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鶏の画の話

【WWF会報誌『地球のこと』2016年冬号】
 年賀状を書く時期になった。来年の干支はトリである。偶然、本を読んでいてニワトリの水彩画を見つけた。こんな感じの絵が描けたら、どんなに気持ちいいだろう――。

 トリは鳥ではなく酉、つまり鶏であるということが、WWFジャパン(公益財団法人 世界自然保護基金ジャパン)の会報誌『地球のこと』の「いきもの徒然草」というコラムの冒頭で書かれている(「継ぐべし、鶏卵の環」)。十二支の動物はほぼ半分が家畜で些か野性味がない、というような書き出しである。いかにもWWFらしい視点だと思った。それにしてもニワトリの絵が立派。
 干支、十二支。そもそも個人的にはあまりピンとこない。例えば話し相手の「生まれた年の干支」で盛り上がれるだけの知識がない。私はネズミ年、あなたは?ほう、ウマ年。丙午の女は男を食うと言いますな。食う?なぜ?…なぜって言われても…。おそらくそれ以上話が進まないだろう。年賀状のモチーフに十二支の動物が用いられること以外、普段あまり十二支を話題にしたり、「生まれた年の干支」を気にしたりしない。

 古来、十二支は中国の天文学で天を十二分にした呼び名だということらしいが、確かに子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥が書かれたカレンダーがあったりして、馴染みがないわけではない。が、それって何?っていうところで、干支について詳しく誰にも教わったことがなかった。子供の頃、年賀状に十二支以外の動物を描こうとして親に怒られた、という程度の事柄しかなく、干支だとか十二支は、私にとってかなり生活感の乏しい、雑学の範疇に追い遣られてしまっている。

 それはそうと、「継ぐべし、鶏卵の環」では、干支の話から離れて、野生の「鶏」について書かれてあった。ニワトリが家畜化されたのは6千年以上前。アジア南部発祥らしく、ヤケイの類、キジ目キジ科の野鳥が原種、だとか。そこで私も安直にウィキペディアにアクセスして、ニワトリの原種ヤケイ(野鶏)の、セキショクヤケイ(赤色野鶏)を調べてみた。
 セキショクヤケイ。なるほど、これが原種なのか。画像でセキショクヤケイの容姿を見ると、どことなく野性味があり、原種っぽい古風な“威厳”があるではないか。家畜化されたニワトリが人間の生活圏に囲まれてどこかのほほんとしているのと比べ、セキショクヤケイの佇まいは周囲の敵の索敵能力に長けているかのようで、実に精悍としている感がある。「継ぐべし、鶏卵の環」が述べている主旨は結局、この野生のキジ目の308種のうち、77種が絶滅の危機にある、ということであった。

§

 普段私は絵を描かない。年賀状に気さくなニワトリの絵をちょろちょろっと描くなんて、到底無理な仕事だ。だから、年賀状用のデザインのソフトウェアを買ってきて、その中から気に入ったデザインを選んでプリントアウトするしか手立てがない。それでも年賀状は出さないより出した方がいい、という苦肉の策である。子供の頃はというと、まだある程度、無心になって絵を描いていたように思う。大人になってすっかり絵を描くことがなくなってしまった。

 鶏の画を見ると、どうしても懐かしく思い出すことがある。
 小学生の頃。何か特定の主題の写生だったかどうか忘れたが、あるクラスメイトが「チャボ」の水彩画を描いてコンクールで入賞した、ということがあった。そのクラスメイトは、家で飼っていたチャボ(矮鶏)をモチーフに描いたのだった。それが実に見事な絵だった。チャボについて国語辞典で調べてみると、

《ニワトリの一品種。小形で、足が短く、尾は長く直立している。主として愛玩用。インドシナの占城(チャンパ)から渡来した》
(『岩波国語辞典』第七版より引用)

 とある。真っ赤な鶏冠、黒々とした尾羽。力強く画面いっぱいにチャボの全体像を描き、まったく子供らしく活き活きとした絵――。そんなふうに私は憶えている。その時自分が何を描いたかなど記憶にないにもかかわらず、他人が描いた「チャボ」は、しっかりと脳裏に刻み込まれてしまった。その時の放課後――教室の机にかじりついて、担任の先生のアドバイスを受けながら、一生懸命その画を描き上げようとしていたクラスメイトの姿――は、今でも忘れられない光景である。

 小学生の時分、あの真っ白な四つ切りの画用紙がとてつもなく大きく感じられたものだた。これに絵を描いて埋めるなど、自分にとっては辛い、無理難題な大仕事であった。あの「チャボ」の水彩画の目撃は、ちっぽけな身の丈を測量された、一つの好材料であったし、そこに表れていたのは鶏特有の、セキショクヤケイのような“威厳”というべきもの、すなわち描く人の心の自信と豊かさではなかったか。私にはそれがなかった。

 年賀状を書く時期。来年の干支はトリ。鶏の画をどこかで見るにつけ、どうしても「チャボ」を思い出す。しかし、心を挫くわけにはいかない。鶏は奮起の象徴と思って芸の肥やしとしたい。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…