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『洋酒天国』―南米の葡萄酒と罪と罰

当ブログの2014年5月27日付でヨーテンの第44号を既に紹介している。「『洋酒天国』とペルノー」である。最近、懐かしくなってその第44号を手に取って読み返してみた。その中身の内容の充実さと比較して、自分が書いたブログの本文が、随分と物足りないものに思えた。4年前の本文では、サガンとフランスのリキュール酒ペルノーの話に終始しており、粗末とまでは言わないが、ヨーテンの中身の紹介としては、ちょっと天然すぎて調味料的旨味が足りないし味気ない。悔いが残るというか、気分的にもこのままでは体に悪い。ならば――再び第44号を紹介しようではないか、ということで、異例なことながら今回は、『洋酒天国』第44号“再登板”なのである。 §
 壽屋(現サントリー)のPR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第44号は昭和35年3月発行。この年(1960年)を振り返ってみると、ちょうど安保闘争が最高潮に過熱していた頃で、4月にはサドの小説『悪徳の栄え』で猥褻表現が問題視された訳者の澁澤龍彦が起訴されている。いわゆる“サド裁判”である。さらにこの年は、西田佐知子さんの「アカシアの雨が止む時」が流行。いま聴いてもこの歌はいいし、この人の声はとてもチャーミングで男心をくすぐる。西田さんと言えば、いまでも容易に、庶民派の日本酒“菊正宗”のコマーシャル・ソングでその美声とコブシを聴くことができる(曲名は「初めての街で」)。
 昭和35年に日本公開された映画を一つ挙げる。ウィリアム・ワイラー監督のアメリカ映画、チャールトン・ヘストン主演の『ベン・ハー』。これは、ユダヤの青年を主人公にしたキリスト誕生に絡む冒険譚で、言わば泣く子も黙る大長篇映画であった。上映時間は212分。約3時間半と恐ろしく長い。  『ベン・ハー』については、中学校時代の鈍色の思い出がある。おそらく卒業式間際だったのだろうと記憶しているが、正規の授業をほとんどやらない3学期のいずれかの頃、教室で『ベン・ハー』を観る羽目になった。実はその日一日、3学年の授業は限りなくほったらかし状態となったのである。“自習”という授業の名目で、午前から午後にかけて、教室のビデオデッキに『ベン・ハー』のビデオテープがかけられた。担任の先生がレンタル・ショップから借りてきたビデオテープと思われる。  授業を長くほったらかしにするには、何かビデオを流せばいい。それも…

下館の駅

年の瀬。気もそぞろ、後々忘れてしまいそうな、思いがけないありふれた《風景》を記憶に刻み込んでおきたいがため、これを書く。  今年の11月22日、私は亡くなった父の年金関係の書類手続きを済ませるため、同じ茨城県の筑西(ちくせい)市を訪れた。茨城県内の年金事務所というのは、計7ヶ所あって、土浦(2ヶ所)、日立、水戸(3ヶ所)、下館(しもだて)ということになる。筑西市にあるのが、下館年金事務所。私はそこを訪れ、煩雑な書類申請の手続きを済ませた。こう言ってはなんだけれど、まったく“思いがけず”辺鄙なところにその年金事務所がある。田畑と閑静な集落に囲まれた一角に、田舎の郵便局風情の建物があって、中は事務員と来訪者でそれなりにざわざわと賑やかであった。喉が渇き〈蜜柑が食いたい〉と思った。そんなような環境である。

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 “知らぬ町”の雑踏への好奇心は人一倍ありながら、さすがに今回は重要な案件だけに、その日の午前、駅に着いた私は足早に、事務所へと向かった。交通手段はタクシーであった。  タクシーの運転手さんがとても愛想良かった。「年金事務所ですか。私も…二三、年金について相談したいことがあるんですがね」と呟いた。おもむろに私は「はあ」と応えた。しばし会話が途切れた。  「市外からもたくさんの人が、事務所にやってきますよ」と再び運転手さんが口火を切った頃には、既に事務所の前に到着してしまっていた。向こうが年金に関していったいなんの相談を持ちかけようとしていたのか、とうとう聞けずじまいであったが、已むを得ない。それはそうとして、もっと立派なビルディングを想像していたが、事務所の体裁はやはり、どう見ても小さな郵便局である。  それから中で、およそ1時間半くらいかかり、書類の申請手続きが済んだ時は、正午近くになっていた。その場でタクシーを呼び、再び駅に戻った。往路の運転手さんではなかった――。
 駅は、JR下館駅である。地方のどこにでもある普請に真新しい塗り壁を施したような駅舎、と言っていい。ついつい私は茨城県の古い人間なので、“下館市”と口走ってしまいそうになる。が、ここは筑西市なのだ。  駅の反対側には、筑西市の市役所がある。ここはもともと、20数年前に駅前の再開発事業で出来たショッピングモール施設であった。それが十数年前のショッピングモール閉鎖いざこざに伴い、以後新たに計画され…

