいてしまったのである。

*

美しい落ち着いた配色のキーボード部
 それから程なく、私の父親がどこからもらってきたPC-6001のカタログを見て私は、これが欲しいのだと感じた。
 その間憧れていたマイコンは実は別のもので(もちろんJR-100ではない)、アメリカのコモドール社のCommodore64だった。JR-100のぷにゅぷにゅキーボードとはまったく違う白と黒の頑丈そうな筐体で、ゲーム・ソフトもたくさんありそうな気がしたのだ。

 しかしこの機種は田舎町では手に入りにくそうだったし、6001のカタログを見ているうちに、「カラーで9色、3重和音の音源」のこちらの方が良さそうに思えてきて、ついに決断してPC-6001が欲しいことを父親に告げたのだった。
 それは何とも不思議な儀式であった。今いかにマイコンというものが子供達の間でも学びの道具=“学習機”として必要であるかを説き、これからの世界はマイコンの時代なのだ、これが使えなければ会社勤めできなくなるのだ、というようなことまで力説した。

 当時、6001のカタログ価格は89,800円だったが、おそらく月賦払いである。結果的に父親がカタログをもらってきた店で購入したのには、少々の理由があった。

 その店というのは、当時同級生だった女の子の父親が細々と経営していた電機店だったのだ。私の家から歩いて10分もかからない近所の、小さな店であった。もともとマイコンを扱うような店ではなく、もっと大型の家電製品を扱う店であった。マイコン・ブームの波で、流行りのマイコンをセールスし始めたのは、どこの電機店も同じ様子だった。

 その女の子は少しぽっちゃりしていたのでよく憶えている。性格はやんちゃで、男子と時々張り合う面もあった。私と父が毎週通っていたスポーツ少年団に入っていたので、私の父と彼女の父親も顔見知りだったのをきっかけに、おそらくうちでもマイコンを扱ってますよ、といった話が出たのだろう。向こうにとってはそれこそ必死のセールスだったに違いない。もしかすると、6001をカタログ価格よりいくらか安く買えたのかも知れない。こうした経緯があって後々、PC-6001が我が家にやってくることになる――。

*

 さて、あれは小学5年の終わり頃だったろうか。
 毎週一緒にスポーツ少年団に行き帰りしていた彼女が、ある日突然学校へ来なくなった。教室では既に噂が流れていた。一家揃ってこの町を去ったのだと。担任の先生は彼女がその日からいなくなったことを、あまり説明してくれなかった。教室では、大人の事情だから、という諦めの雰囲気が漂っていた。

 電機店の経営が火の車だった、というような噂話を、後で聞いた時、私はPC-6001に深い哀しみが宿るのを感じた。いくらリセットボタンを押しても消えることのない、少女の面影を残して。もう33年も前のことである。

コメント

  1. PC-6001で検索していてたどり着きました。
    なんという悲しい結末(´;ω;`)
    たくましくいきていったことを願うばかりです。。。

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    1. コメントありがとうございます。
      いま振り返ると、本当に悲しい“大人の事情”だったのだと思います。友達がある日突然訳も分からずいなくなってしまうのは、切ないですね。
      でも、男子と張り合うくらいの元気な子だったから、きっとどこかで幸せなお母さんになってると思いますよ!

      削除

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
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