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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈六〉

サブカルで私淑するmas氏のウェブサイトが、ネット上で見つかった。奇跡の発見。過去に抹消されたと思われていた一部のページが、まだサーバーに残っていたのである。思いがけぬハプニングに、私は今、とても昂揚している――。

 ウェブサイト[msbcsnb]http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)。mas氏がかれこれ20年ほど前に耕していたウェブサイトであり、ラスト・アップデートは2008年4月15日となっている。つまり10年ほど前に最後の更新をして以来、ずっとそこに、ネット上で眠り続けていた、ということになる。この10年間、私はまったくそのことに気がつかなかったのだ。
 mas氏のウェブサイトは他にも[mas camera classica]というのがあったが、どうやらそれはこのドメインのディレクトリには残っていないらしい。もともとドメインが別のため、そちらはおそらく、もう現存していないかも知れない。
 この度発見した[msbcsnb]トップのインデックスのページには、彼愛用のクラシック・カメラとレンズによって撮影されたと思われる、奥さんと可愛い娘さんの当時の画像がそのまま残って掲載されている。残念ながらこのサイトは、オーナーであるmas氏とコンタクトを取ることができない仕様になっているが、ともかく私個人の感覚としては、不思議な気がしてならないのである。何故なら、もうこれらはこの世に無いと思われていたのに、本当はそこに在ったのだから――。

 発見したのは、まったくの偶然であった。前回の「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈五〉」の原稿を書く直前、mas氏に関連したワードを試しに検索したところ、このサイトがヒットしたのだった。まさに瓢箪から駒である。トップのインデックス・ページから紐付けされたページはけっこう多く残っているので、どれを閲覧しても懐かしい思いがする。mas氏の撮影された写真を眺め、テクストの隅々までを私はかつて、何度もアクセスして耽読したのだった。
 実を言うと、私自身がプライヴェートで付けている日記を調べたら、mas氏のサイトに関する記述が膨大に見つかった。およそその記述は2004年から2009年にまで及び、彼のサイトに関する感想が短文で記録されていたのである。そのテクストを参考にして今回、あるワードを…

チチ、カエルの想い出

 文化祭シーズンたけなわと言うべきなのだろうか。先日、新聞で茨城県の「県高校総合文化祭」開会式が水戸の県民文化センターでおこなわれたという記事を読んだ。
 総合文化祭いわゆる総文祭は、10月から11月にかけて、県内の各高校文化部が水戸市やつくば市、小美玉市などで創作物の展示や発表、音楽や演劇の上演をおこなうというもので、その10月8日の開会式典では、高校生ら100人による構成劇「真綿のような白雲がみえる」が披露されたという。
 この構成劇は、高校生が過去にタイムスリップし、旧日本海軍の海軍飛行予科練習生(予科練生)と出会うというストーリー。丸刈り頭に白い予科練の制服姿で凛々しく佇立する二人の若者を中心に、もんぺを穿いた女子らが取り囲むという劇の一場面の写真が掲載されていて、私は胸が熱くなるのを感じた。予科練というのは、かつて茨城県阿見町に海軍航空隊があり、今の中学生くらいの少年達が航空技術の基礎を習得するために入隊した練習生部隊である。総文祭で戦争と平和をテーマにした、このような劇に取り組んだ今の若い人達の、真剣な眼差しと情熱とを、紙面から想像しないわけにはいかなかった。

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【菊地寛の『父帰る』を読む】
 翻って、自分が10代の頃経験した淡い、演劇の想い出について書いてみたい、と思った。言わば照明を当てられた側の、ゾクゾクするような体験、を思い出そうとしたのだけれど、私が真っ先に思い出したのは、実はそういうものではなくて、中学校の演劇部で文化祭のために上演した古典劇、菊池寛の『父帰る』なのであった。