モニュメンタルなオザケン

ごくごく近いある夜、バッカスがお呼び立てした「宴」が急遽中止となり、ぽかんとした気分でいたところ、俄にその中止の原因が、水面下による、人間の心の疚しく愚かしい《嫉妬》の仕業だと知り、私は心許なく落胆した。水入りである。  出席者同士の対立というのではないのだ。その人にとって不都合な、不条理と思える局面を理性によって目視静観することのできない利己的な「不安」と「気弱さ」が、事の推移を有為に堰き止め、出る杭を事前に打って抑えつけたのである。こうなると、歌によって何事かを表現することが使命の私にとっては、真っ白になってしまう。何もできない。混迷の一瞬とはまさにこのことであり、舞台の板を外されること、あるいはマイクロフォンのケーブルを外されることは、不本意ながら、私の最も怖れる事態なのである。

 直感というのは恐るべき妄想を生む。そうした顛末の渦中、遠い彼方にいるオザケンのことを想った。私はあまりオザケンのことをよく知らない。知らないが、ただ、1995年のあの曲だけは、特別だ。その頃のテレビ・ドラマ『部屋においでよ』(うちにおいでよ。主演は清水美沙、他)で主題歌だった、「それはちょっと」。なんて懐かしい、22年前の曲。久しぶりにそれをプレーヤーにかけて聴いたのだった。  想えばその時以来、私の関心事はオザケンに及ばなかった。いつの日にか気づいた頃にオザケンは第一線から消えてしまった。その消えた理由について、何かそこには不条理な、愚かしい《嫉妬》であるとか、出る杭が打たれ舞台の板を外されただとか、そんなことがあって憤りを感じたのではないかと、私は勝手に妄想したのだ。この裏打ちのない妄想は心のどこかで共鳴し、反復した。言うなれば負となる不条理に、その消えたオザケンに、シンパシーを感じたのである。
 オザケンの「それはちょっと」と言えば、筒美京平だ。この曲の作詞は小沢健二、作曲は筒美京平、編曲が小沢健二&筒美京平。たまたま近頃、往年のグループ・サウンズ“ヴィレッジ・シンガーズ”を調べていたところ、ここでも筒美京平が絡んできて、独特の“筒美サウンズ”が耳の内側を心地良く叩き、ヴァイブした。「それはちょっと」は8分の4拍子のリズムで小気味いい音色によるイントロ、オザケンの“イチ、ニ、some shit!”というハッスル・シャウトがフレーム・インして始まる。が、いかにも筒美京平さ…

