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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈八〉

前回はmas氏のライカと新宿の話。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」のシリーズは数えると今回で8回目である。これは私自身の、カメラと写真を軸とした“素行”を紐解く重要な鍵としての(「茶」の精神と絡めたりして)、過去に読み耽ったウェブサイトにまつわる“回想録抄記”となっている。  いま私は、自主制作映画というスタンスで、“ちっちゃな映画”(タイトルは『アヒルの狂想曲』)を本気で創り始めているのだけれど、その“ちっちゃな映画”的なものをかつて創ろうとしていたのが、サブカルで私淑するmas氏だったのだ。私は彼の影響を(ウェブとサブカルの側面で)多大に受けている。mas氏は90年代末頃、アメリカの写真家デュアン・マイケルズ(ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals)に感化され、自身のカメラで撮影した散歩写真を掻き集め、一つのフォト・ストーリー作品を創ろうとしていたのだった。タイトルは、「My Last Pictures」であった。
 いま、“ちっちゃな映画”を創り始めた矢先、私はmas氏のウェブサイトをあらためて思い出す。そこにはサブカルへの深い愛着があった。彼は2000年代初め、自身のホームページ上のアーティクルにその映画創りの話を持ち込んで、読み人であった私にある種の熱量を注ぎ込んだのである。カメラとレンズと、そのアクセサリーを満遍なく揃えること。たっぷりと落ち着いた風情で世界を見わたし、その風景に己の足で大きく踏み出すこと。人生の最大の《余興》であり得るのが、映画ではないかということ――。
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 とても残念なことに、「My Last Pictures」のフォト・ストーリーのテクストも、そのウェブサイト自体も、今は現存していない(ただし、テクストは私個人がアーカイヴしてある)。それでも今年、彼の別のサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)がWWWのサーバー上に残っているのを発見して、今のところそれは、誰でも見ることができるようになっている(いずれ消えてしまう可能性がある)。更新は10年以上前を最後に途絶えてしまっているが、mas氏がそこに残した、旅行記や家族を写した写真、花などのフォト・ギャラリーとなっており、2000年代に作成したウェブサイトの一端を垣間見ることができ…

大駱駝艦―白馬の舞踏

【DVD『裸の夏 The Naked Summer』】
 舞踏家・麿赤兒率いる舞踏カンパニー大駱駝艦の合宿ドキュメンタリー映画をDVDで観た。タイトルは『裸の夏 The Naked Summer』である。

 このDVDのパッケージがとてもシンボリックで美しい。何ら装飾を施さない背景。身体の直立。その《裸》の身体が視覚に飛び込んでくる。金色に塗られ、顔と首が白く塗られた無表情の女性。顔をよく見ると紅のアイラインがペインティングされ、狐のお面を想起させる。金色(金粉)は程よく輝いているが、メタリックな機械の冷たさはどこにも感じられない――。
 実はこれがいわゆる大駱駝艦スタイルなのだ。舞踏だとか大駱駝艦が何であるかまったく知らない人に映画の内容を説明するならば、「この映画は、若者達が一生懸命這いつくばって汗を掻き、金粉白塗りのニンゲンになるまでの合宿物語です」と答えるのが簡単でいい。要は、何故若者達が「金粉白塗りのニンゲン」にならなければならないのか、である。これが本当の命題だ。

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 岡部憲治監督のドキュメンタリー映画『裸の夏 The Naked Summer』は、麿赤兒が演じる妖しい人物を所々、映像的に点在させつつ、男女の若者達の“1週間合宿”を親密な目線で追いかけている。映画の公開年は2008年。合宿自体は2003年8月、長野県白馬村にておこなわれた。
 ドキュメンタリーの中心となっているのは、言うまでもなく、長野県白馬村という風景である。白馬村というフィールドに、集まった男女の若者達の動く姿が描かれている。白い雲が映える夏の青空の下、まず何より若者達がよく走る。走ることが若者達の特権である。そうして熱を帯びた身体から汗がほとばしるのを、想像する。「逞しさ」と「弱さ」と「倦怠」とが、一人一人の身体から伝わってくる。彼らは《無垢》な美しさを、纏っている。
 ここに集まった若者達は、まだ自分らが“何者”になるのか、想像すらしていない。それでいて今、何かしたい。何かになりたい。できれば格好良くなりたい…。若い頃は誰しもそう思うのだけれど、物事は《衝動》と《欲望》だけでは成り立たない。
 とどのつまり、大駱駝艦の演者や麿赤兒をどこかで観てしまって、ああ格好いい、憧れる…、漠然とそう思ってしまった人達が集まってきた、そんな雰囲気である。この時点で私は羨む気持ちを覚えた。そんな若い頃に戻ってみたい――。漠然と、漠然と、漠然の中で。漠然と集まってきて、漠然と、空気の良さそうな白馬村の小道をひたすら走り込む。少し漠然と、身体に《試練》をあたえてみている。無論、この“漠然と”した雰囲気に寛容でなければ(そういう下地を用意しなければ)、役者は生まれてこない。育っていかない。大駱駝艦のスタッフと麿赤兒は、実に優しく寛容に、彼らを見つめ、すべてを包み込んでいる。

