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11月, 2016の投稿を表示しています

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千代田の学校―吹き込んだ風の追憶

梅雨が明けた先月末。その日は猛暑で暑苦しく、歩くのが億劫であったけれど、日差しの強い昼下がり、東京台東区下谷1丁目にかつて所在した、私の母校の千代田工科芸術専門学校の跡地を久しぶりに訪れた――。  私は、たびたび散歩してその跡地を訪れる。数年に一度の頻度でそこを歩き、90年代の在りし日の学校の姿を思い浮かべる。思い浮かべているのは、学校であり生徒であり、その頃の自分自身の姿である。紛れもなく言えることは、そこは私にとって、とても懐かしい場所=空間であるということだ。
千代田の母校については、もう何度も書いてきた。当ブログの2010年9月には「学生必携」、同年11月には「学校の広告」、卒業記念CDアルバムについて記した「アルバム『collage』のこと」、2011年2月には「入学式回想録」、卒業証明書に関しては2012年4月に記した「証明という感触」、講師でジャズ評論家のいソノてルヲ先生に関しては「いソノてルヲ先生―わが青春の日々」といった具合に、こと母校に関しての記述は枚挙に暇がない。ぜひ、ブログのラベルの“千代田学園”をクリックして参照していただけるとありがたい。  5つあった校舎は2000年以降次々と壊され、私が最後に見たのは、2002年頃のカトリック上野教会の裏手にあった1号館で、そこは主にデザイン写真課程の授業で使用されていた7階建ての校舎であった。  1号館の屋上には、鉄製の電波塔(テレビ塔)が設置されていた。これがまた千代田の学校のシンボルでもあった。1957年に学園が発足し、64年には1号館が完成。もともとそこは「千代田テレビ技術学校」であった(放送技術の学校、デザイン系の学校、電子工学系の学校が統合され「千代田工科芸術専門学校」となったのは1980年)。面白いことに、昭和の東京を撮り続けた加藤嶺夫氏の写真集の、昭和46年のこの界隈を写した写真の中に、小さくこの電波塔が映っていたりするのを発見した――。かつてマンモス校であった面影は、限られた写真の中でしかもはや見ることができない。おそらく2002年頃までには、すべての校舎が取り壊されたはずである。そしてその後、私は、何度もこの界隈を訪れた。今そこは、巨大なマンションが建ち並んでいるけれど、私の眼には学校の姿しか映っていない――。
 学校法人千代田学園 千代田工科芸術専門学校の音響芸術科に私が入学し…

岡本舞子―ファッシネイション

前回までで、80年代のアイドル、岡本舞子が出演していた1986年のテレビ番組「うるとら7:00」(うるとらセブン・オクロック)と彼女のシングル・レコード「ナツオの恋人ナツコ」のB面「ファッシネイション」に関する話題を綴ってきた(当ブログ「ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈前編〉」「ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈後編〉」参照)。その面影は、中学2年生だった私にとって、まさにそのシングル・レコードのジャケットに表された通りの、初々しい彼女の姿に凝縮されており、頭の片隅に残る“一輪の花”の記憶とも言うべきものであった。
 思い起こせばその頃、私はまだレコードとカセットテープの連携を主体にしてオーディオ・ライフを満喫していたのだが、86年あたりで念願の、据え置き型CDプレーヤーを購入している。東京・秋葉原の電気街におもむき、“決死の覚悟”で買ったのだ。それはNECのCD-610という機種で、当時の価格は59,800円であった。ちなみにこのプレーヤーは2003年まで“現役”で使用した。  高価なCDプレーヤーは買ったものの、CD自体も高価で、なかなか買えるものではなかった。当時のCDの価格は3,200円ほどであり、よほど欲しいアーティスト以外は800円程度で買えるシングル・レコードで我慢していた時代である。だから、「ファッシネイション」がどんなにカッコイイと思っていても、岡本舞子のアルバムをCDで買おうなどという発想は、一切よぎりはしなかった。そこに山川恵津子が編曲するいくつかのハイセンスな曲が収まっていることを、中学生だった私は知る由もなかったのだ。
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 そうして今更ながら、岡本舞子のアルバム『FASCINATION』のCDを入手した。数日かけて全曲を試聴。  それにしても、『FASCINATION』のジャケットの岡本舞子は、大人びている。きりりとした瞳、少し開いた唇の輝きの恍惚感。当時17歳くらいだった彼女の表情というものは、これほど変わるものであろうか。あの“一輪の花”としての記憶にあった印象ががらりと覆り、もはや私は彼女の印象を、スニーカーにジーンズ姿のそれとして振り返ることができなくなってしまった。
 アルバムのジャケットのせいだけではない。強いて言えば、ここに収録された冒頭の「L.A.LOVER」(松井五郎作詩、久保田利伸・羽田一郎作曲、山川恵津子編曲)、そ…

ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈後編〉

岡本舞子に関する〈前編〉の続きである。こちらは「ファッシネイション」の曲に集中して書いてみたい。彼女のプロフィールにも少し触れておかなければならないだろう。
 80年代のアイドル・岡本舞子は、東京出身の1970年生まれ。1985年、ビクター音楽産業より「愛って林檎ですか」でレコード・デビュー。「第4回メガロポリス歌謡祭」優秀新人エメラルド賞、「第18回新宿音楽祭」銀賞、「第16回日本歌謡大賞」新人賞など数々の音楽賞を受賞し、華々しいアイドル時代を謳歌した。
 私が中学2年生で観ていたテレビ番組「うるとら7:00」、そしてそこでプッシュ・プロモートされた「ナツオの恋人ナツコ」のシングル・レコードを買ったのは、その翌年の1986年のことである。ウィキペディアによると、さらにその翌年の87年に松竹の映画『舞妓物語』(監督は皆元洋之助)に出演するが、秋に引退。わずか3年のアイドル時代であった。  蛇足になるが、1984年の日テレ系のアニメ『魔法の妖精ペルシャ』は当時、私は小学6年生でよく観ていた。金曜日の夕方枠で心地良いアニメ・タイムでもあった。このアニメ『魔法の妖精ペルシャ』のオープニング曲「見知らぬ国のトリッパー」を岡本舞子が歌っていたとは、いま初めて知った。私にとって懐かしい、子供時代の郷愁をそそられる歌であるが、「見知らぬ国のトリッパー」は岡本舞子のデビュー前のシングルだったようで、何と彼女はまだ14歳であった。
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 そんな順当な、実力派アイドルの道を駆け出した岡本舞子が、作曲家・山川恵津子とタッグを組み、そのコンテンポラリーな数々のナンバーに支えられていた背景を知るには、「ファッシネイション」を聴けば充分である。ギターのリフとパーカッションのカウベルでイントロが始まり、当時はまだ斬新であったタイトなリズム・マシンによる軽快なリズム、ドスの効いたシンセ・ベース、エレピ、シンセ・ブラス、その他シンセサイザーによって加えられた装飾的ないくつかのサウンドのディレイ・モーション。  推測するに、これらはFairlight CMI(当時のコンピューター・マシーンによるサンプラー&シンセサイザー。非常に高価な電子楽器だった)のサウンドではないかと私は思った。であるならば、実力派アイドルと実力派アレンジャーによる、相当な制作費をかけた大プロジェクトだったことが想像できる。

ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈前編〉

とりとめもなく、昔のアイドルの音楽の話をしたい。少しミステリアスな部分もあって、個人的には頭の片隅に残って妄想が妄想を呼び、消えることがなかったのだけれど――。
 そもそもこの話を最初に書こうと思ったのは、数年前のことだ。ただその時は、どうしても書けなかった。理由は、話の中心となる肝心なレコードが、自宅に残っているのか否かの“家宅捜査”で手間取ってしまったためだ。  このことに触れるのに、数年も経過してしまった。しかし今、ようやくこれを書くことができる。つまりは、かつて所有していたはずのそのアイドルのレコードが、“家宅捜査”の結果、ついに見つかったのである。何を隠そう、そのレコードとは、1986年発売の7インチ・シングル・レコード、岡本舞子の「ナツオの恋人ナツコ」(ビクター音楽産業)である。  このことは別に、私が当時のアイドルだった岡本舞子のファンだった、というたぐいの話ではない。それから「ナツオの恋人ナツコ」の曲の話をするのでもない。結論を先に書くと、そのシングルのB面の、「ファッシネイション」の話をしたいのである。この曲が何故か、とびきり格好良かった、のである。ちょっとびっくりするくらいに、本当に、異常なくらいに――。
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 その話をする前に、まず私がこのレコードに出合った経緯について、書いておこうと思う。  あれは日本テレビ系列の番組、「うるとら7:00」(うるとらセブン・オクロック)であった。あの番組を憶えている人は少ないかも知れない。土曜日の朝の情報番組で、時代は1986年に遡る。  もはや遠い記憶の彼方にあったため、この番組のタイトルの正確な表記及び番組内容等は、ウィキペディアの助けが必要だった。そう、確かに声に出せば、“うるとらセブン・オクロック”なのだが、表記すると「うるとら7:00」である。そんな番組名でウルトラセブンなんかが出ていたのかい、と思う方もいるかと思うが、冗談ではなく本当に、ごく希にウルトラセブンが出ていた…と記憶する。しかし基本的には情報バラエティなので、ウルトラセブンとは直接関係ない。モロボシダンやアンヌは登場しなかったと思う(ウルトラマンの隊員だった二瓶正也氏は出たことがあるらしい)。
 1986年と言えば、私がまだ中学2年生だった。  少しずつ記憶がよみがえる――。怠惰に満ちていた中学2年の土曜の朝、眠いまなこを擦って黒…