羊羹と『草枕』と私

風邪をひいていたから、この前漱石山房記念館を訪れた序で、神楽坂の“物理学校”に寄ることができなかった。悔しい。“物理学校”と言えば、『坊っちゃん』の坊っちゃんである。坊っちゃんは東京物理学校出身で、現在、神楽坂には明治39年建築の校舎が復元され、近代科学資料館となっている。無論、今は“物理学校”とは言わない。東京理科大学である。
 先月の26日、朝日新聞の記事で「『草枕』まるで桃源郷」という宮崎駿監督と半藤一利氏の対談の、“草枕”話を読んだ。『草枕』一つで、二人の語らいが熱を帯びたものになったことが想像される。  私も『草枕』が急に読みたくなった。と同時に、羊羹が食いたくなった。――羊羹。紫黒色の、餡を練ったり蒸したりして固めた菓子――。『草枕』を読むと、羊羹が食いたくなる。確か10年ほど前、『草枕』を読んだ際には、まだそれほど実物の羊羹に心を奪われることはなかった(当ブログ「漱石の『草枕』」)。が、それ以降である。この小説を何度も読み返しているうち、すっかり羊羹という菓子の虜になってしまった感がある。  だから私は今、ある老舗和菓子屋の羊羹を調達したのだ。それを頬張りながら『草枕』の字面を愉しんでいる。その老舗は慶応2年創業というから、考えてみれば漱石の生まれた前年ではないか。『草枕』に読み耽り、漱石山房を訪れ、またちまちまと『草枕』を開いたりしている。風邪はなんとかかんとか、おさまってきたようだ。
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『草枕』を何度も読んでいる。人生のうちにこれほど繰り返して読む小説はあろうか。『草枕』の中の些細な文章が、突然何を思ったか光り輝く瞬間というのがある。それを体験するのがすこぶる愉しい。新聞にもあったが、宮崎監督も《何度読んでも、どこから読んでも面白い》と述べて『草枕』を愉しんでいる。飛行機に乗る時も持っていくそうだから、言わば旅のお供の本である。私もそのように感じることがある。  『草枕』は、本(小説)の体裁よりはむしろ、旅に供する“行李”(こうり)に近い。若者からすれば、漱石と言えば『猫』だの『坊っちゃん』を読んだりして、とかく『草枕』は敬遠されているだろう。私も若い頃はこれを読むことはしなかった。けれども、だんだん自分が世の中の垢にまみれてくると、ほかの癇に触れる小説などは読みたくなくなり、なにかとビターなような文章の字面を、頭に詰め込みたくなる(数字がい…

漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
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 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

父の友だった犬

2018年の干支は、戌(いぬ)=犬である。WWFジャパン(公益財団法人 世界自然保護基金ジャパン)の会員の私は、会報誌『地球のこと』のコラム「いきもの徒然草」を読むのが好きである。冬号の「いきもの徒然草」のテーマは、やはりイヌであった。タイトルは「犬、わが友の物語」。
 ちなみにこの会報誌『地球のこと』についてあらかじめ述べておくと、毎号、実にこまかく丁寧に、地球環境保全の様々なプロジェクトの報告などがなされている。例えば日本は、「エコロジカル・フットプリント」の大きさが非常に大きい、ということが書かれてあったりした。世界の国々の平均値が「地球1.6個分」とやや大きく、地球環境の行く末が深刻に懸念されているのに対し、日本はさらにそれを上回る、「地球2.9個分」も地球に負荷をかけているそうで、これは驚くべき事実である。  こうした会報誌の中身を読んでいくと、地球を消費している側の、切実に身につまされる危機感が込み上げてくるのだけれど、「いきもの徒然草」をふと読むと、その心が一瞬和む。この緩急がなんとも言えない。
 元来、人間は自然を尊び、その自然と「共存・共栄・共生」してきた自負がある。そうしたことを考えるロジックが、コラム「いきもの徒然草」にはいつも含まれている。だからとても思索的で、柔らかい気持ちになる。ただし、今年のこのコラムに対しては、非常に私的な意味合いで、深く寄り添った感が強い。振り返れば今年、6月に同コラムを紹介したときは一角獣のこと、秋号ではシベリアとチェーホフの話、そして今号は来年の干支でもあるイヌの話題。いずれも私自身における、日常生活の機微とその対面の心の思惑とが交差していったのだ。
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 「犬、わが友の物語」。ある戦国時代の侍とその飼い犬にまつわる伝説。  南方熊楠『十二支考』(下巻・岩波文庫)の「犬に関する伝説」では、《犬に宗教の信念あった咄諸国に多い》というくだりから始まって、こうしたイヌにまつわる伝説が列挙されている。熊楠の並々ならぬ博学な、イヌ伝説に関する文献の羅列に無関心ではいられない。読み人は誰しもこれらの寄せ集められた話に感服してしまうのではないか。コラムではそのうち、熊楠が『和漢三才図会』に拠った部分の話を切り出している。
 ――戦国時代の三河国、宇津左衛門忠茂は、白い犬を連れて狩りに出たところ、眠気を催して木下で寝入って…