 合宿の様子から一旦離れ、麿赤兒が師事したという舞踏家・土方巽(タツミは巳巳に共が正しい)の舞踏『肉体の叛乱』(1968年)の記録映像が挟まれていて衝撃的であった。貴重な映像と言っていい。私が演劇をしていた20代の頃、例えば細江英公の写真などで土方の姿を見たことがあったけれど、もはやナマの舞台を観ることも、公演の映像を観ることもできなかった。私にとって土方の舞踏というのは、遠い存在にあったのだ。舞踏を演じている“動く土方”を観ることができるようになったのは、ここ近年のことである(あくまで個人的なことだが)。
 土方は1970年代、大駱駝艦の舞台に立ったのを最後に、それ以降自ら舞台には立たなかったようで、『肉体の叛乱』は彼の舞踏家としての、大きな分岐点的なフォルムであったことは窺える。

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【大駱駝艦・白馬村合宿のドキュメンタリー映画】
 合宿での若者達は、その1週間、衣食住を共にする。若いからよく食い、よく眠るに違いない。食事の様子では白飯、味噌汁、カボチャや野菜煮などが並んでいた。テーブルを使わず普通に食していたのが印象に残った。
 そんな合宿生活全体が、舞踏を“試す”きっかけとなる。米をとぐこと、雑巾掛け、歯を磨くこと、走ること、こうした日常的なコトの中に、身体表現につながるものが潜んでいる。
 麿赤兒はこれを舞踏の「採集」と呼んでいる。普段無意識下で行動している身体と表情には、意識的な“意志の力”を加えてしまうと途端に瓦解する、破綻して壊れてしまう《所作》というものがある。不思議なことではある。
 普段べらべらと快活によく喋る者が、じゃあ台本を渡して長いセリフを言わせようとすると、とてもぎこちなく、急に普段の快活さがまったく見られなくなる現象を、演劇の稽古で経験したことはないだろうか。人が無意識下で働いている身体の動きや表情を、客観的に「採集」してつまみ取ることはとても難しいことなのだが、演劇も舞踏も、そこを何とか苦労してつまみ取って、自分なりの標本とし、技術的な克服を体現した後、息吹をあたえたふうにしなければ、身体表現にはならないのだ。合宿における麿の講義・メソッドの一場面は、若者達にそれを気づかせるような、柔らかく朗らかな実習風景として、映画のハイライトにもなっている。

 ところで麿の舞踏は、「人間本位」由来ではない、その人体の外側の空気の《隙間》であるとか、もっとその外側の何か、あるいは宇宙全体をつかさどる目に見えない《神》のような存在によって「動かされ、生かされる」という思想・信念に基づいている。「動かされ、生かされる」という感覚を持って集中し、何物かによって引っ張られ押され、動かされているような状態をイメージして、個や流体の“動く”仕組みや法則を作り上げていき、これを身体表現の礎としている点が画期的である。
 私は以前、「スタニスラフスキー・システム」由来(もうそう言い切ってしまおう)の演技論の経験のうちに、身体の「リラックスした状態」からでなければ迫真の演技は生まれないことを学んだことがある。しかし、それが外側からの力によって動かされるのだという感覚で演技をした、ためしがない。土方巽の暗黒舞踏も、まず一旦「人間本位」の感覚から逸脱し、それ以外の仕組みや法則によって技術体系を拵え演技を成す、という斬新な発想によって生まれた。麿赤兒の舞踏もその系譜なのだと言えるだろう。

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 時に明るく和気藹々と、時に厳しく真剣な眼差しで、このドキュメンタリー映画は進行する。集団で川遊びをしている光景があったが、あれも見方を変えれば、それ自体が舞踏の稽古なのだよというメッセージになっている。
 若者達がたった1週間で、その境地のなんたるかを理解することは到底できない。どこかを端折り、即席にやらなければ終わらない面もある。「外側から動かされる」仕組みや法則の概念が、公演日に間に合わせなければならぬ時間的制限もあり、若者達の中にも徐々に「人間本位」の舞踏が見え隠れする。
 それはそれとして、目の前に厳然と舞台公演のプレッシャーが現れてきた。自分自身の下腹部を覆う布を型紙に沿って切り取り、自分で身につける物は自分で責任を持つ。もしも下腹部を覆う布が本番中にほどけて性器が露わになったとしても、誰も責めることはできない。自己責任である。