暗黒舞踏と土方巽

1990年代前半、私がまだ20代で演劇に携わっていた頃、役者の基礎稽古やワークショップとして、発声や「マイム」(パントマイム、黙劇)というのは当たり前のように取り入れられていた。「マイム」ではあまり凝ったことはしなかったけれど、一般的には動物や鳥や虫の真似をするところから始まって、その「マイム」によって「何か」に「なる」ことを身体で覚え、段階的に人間のしぐさや手振りへの基礎とする傾向がある。  人間は時に嘘をつく。言葉に裏表があったりする。動作も、意識的に感情とは別のしぐさをすることがある。嘘をつくという意味が極端であれば、「取り繕う」と言い換えていい。人間の営みとは、自然発生的言動と「取り繕う」言動とが複雑に絡められて他者とコミュニケーションが取られるから、そうした人間らしい営みをリアルに芝居すること、すなわち人間の役を「演じる」というのは、実際的にはとても難しい技術なのだ。だから役者の基礎稽古の場では、「取り繕う」ことの少ない人間以外のもので基本形の動きを学び、「何か」に「なる」ことに段階的に慣れておく(身体を慣らしていく)必要があるのである。
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 暗黒舞踏の話をしたい。  私がそうした基礎稽古の経験を日々繰り返していたある時、暗黒舞踏の話題になって一場が笑いに包まれたことがあった。それは暗黒舞踏を揶揄した、嘲笑に近いものだった。暗黒舞踏あるいはアングラの舞台を実際に観たことがなく、まったくの想像上のジャンルに感じられ、実体を掴めていなかったせいもあるのだが、心のどこかで西洋式の演劇に対する優越感があったのも事実である。  暗黒舞踏という言葉から感じられた、ある種の暗いイメージとおどろおどろしいイメージは、それ自体を舞踊としてとらえることができなかった。舞踊として考えるとまるで滑稽な、不自然な(何が自然であるのかさえ理解できておらず)、踊りとはとても思えない感覚があって、むしろあれは「卑俗な演劇である」ととらえることしかできなかった。  人間の営みや日常的に結び付いたものとはいったい何か。何が自然であるのか。そもそも人間とはいったい何であるか。何をもって生きていると言えるのか。我々はいったい、どんな世界に生きているというのか。  暗黒舞踏を「訳の分からない意味不明な身体表現」と定義するためには、それ以外の身体表現が「訳の分かる意味の分かる身体表現」である…