思い切って森鷗外を読んでみよう〈二〉

中高生の「読解力」が不足しているという前回の話の続き。であるならば、思い切って明治の文豪・森鷗外の小説を読んでみようという魂胆である。  ごく最近の、中学3年の国語教科書、光村図書の『国語3』(平成28年2月発行)を私は入手した。昔の国語教科書と比べると、新しい方は大判というせいもあって重量感があり、レイアウトや図表の鮮やかさでとっつきやすい。教科書としてはとても優れており充実した内容であって、私はこの教科書を、国語力が身につく“読み物”として、たいへん気に入っている。  この『国語3』の中学3年時の学習内容を分かり易く説明すると、相応の国語力を身につけるため、「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」に細分化して学べるようになっている。そのうちの「読むこと」に関しては、詩や小説、俳句、漢文・古文、論説などのジャンルよりそれぞれ作品教材が用意され、語句や文章に注目しながら作品を読み、理解し、味わうということになる。
 『国語3』の「読書生活を豊かに―名作を味わう」は、《移り変わる時代の中で、人々の心に変わらず流れ続けるものを、読書を通じて感じ取ってみよう》という主旨で、森鷗外の短篇『高瀬舟』が用意されている。全文が掲載されているので、これだけですべて読み切ることができるが、中学生用に漢字表記が緩められているから、私は敢えて新潮文庫版の『山椒大夫・高瀬舟』を用意し、こちらを読むことにした。ちなみに教科書の方では、蓬田やすひろ氏のこまやかで闊達な絵がところどころ挿入されていて好感が持てた。
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 かつて私は、学校でお世話になった恩師の若き頃を温ねる旅の一環として、北九州は小倉の、森鷗外の旧居を訪れたことがある(当ブログ「蔵書森―松本清張と恩師を知る旅」参照)。その際、鷗外の小説を疎らに読んだ記憶があるが、遡って若い頃、鷗外の小説としては、『ヰタ・セクスアリス』(1909年)を読んだきり、『舞姫』や『山椒大夫』に関心を抱かなかった。漱石とは比べものにならないほど、鷗外と私は無縁である。  1899(明治32)年、37歳の鷗外は陸軍軍医監となって小倉に赴任する。その旧居はとても質素で、私が直接見たところ、武家の屋敷のような佇まいであった。普請としてだらしのないところが一点もないのだ。1909(明治42)年に小説『ヰタ・セクスアリス』を『スバル』に発表(発禁となる…

思い切って森鷗外を読んでみよう〈一〉

中高生が本を読まない、「読解力」が不足しているということが、昨今あちらこちらで聞かれる。どの程度?ということがよく分からなかったから、ふうーんってな具合で聞き流していた。しかし本当に、深刻らしい。  ちなみに、「読解力」を身につけないと、試験や就職に不利、ということは確実に言える。いやいや、それだけではなく、社会生活を送る上で、あらゆる面で不利、であることは間違いない。  私はここで、「本や新聞を読むことは、とても楽しい」ということを訴えたいのだけれど、いっそのこと「中高生が」という主語を拡大解釈し、それ以外の大学生だって大人だって、けっこう本を読まない、「読解力」が“苦しい人”がいるわけだから、そういう人達もひっくるめて、「読書が楽しい」ということを訴えたいと思うのである。  ならば、だ。ある中学国語教科書を参考例にし、これは私からの「提案」なのだが、思い切って森鷗外の小説に挑戦してみたら――。森鷗外って誰すか?ということも含めて、もし、“あまり面白そうでない”森鷗外の小説が読めて理解できたとしたら、人に自慢できるし、本を読むことの自信がかなりつくのではないか、と思ったのである。  本を読むことが苦手な人にとって、これはとんでもない冒険になるかも知れないが、私は「思いきって森鷗外を読んでみよう」ということをここで提案したい。実は私もあまり、森鷗外が好きではないのだ。

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 とりあえずその話は少し後回しにして、読解力が不足している昨今の云々について書いておく。  むかしむかし、私が高校3年生だった夏休みのある日。前夜から夜更かしをしてしまったせいで早朝になって急に睡魔に襲われ、そのくせ、今日は朝から出掛けなければならない、ということを突然思い出した私は、焦った。そうだった今日は、電気関連の試験を受ける友人に連れ添い、東京の試験会場まで行かなければならないのだ…(自分が試験を受けるわけではないのに)。とにかく眠い眠い眠いと思いながら(むろん電車の中では爆睡。その友人への応対はほとんど「無言の態度」をきめこんだ私)、神田駅だったか御茶ノ水駅だったかに降り立ち、大通りを少し歩いて、試験会場のあるビルに我々は到着した。  まだサラリーマンのごった返す、早朝の時間帯である。午後の待ち合わせ時間を決めた私は、友人と別れ、すたすたとJR神田駅に戻った。そして駅のホームのベン…

