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「グリーン グリーン」とA先生のこと

音楽の教科書の中の「グリーン グリーン」
 小学校時代の懐かしい教科書を眺めるのは、私の生活習慣のうちの一つの楽しみとなっている。かつて学校で何を学び、それにまつわる出来事の何を思い出すのか、忘れていた意外な記憶が甦ってくることもあって、古い教科書には眺めるだけの価値と味わいがある。

 音楽の教科書の思い出については、2年前に当ブログ「音楽の教科書―歌と音の悦楽」で触れた。小学5年生の時に使用していた「改訂 小学音楽5」(教育出版)の話である。ちょうど寒い冬の今頃、母校の小学校の3階にあった音楽室の窓から、渡良瀬川の遙か向こうに、澄んだ青空に映えた富士山がくっきりと見えて、それがなんとも情緒を掻き立てて美しかった。校舎の最上階の教室からそういう風景を眺めつつ、音楽の授業に勤しんだなんとも言えない懐かしい感覚は、生涯忘れることはない。

 その教科書をいま眺めていて、思い出した。70年代生まれの我々の世代が、80年代半ばの小学校時代、音楽の授業で習った曲で鮮烈な印象にとどめられているのが、片岡輝作詞、バリー・マクガイアとランディ・スパークス作曲の「グリーン グリーン」ではないだろうか。
 原曲はニュー・クリスティ・ミンストレルズの「Green,Green」だそうで、日本で有名になった《あるひ パパと ふたりで かたりあったさ》の歌詞で始まる8ビートのこの曲には、それまで教科書で習ってきた唱歌や童謡とは違い、いわゆるメロディーの“サビ”があって、この心地良い高音の“サビ”に、子供達は新鮮な感動を覚えたのだった(この曲の原曲が1963年、アメリカのフォーク・グループ、ニュー・クリスティ・ミンストレルズによって歌われたベトナム戦争の“反戦歌”であったことなど、当時知る由もなかった。しかし、日本語訳で7番まで作詞した片岡輝氏は、それをどことなく匂わせる歌詞を、5番と6番に残している)。

§

『改訂 小学音楽5』(教育出版)
 我々子供達はこの「グリーン グリーン」を、しっかり理解していたとは言えなかった。地球又は自然に対する讃歌、あるいは人々の(大袈裟に解釈すれば全人類の)未来への、希望の歌――という程度で認識していた。確かに3番の歌詞がきな臭く、

《あるあさぼくは めざめて そしてしったさ このよにつらい かなしいことが あるってことを》

 を、世の中には良いことも悪いこともあるのさ、と、子供ながら浮き世の有様として受け取ることもできた。だが、朝起きた途端に辛い悲しいことを知るって、いったいどんな状況を指しているのだろう、という疑問もあった。この3番の不穏な雰囲気の歌詞が、あの当時、とめどなく悩ましく思えたのだけれど、それを身の丈のうちの、生活由来の悲しみとして置き換え、元気に歌うことがこの曲には相応しいのだと、そう信じていたのである。
 もちろんこの教科書における「グリーン グリーン」の単元は、“リズムにのって楽しく歌おう”ということと、“ひびきのある歌声をくふうしよう”というのが学習のねらいであった。歌詞を読解することは、そもそも音楽の授業内容として含まれていなかった。もしその時、この曲が、想像とは違った深い意味のある曲だと知ったなら、私自身はどんな感想を抱いただろう。心地良いメロディーに出合えたことの単純な感動よりももっと、緊張感を含んだ繊細で複雑な、音楽に対する政治、いや人々に対する親愛の念を、身を焦がすような熱っぽさとして覚えたかも知れなかった。それは今からすれば、ひどく残念なことのようにも思われる。