『洋酒天国』とアメリカの古い家

酒の善き友、壽屋(現サントリー)のPR誌“ヨーテン”。《女房は死んだ、おれは自由だ! これでしこたま飲めるというもの。 今までは一文無しで帰ってくると 奴の喚きが骨身にこたえた》というボードレールの「悪の華―人殺しの酒」の散文詩で始まる『洋酒天国』(洋酒天国社)第20号は昭和32年12月発行。表紙はどうやら、1925年T型フォード車らしい。残念ながらというか申し訳ないことに、その図体の大きいボディの先頭は裏表紙の方になってしまっていて、ここでは見られず。しかしぼんやりと小さく、木箱の上に置かれた瓶はやはり、トリスの白ラベルであり、ヨーテン定番のフェイバリット・アイコンである。
 さて、本の中身。まずはヌード・フォト。  ――ここで“ヨーテン”に関する面白い話を、思い出した。小玉武著『「洋酒天国」とその時代』(ちくま文庫)の解説を書いた評論家・鹿島茂氏は、昭和37年の中学1年生の時、既に“ヨーテン”の愛読者だったという。  無論、未成年の彼がトリス・バーの客だったわけではない。鹿島氏の実家は横浜の金沢区で、酒屋を営んでいた。当時サントリーはビール販売の促進のために、いわゆる営業目的で、どうやら酒屋の主人らに“ヨーテン”を配布していたらしいのだ。販売促進の切り札として、“ヨーテン”のヌード・グラビアが武器になったと、鹿島氏は書いている。つまり鹿島氏本人も、そんなオトナの小冊子の魅惑に惹かれ、愛読者になったというわけだ。
 閑話休題。今号のヌード・フォト。2ページを割いた長い黒髪の女性の肢体は中村正也氏の作品。モデルは誰かというのは不明で、どこのページを開いてもその名前は載っていない。モデルが無記名であることを考えると、いつものヨーテン“御用達”日劇ヌード・ダンサーではないと思われる。  それにしても、この肢体のしなやかさはなんとも美しい。絶妙な露光量で黒髪が引き立ち、肌のコントラストが中和され、モノクロームのグラデーションがなめらかに収められている。これぞ中村氏の現像魔術とでも言うべきか。この時代の日本の、モノクローム・フィルムによるヌード・フォトは、そのテクニックにおける一つの芸術的頂点に達した最盛期であったに違いない。
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 香料研究の著書の多い國學院大學の文学博士、山田憲太郎の「ミイラ造りと酒」というエッセイも、読んでみるとなかなか面白い。ここでは匂いや香り…

『洋酒天国』と活動屋放談

三日三晩、ジョルジ・シフラが演奏するリストのピアノ曲「リゴレット・パラフレーズ」を聴いているのだけれど、記憶がない。導入部の演奏からいつも記憶が飛んでいる。スコッチのオールド・パー12年物のせいだ。これを飲んで音楽を聴くと、瞬く間に瞼がとろんとしてプレーヤーの電源が付いたまま朝を迎える。オールド・パーは好きだし、これがまた部類なく心地良いのだが、いっこうにシフラの「リゴレット・パラフレーズ」は謎のままで、私はあの曲を、優しい夜のしじまに語ることができない。
 『洋酒天国』(洋酒天国社)第56号は昭和38年1月発行。映画特集号となっている。昭和38年と言えば、鉄腕アトムが始まり、力道山逝去、アメリカのケネディ大統領暗殺、梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん」が大流行した年であり、レナウンのニット商品のヒットと共に“ワンサカ娘”のコマーシャル・ソングが流行りだしたのは、確かこの頃ではなかったか。  ちなみに映画の話に絡めると、この年の暮れに、私の大好きなサスペンス映画、スタンリー・ドーネン監督の『シャレード』が公開されている。主演はケーリー・グラント、そしてヘップバーン。おそらく私はこの映画を、テレビ朝日系列の「日曜洋画劇場」(解説は淀川長治)で初めて観たのだと思う。「日曜洋画劇場」(当初は「土曜洋画劇場」)が始まったのは昭和41年からで、子供の頃すなわち昭和50年代頃、この日曜洋画劇場のスポンサーだったレナウンのコマーシャルで、“ワンサカ娘”の歌を覚えた。
 たまには検索ワードのために、“サントリー”のPR誌『洋酒天国』と記しておかなければならない、と気を遣ってみる。  第56号の裏表紙は壽屋「赤玉ポートワイン」のおしゃれな広告。壽屋は現在のサントリー。Suntory。サントリーホールディングス。又は燦鳥。これだけワードを並べておけばよかろう。それにしても当時の「赤玉ポートワイン」のコピーがまた甘ったるい。
《野菊の如き君におくってください 甘い生活が始まります 土曜の夜と日曜の朝にはこれです 唇によだれです 赤玉ポートワイン!》《おくりものに 赤・白詰合せ(グラス付き)500円》
 野菊の如き君とは。唇によだれ、とは…。日本の国旗の日の丸を見て赤玉ポートワインを思い浮かべ、急に赤玉が飲みたくなれば、あなたは立派な赤玉通。今宵は赤玉に決まり。キャビネットに3本か4…