拳銃とウエスタンの『洋酒天国』

ネット・ブログで“ヨーテン”に詳しいのは、拙著[Utaro Notes]だけ。といっても過言ではない。これまで『洋酒天国』の中身を3年にわたって不定期で、40冊以上紹介してきた(ブログの“洋酒天国”カテゴリー・ラベルをご参照下さい)のだから。今年3月の「ごきげんよう『洋酒天国』」で一度は締めたものの、気持ち的に再び沸き立って第11号51号と復活投稿。今回は勢いつけて第43号を紹介したい。まあ、よくぞここまで継続できたなと思う。実際に自分で本を手に取って、皮膚感覚で一つ一つページを舐め回しているから、他の古書店などのデータよりよっぽど詳しく書いてきたつもりである。
 それでもしかし、ここまでくると、本の入手はかなり難しくなってきた。巷でよく出回っているのは、私が入手済みの号、ばかりだ。いくら定期的に各古書店を逐一検索しても、ここ最近はすっかり、未入手の号が見当たらない。今後新たに未入手号を買い求めることは、その稀覯本故にいよいよ困難な状況になってきた。特に、創刊間もない初期の1ケタ代の号を入手することは、もはや不可能に近いのではないかとも思われる。  が、こうなった以上、何が何でもすべての号を入手してやろう、実際に手に取ってやろうという意気込みである。古書店に頼らずとも、独自の情報発信によって、未入手の号を掻き集めたい(一時借りるという手段を講じてでも)。稀覯号の入手は、私にとって悲願の道程ということになってきたわけだ――。(※もし『洋酒天国』小冊子をお持ちの方で、お譲りいただける方がございましたら、こちら。
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 まえおきはこれくらいにして、壽屋PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第43号。昭和35年2月発行。ちなみに前号の第42号は、前年12月発行で表紙はフランキー堺さん。実は前号が言わば女性による女性のための“ヨーテン”だったのに対し、今号の43号はその反対。男性による男性のための“ヨーテン”といった内容。それもかなりマニアックなテーマで、何を隠そう拳銃特集なのである。  壽屋がその頃スポンサーだったテレビ映画『ローハイド』(Rawhide)は、人気を博した西部劇(アメリカのテレビ映画シリーズ)だ。恐らくその縁故というかスポンサー的配慮を汲んでの拳銃特集だったのだろう。『ローハイド』の主演はエリック・フレミングと若き日のクリント・イーストウッドというから驚…

クラブ・カルチャーからサブ・カルチャーへの思索

リットーミュージックの月刊誌『Sound & Recording Magazine』の連載コラム「Berlin Calling」(筆者は音楽ライターのYuko Asanuma)が毎号興味深い。とくに先月では、2017年11月号のVol.30「クラブ・カルチャーから問う社会的問題意識」に共感を覚えた。このことについて、想起できるいくつかの事柄を個人的に思索してみたくなり、ここで敢えて取り上げてみたいと思う。