§

 「グリーン グリーン」はテンポ126ほどの軽快なリズムの曲である(編曲は宍戸睦郎)。母校での話に戻るが、その前年の担任だったK先生(男の先生)は、クラシック鑑賞の趣味があり、自前のLPレコードを持参してきたりして、子供達にいろいろなクラシック音楽を聴かせる授業をしてくれた。一方、「グリーン グリーン」を習った小学5年生の時は、体つきが豊満な年配のA先生(女の先生)が担当となり、おそらくその頃定年に近かったはずなのだが、とても子供達に優しい先生であって、怒った態度はほとんど見せることがなかった(たとえ怒っても全然怖くなかった)。

 A先生はピアノではなく、ほとんどエレクトーンを使って授業を進めた。最初、「グリーン グリーン」の歌は少年合唱団によるレコードで鑑賞したのだが、先述した2つの単元に関して、その後のこまかな指導では、A先生が直接エレクトーンを弾きながら、子供達がそれに合わせて合唱するというやり方であった。こうして「グリーン グリーン」の授業は数回に分けておこなわれた。
 そしてこのことはとても思い出深いのだけれども、A先生の弾くエレクトーンの伴奏のテンポが、とてつもなく遅かった――。
 あの軽快なテンポで歯切れのよかった少年合唱団レコードとはまったく違い、あまりにものんびりとした「グリーン グリーン」。歌う側の子供達はしばしば退屈な気持ちになった。“サビ”のメロディーの心地良さはどこかに消えてしまっていた。具体的に言うと、A先生のエレクトーンは、どんな曲でも何故かブンチャッチャ、ブンチャッチャといった3拍子のワルツの調子となってしまう。驚くべきことにこの「グリーン グリーン」が、まるで《ねんねん ころりよ》の「江戸子守歌」のように聴こえ、給食を終えた午後の、眠気を誘う歌になってしまったのである。

《ひびきのある歌声》ページ
 “リズムにのって楽しく歌おう”と、“ひびきのある歌声をくふうしよう”については、教科書の「グリーン グリーン」の楽譜ページの隣に、その学習内容として記されてある。「イ」「エ」「ア」「オ」「ウ」の歌の発声の表象写真、①しせい、②息のすい方、③ひびき、④発音と区分され、特にひびきでは、《顔の前でひびくような声にしましょう。(むねやのどに、つまった声にならない。)》とあり、これらは歌唱の仕方として今でも充分に役立つ基本だ。
 囲み表記の「リズムばんそう」では、好きな楽器を使って3つの例のリズム打ちを学ぶ。A先生は実際、歌い方がなかなか上手で、ややビブラートを含んだ透明感のあるアルトであったかと、微かに記憶する。“ひびきのある歌声をくふうしよう”は得意だったけれど、“リズムにのって楽しく歌おう”に関しては、些か不得手だったのか、私自身はこの曲の授業で楽器演奏をした記憶がない。

 いずれにしても「グリーン グリーン」は思い出深い。記憶を辿っているうち、母校のホームページにて、3階にあったあの音楽室を久しぶりに閲覧したくなった。
 しかし、学校の公式ブログを調べても、不思議なことに、音楽室の画像は見当たらなかった。教室の配置図を閲覧したら、その校舎の3階が音楽室なのはまったく昔と変わっていないので、どうやら画像で音楽室を確認することだけは、無理のようである。ただ、私の関心はたった一つ、あのA先生が椅子に座って弾いていたエレクトーンは、今も音楽室にあるのだろうか、ということだ。

 ――いや、当然、あるわけがない。もう33年も前のことである。あの音楽室の正面の右端に据え置かれていたエレクトーン。とても優しい瞳で子供達を見つめ、楽しく話しかけて和ませてくれたA先生の口調は、ほとんどその場所から発せられていた。そういう光景を私はすぐに思い出すことができる。
 A先生が紡ぎ出す“ゆるいワルツ”は、どこか民話的なゆったりとした情緒があった。反戦歌であった「グリーン グリーン」でさえも、それが柔らかく解きほぐされ、子供達の未来の、平和への願いを実践した演奏のスタイルだったのかも知れない。A先生が弾いていたエレクトーンは無くなっていないのだ。そう、私の心に今も、在り続けているのである。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
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