 本番の公演に向けて男子は頭を丸刈りにし、さらに入念な公演の稽古が続いた後、合宿最終日には当日夜の舞台を前にして、皆あのような格好、つまり「金粉白塗りのニンゲン」に変貌を遂げる。社会人としての《個》がそこで一旦消滅し、非日常の舞踏のための《個》がそこに現れる。《個》はニンゲンであってニンゲンではない。
 夜という闇がさらに彼らを豹変させるのだろう。世の中のすべてが闇に包まれるべく、相対的に舞台に照明光が当てられると、「金粉白塗りのニンゲン」達はその光を餌にして元気になった魚のように、ウジャウジャと動き回り、生まれ変わった別の生物となる。

 映画の最後、「舞踏は死の涯てにある」という言葉が根深い。舞踏とは、生きている証としての舞踏なのか、死の淵の一歩手前の舞踏なのか、人間を飛び越えた舞踏なのか。ともかく見る者に様々な何かを訴えかけてくる言葉である。
 私はこう思った。動物ではない植物でさえも、風に揺られて妖しい《獣》のようなしぐさを見せることがある。あれは植物が《獣》なのか、風が《獣》なのか。揺らし揺らされ、世界は動いている。その先は紛れもなく《死》である。《死》と共に新たな《生》が始まり、それを延々と繰り返す。舞踏は《宇宙》そのものなのである、と。私は『裸の夏―』を観た。

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

高校で学んだ「清光館哀史」

高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。  「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。  そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。
 子供を連れて汽車の旅を続けていた柳田が、子供に《今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ》と訊かれ、別に悪いわけではないけれども、九戸の小山内の清光館は小さくて黒かったね――と答えるこの随筆の最初の文章が印象的で、教科書には、“当時の小山内周辺”という岩手県九戸郡の地図まで付記されており、神妙な親子の汽車の旅の小景が目に浮かぶようである。しかも紀行への敬慕の度合いが日増しに――少なくとも今、28年という重みで――自己の内心に跳ね返りながら増幅してくる不思議な随筆である。「清光館哀史」をあらためて読み返す意義は、確かにあったのだ。この心持ちの正体は、いったい何であろうか。
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 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。
 平成2年(1990年)、そのうちの春であったか夏であったか、あるいは秋であったかは思い出せないが、工業高校の3年生だった私は、国…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
 「藤野先生の『頓挫のある口調』について」。  三宝氏は『藤野先生』(魯迅『朝花夕拾』所収)で、魯迅が綴った先生の“口調”にまつわる表現――頓挫のある口調――の翻訳について鋭く言及している。頓挫のある口調とは、いかなる口調であるのかと。  さて、と思い、私は高校時代の筑摩書房の国語教科書を開いた。残念ながらその教科書には魯迅の『藤野先生』は収録されていなかった。書棚を探して皮肉にもそれを見つけたのは、同じ筑摩の『筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫)である。ここに収録されていた『藤野先生』は竹内好訳で、『世界文学大系』第62巻(筑摩書房)に拠っている。私はこの竹内氏の訳版によって、三宝氏が言及する部分を見つけることができた。
 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。  『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。  読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。  私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じで…

We Are The World―伝説のレコーディング

私がレコーディングというものに真剣に興味を持ったのは、中学生の時だ。その頃、USA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」のビデオを観た。今思えば不思議な巡り合わせである。極端な話、このビデオを観ていなかったならば、音楽などやっていなかったかも知れない。
 そのビデオは、レコーディングの光景を如実に映したメイキングで、AKG C-12という名機のマイクロフォンの前でライオネル・リッチーが歌い始めるシーンが印象的。だが、ライオネル・リッチーとマイクロフォンのあいだに、奇妙な“布膜”の存在を“目撃”したのだ。どう見てもそれは、女性が穿く「ストッキング」であった。何故、ライオネル・リッチーとマイクロフォンとのあいだに、女性が穿く「ストッキング」が在るのか。中学生だった私は、思い悩んだ。結局はその「ストッキング」の謎解きこそが、レコーディングという制作現場への興味をいっそう深くし、自らもそれにどっぷりと浸かっていくきっかけになったわけだ。私はこれを、「思春期のストッキング事件」と称している――。
 さて、平成の時代がもうまもなく終わる。そういう時世において、かつては誰もがサビを口ずさむことのできたUSA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」など、“知らない”世代が増えてきているのではないか。そのことを承知の上で、「We Are The World」と私自身の想い出を書き連ねることは、逆にとても有意義なことだと思っている。前稿の「ミックステープってなんじゃらほい?」と多少なりとも繋がりのある話であり、昨年1月に書いた「青空の多重録音」も併せて読んでいただけるならば、この話はもっと聡明になるに違いない。私的なことながら、これは私にとってとても大切な、そしてある意味とても不思議な、歌とマルチ・トラック・レコーディングの話なのだから。
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 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ…