スキップしてメイン コンテンツに移動

ミスター・グレイが持っていた『巡礼の年』

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
 村上春樹氏の小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)で、灰田文紹という大学生が登場する。主人公・多崎つくるが通う工科大学の学生で、多崎つくるより2歳年下ということになっている。彼らは大学のプールで知り合う。
 灰田文紹はまだ若いのに、ひどく物知りで哲学的なのである。工科大学では物理専攻で、多崎つくるとは違い、ものを“作る”ことが不得手だと自ら述べている。ものを“考える”のは好きらしい。多崎つくると、ちょっとした哲学的な問答をする場面も出てくる。

 小柄でハンサムで、哲学書やシェイクスピアなどの戯曲を愛読するという灰田。能や文楽にも詳しいらしい。とりわけ、クラシック音楽が好きで、多崎つくるが住む自由が丘のマンションに出入りし、図書館で借りてきたCDや自前のLPレコードを持ってくる。
 そんな灰田が持参してきたのが、ロシアのピアニスト、ラザール・ベルマンが演奏するフランツ・リストの『巡礼の年』(Années de pèlerinage)というLPアルバムである。その中の「ル・マル・デュ・ペイ」という曲に、多崎つくるは反応を示す。高校時代のあるクラスメートの女性の記憶が喚起され、もはや多崎つくるは以後、この「ル・マル・デュ・ペイ」の旋律(=記憶の喚起を含めた想念)から離れることができなくなる。

 灰田は、自分の父親の、ある不可思議な“体験談”を多崎つくるにする。大分県の山中の温泉で出会ったジャズ・ピアニストの話。そしてそれを聞いた多崎つくるは、何らかの心理的影響を受けて、現実なのか夢なのか判然としない不思議な“体験”をする。
 ――かつて高校時代に同じ仲間だった二人の女性。彼女らは乳房を剥き出しにした全裸で自分の目の前に現れる。二人は多崎つくるの肉体を愛撫し、それから一方の女性と重なり合う。そうした性的な行為の最後の射精を受け止めたのは、なんと灰田であった。多崎つくるはその現実とも夢とも分からない“体験”から覚醒した後、何故そんな“体験”をしたのかと混乱に陥る――。いずれにせよ、その“体験”の中で流れていたメロディが、「ル・マル・デュ・ペイ」である。

 灰田はその後、姿を消してしまうのだった。『巡礼の年』のレコードは多崎つくるのもとに残った。彼は灰田という親しい友人を失い、しばし空虚な気持ちに駆られる。
 ところが程なくして、灰田は大学へ戻ってくる。また以前のように二人の付き合いは続いていく。食事をし、クラシック音楽を聴き、読んだ本を語り合う。週末はつくるのマンションに灰田が寝泊まりし、そういう親密な関係が続いた。が、年が明けてまもなく、灰田は大学を去る。この時から多崎つくるは、二度と灰田と会うことはなかった。

*

フランツ・リスト『巡礼の年』
 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説は、主人公・多崎つくるの心理的な変化と、高校時代の仲間だった4人の男女(とりわけ2人の女性)との関係における「深い傷」が軸となり、30代半ばを過ぎた彼が今以て過去の深いトラウマを背負いながらも、なんとかそれを克服していこうとする経験譚であって、フランツ・リストの『巡礼の年』を取って小説のタイトルとしているのは、著者がこれをいみじくも《巡礼》の旅と指標したからに他ならない。したがって、この小説を読み進めることと「ル・マル・デュ・ペイ」を実際に聴くことは避けて通れない、読者への切実なる懇願を意図しているのだ。

 しかしながら実際にラザール・ベルマンの「ル・マル・デュ・ペイ」を聴くと、まるで窮屈な矩形の箱に身体を無理やり押し詰められたかのような、心理的かつ身体的苦痛を伴う。「ル・マル・デュ・ペイ」の旋律と和声の構造には、ある種の耐えがたい息苦しさが感じられる。これを聴くことなく小説の中だけでロマンチックな、ゆったりとした曲を想像していると痛い目に遭う。フランツ・リストの曲は多々、伸びやかさがない固く尖った旋律展開が目立つのだが、「ル・マル・デュ・ペイ」も静かでゆっくりとしたテンポでありながら、暗く、固い旋律で淀み、全体の流れに壮麗さがない。リストの曲がしばしば技巧に依りすぎていると評価されてしまうのはそのせいである。

 ル・マル・デュ・ペイ -Le Mal du Pays-。作中ではこの曲のタイトルについて、ホームシックやメランコリーと訳し、正確に翻訳するのはむずかしいと灰田の口に言わせている。詳しく訳せば、“田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ”とし、そうしたイメージを読者にもそそる。
 確かに主人公・多崎つくるもこの曲を聴いて、《胸の奥にやるせない息苦しさを覚え》たとあり、「ル・マル・デュ・ペイ」のメロディが流れつつ、あの奇妙な性的な“体験”をした箇所を読んで想像すると、あまりにも陰鬱で不幸、言わば主人公が性欲の快楽とは無縁の境地に立たされた衝撃的なエピソードであったことが窺える。ちなみに断っておくが、『巡礼の年』のすべての曲がこのように陰鬱なのではない。

*

 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の書評がネット上で数多く、肯定と否定とに分かれて右往左往、必ずしも論争ではないにせよ量産的なコメントを生み出しているのは、むしろ冷静で健全なのではないか。著名なる村上春樹の作物において、この小説の書評がどのサイトでももし仮に空欄に近かったとしたら、それこそ文学における“ル・マル・デュ・ペイ”である。
 灰田と多崎つくるの大学時代のエピソードにつながる部分というのは、小説の後半になると、主人公の心理の中ではほとんど無い、掻き消された状態となってしまう。
 《巡礼》――すなわちこの小説では特にフィンランド――先でアルフレート・ブレンデルが演奏した「ル・マル・デュ・ペイ」がその場の雰囲気を醸し出す以外、というかそれ以降、物語の様相は大きく変貌し、神妙に感じられたいくつかの謎めいた事柄はついに解き明かされず、多崎つくるにとって今まさに切実な関係である一人の女性の存在だけがクローズアップされる。そしてその胸の内に飛び込んでいけるのかどうか、関係の線が結ばれようとする(あるいは不条理に切り落とされる)寸前のところで、小説は消化不良を呈して終わる。終わるという言い方が語弊なら、小説は読者の想像の中で限りなく続いていくだろうが、与えられた言語として文章としては一応、終わる、のだ。

 この小説が《巡礼》と深く関わっているように、主人公がフィンランドへ訪れたエピソードのもっと先の後年、今度はかつて消息した灰田――ミスター・グレイ――と再会すべく旅を続けるのではないかと、私は勝手に想像してみた。出会った後、壮年を過ぎた彼とつらい旅をするのではないかとも思った。
 私自身が「ル・マル・デュ・ペイ」を聴き続ける以上、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は終わらない。主人公・多崎つくるの、というより私自身の《巡礼》が始まってしまったとも言える。「ル・マル・デュ・ペイ」のせいである。

 さて私はどこへ旅すればいいのか。フランツ・リストの、というかラザール・ベルマンのあの曲はそれほどまでに、奥行きのあるイメージを掻き立てるのだった。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
*
 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
*
 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…