 これは、舞台の上の経験というものではない。当時私は中学1年生で、演劇部に入ったばかりの1年生は、役がもらえる状況になかった。したがって私はその舞台に立っていない。仮初めにも“照明係兼大道具係”という裏方があてがわれ、その文化祭での本番では舞台の袖から「芝居を見守る」という、まったく役に立たない体たらくなポジションにあった。

 戯曲『父帰る』を古い新潮文庫版で読み直してみた。いや、台本ではなく菊地寛の戯曲を直に読んだのは、これが初めてである。
 その情景は《中流階級のつつましやかな家》となっており、時代は《明治40年頃》、場所は《南海道の海岸にある小都会》とある。幾分イメージと違っていた。私の記憶に残っていた演劇部の舞台装置の印象としては、もっと田舎の、貧しい家というふうに、かなり錯誤していた。
 登場人物は5人。黒田賢一郎28歳、その弟・新二郎23歳、その妹・おたね20歳、彼ら兄妹の母・おたか51歳、そして彼らの父・宗太郞(父の年齢は記されていない)。

 賢一郎を演じたのは演劇部の部長だった。3年生の女子で、女子でありながら男らしい逞しさというか恰幅のある性格は、賢一郎と瓜二つで適役だと思った。その他の弟や妹、母や父の役はみな3年生と2年生の女子で占められ、稽古の初めこそゆるく、和気藹々としていた雰囲気が、やがて文化祭の本番の日が迫ってくると、異常に口数が減り、態度もずいぶん真面目になって、それがいよいよ本番の前日ともなると、果たしてうまくいくのか、これはうまくいかないのではないかという焦りが先行して、甚だ消極的な緊張感が漂っていたと記憶する。
 ともかく、1年生だった部員の面々は、何の役にも立たなかった。見ているだけであった。本番前日は、本番と同じ校内の体育館を借り切って、何度も繰り返しゲネプロがおこなわれた。
 もしかすると、その日の午後は、演劇部の部員は授業に出なくてもよい、という意向が先生側からあったのかも知れない。かなり長い時間、体育館にこもっていたように思う。ゲネプロは本番通りのリハーサルであり、照明や音響のタイミングのチェックや大道具の移動のリハーサルが入念におこなわれたはずなのだ。

 とは言え、菊地寛の『父帰る』をいま読んでみると、これほど短い芝居だったのかと少々絶句した。私が読んだ古い新潮文庫版(昭和44年改版による昭和57年第41刷版)の解説者の永井龍男氏は、この『父帰る』をべた褒めしているのだけれど、一幕物の戯曲としてはやや唐突な展開であり、各人物の描き方が直情的すぎ、台詞による感情の表現があまりにも素直すぎる。言い換えれば、嘘がなさ過ぎる。例えばシニカルな態度で己の内面を欺く、というような複雑な心理的表現のたぐいはほとんどなく、家族会話としての器用な素振りは何ら無い。
 ちゃぶ台のある六畳の間。賢一郎と母がおたねの結婚話をしているあたりで、新二郎が帰ってくる。そしてかつて出奔してしまった父の姿を見た人がいる、と話を兄に持ちかける。やがておたねも帰ってくると、家の向こう側にこちらの家をじっと見ている年寄りの人がいる、と告げられ、賢一郎達は不穏な面持ちとなる。そこへ、表の戸を開ける人が現れる。父・宗太郞である――。

 あまりにも有名な戯曲であるから、それ以降の展開については割愛する。
 おそらく演劇部で扱ったあの時の台本は、『父帰る』の戯曲を顧問がある程度手直ししたものと思われる。が、充分中学生でも理解できうる内容ではあった。――久しぶりに現れた父を、賢一郎は硬直した態度で詰め寄り、半ば追い出してしまう。しかし父が出ていった後、その気持ちのわだかまりを抑え、弟の新二郎に父を呼び返してこい、と叫ぶのはこの戯曲の白眉であり、劇的な場面である。兄に言われて新二郎は飛び出してみたものの、父の姿はどこにも見当たらない。それを兄に告げた時、この時の賢一郎の感情の剥き出されたもの、あるいは身体に衝撃が走った状態こそが、菊地寛が演劇として描こうとした進歩的表現の真髄であろうかと私は考える。

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 私が当時接した演劇部の部長は、男勝りの面があって、多少日常では、損をしていた。単純に口調が怖いところがあって、1年生だった私はいくらか叱られたこともあったのではないか。故に賢一郎役としては相応しい存在感を示し、部長自らも立派な大役を果たした感のある、思い出深い卒業公演だったのだろう、と推測する。
 『父帰る』のゲネプロが、夜間にまで及んで、最後の最後までそれに夢中になって付き合った1年生らの気持ちの中には、部長やその他の先輩部員の、日頃垣間見られない熱心な姿勢を間近で見ることができ、ある種の格好良さと爽快さがあったはずだ。

 演劇はこうして出来上がっていくものなのかという驚きと、役者が何と向き合い、何と闘っているかを最初に経験したのが、私にとって中学演劇部の『父帰る』なのである。それは台本の型通りの状態から大きく飛び越えていくことになる、貴重な体験であった。

コメント

過去30日間の人気の投稿

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…

拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
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 幼少だった私が初めて心霊写真というものに出会った写真が、この「鬼のお面」の写真だ。
 そこは東京・葛飾区の幼稚園。昭和50年に撮られた写真。私とあまり変わらない年頃の子供達が節分の日であろうか、画用紙に鬼の画を描いて切り取って、自慢げに整列した「鬼のお面」の記念写真。
 右側の背景の下駄箱の上の窓ガラスに、中岡俊哉先生が指摘する“霊体”が写っている。中岡先生の説明では、この霊体は園児に関係のある女性、なのだそうだが、私の眼には髭を生やした近所のおじさんにしか見えなかった。
 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

中野重治の「歌」

高校3年時の国語教科書を開く。筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』。この教科書については、当ブログ「教科書のこと」でも触れており、先日はこの教科書で知った評論家・唐木順三についても書いた。誰しも文学的出発点(文学に目覚めたという意味の)という経験譚はあるようだが、私にとっては、1990年に学んだこの筑摩の、高校国語教科書がどうやらその出発点と言い切っていいのではないかと思われる。  以前もこの教科書から、高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」について掘り下げたことがあるが、この教科書の「現代詩」の章題ページには、高村光太郎の彫刻作品である「腕」のモノクロ写真が掲載されていて、それが異様に迫るものがあり、光沢して白く見える指先から心に突き刺さるものを感じてはいた。ここで括られた「現代詩」は萩原朔太郎の「竹」「中学の校庭」で始まり、高村の「ぼろぼろな駝鳥」、そして中野重治の「歌」、金子光晴の「富士」、山本太郎の「生まれた子に」で閉じられる。どれもこれも、生命をもったことば達の狂った叫び声がきこえてくるかのようで、ひ弱な高校3年生であった私にとっては、鋭く、痛く、他の小説や随筆のように容易に読み砕くことができなかったのである。
§
 その中で最も身体に堪えたのが、中野重治の「歌」であった。第一の《おまえは歌うな》のことばの滑り出しは、あまりにも衝撃過ぎた。  これはこの筑摩の国語教科書全体にも言えることだけれど、すべてがことばとして痛いのである。心がひりひりと痛くなるような作品を敢えて撰修し、ずけずけと入り込んで高校生の悠長な精神を揺さぶりかけるような仕掛けが、あちこちにひしめいていた。そんな痛い筑摩の国語教科書の中で、「現代詩」における中野重治の詩は、あまりにも痛かった。以下、部分的に引用する。
《おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな》 《風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな》 とことばをたたみ掛けたうえで、 《すべての風情を擯斥せよ》  と一徹に恫喝し、 《胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え》  だとか、 《喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ》 《それらの歌々を 行く行く人びとの胸郭にたたきこめ》 (筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』に準じて引用)
 と、盛んに煽動されておしまいまでを読むのに、あるいはそれを声に出して読むのに、どれほどの勇気がいったことか…