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 日本のクラブ・シーンとは違い、ベルリンのクラブ・カルチャーでは、政治的スタンスを主張するクラブやイベントが多い、というのが、Yuko Asanuma氏(@yukoasanuma)の今コラムのメッセージであった。一つの例として挙げられていたのは、Asanuma氏が参加したベルリンでのパネル・ディスカッションのこと。Cream cake主催で、テーマは「ヨーロッパ音楽における(文化の)交換と盗用」。クラブで(飲食を兼ねながら)「音楽を愉しむ」という感覚とほとんど同軸にして、参加者が各テーマをディスカッションし、意見の交流を推し進めるクラブ・シーンが、ヨーロッパでは定着している。://about blankのクラブでは、営業時間以外で“The Amplified Kitchen”というトーク・イベントが催され、人権問題やサブ・カルチャー的ワークショップが企画されたりしているという。
 日本のクラブ・シーンにおいては、まだまだ音楽的裾野の純度が高く、そこから政治的な主張やサブ・カルチャーへの議論の場へと多岐には広がっていない。個別のパネル・ディスカッションやサブ・カルチャー的ワークショップのイベントは都市に無数に存在しても、アーティストらがそれらを束ねて主催しているシーンは、ヨーロッパと比べてまだ程遠いのではないだろうか。だがそれも、日本の都市圏において同等となるのは時間の問題であるように思われるし、SNSの飛躍的な利用頻度が、「市民力」を以前よりも高めているように感じられる。
 Asanuma氏がコラムの冒頭で何気なく述べているように、「ドイツ人は議論が好き」ということから考えると、一般的に日本人は、仲間内ではよく喋るが、それ以外の他者とは議論が不得意、人見知りが激しい、ということは言えるかも知れない。  私の住む片田舎の街を例に挙げると、確かにこん…

トリスで忙しかった『洋酒天国』

秋雨が長く鬱陶しい。かくも長き雨の日が続くと、くさくさしてしまって、本が恋しくなる。映画が恋しくなる――。  手に取った『洋酒天国』第51号には、古今東西の映画の、酒を飲む名場面を列挙した「目で飲んだ名場面」などという誌面があって、ジェラール・フィリップ主演の『モンパルナスの灯』がほんのわずか触れられており、私はこの映画に興味を持った。実際にこの映画を観たところ、うーんうーんと唸って思わず身体がよろけそうになった。酔っていたせいであろうか。いやいや、この映画…うーん、モディリアーニねえ、と呟いてみても埒があかない。そう、同様にして埒があかないのが、実はヨーテン第51号なのである。

 今年3月のブログ「ごきげんよう『洋酒天国』」で、“ヨーテン”の話題はそれを最後にした…つもりだったのが、すっかり間が抜けた事情により前回は「強精カクテルいろいろ『洋酒天国』」を書き、今回もぬけぬけと壽屋(現サントリー)のPR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)について書く。
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 第51号は昭和36年6月発行。この号よりそれまでのB6判からA5判と大きくなり、中身の趣向が大きく変わる。昭和36年、当時どうやらリバイバル・ブームだったらしく、第51号ではなんと、大正モダニズムの復古調を企て。大正9年に創刊した娯楽雑誌『新青年』をモチーフに、いくつかの随筆やレイアウトを『新青年』の文章そのままで掲載している。  当時壽屋の宣伝部は多忙を極めており、その前号(第50号)の発行(昭和35年10月)からおよそ8ヵ月のブランクがあった。言うなれば壽屋はこの頃、アンクルトリスの広告やテレビ・コマーシャルが大ヒットし、トリスウイスキーの人気と景気で沸いていたのだ。開高健作のキャッチコピー“「人間」らしくやりたいナ”や、山口瞳作の“トリスを飲んでHawaiiへ行こう!”は決定的な殺し文句となった。そうした宣伝部の多忙な影響をもろに受けたおかげで、皮肉なことに『洋酒天国』はブランクを大きく置かざるを得ず、内容的にも心機一転の模索が図られていたのである。
 いずれにせよ、第51号は少々、お堅い。その代わり、硬派な読み物満載である。  トリスバーの陽気な友としての“ヨーテン”の価値は、既にそれまでの旧号で人気を博しており、実証済みである。つまり、お気楽なエッセイとエロティシズム路線。これにユーモアたっぷりのイラス…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈二〉

前回は、ウェブ周りで私が私淑するmas氏の“消えたサイト”「中国茶のオルタナティブ」について書いた。「湯相」又は「湯候」といった湯の温度を音で感覚的にとらえる、などの話であった。  今回は岡倉天心の『茶の本』をしばしかじりたい。そしてまた実際に私が淹れた、ある中国茶の茶葉についても触れておく。触れることで、よりいっそうその魅力に取り憑かれるであろう。茶の世界はなんとも奥深し――。ただしこれは、茶(Tea)の専門家ではない私が、あくまでそれを嗜むための余話であって、こうしたサブ・カルチャーのアーティクルを、自身の音楽活動における精神性の部分に言及できればと考えている次第なのである。その点、ご留意いただきたい。

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 まずは、『茶の本』についてである。20代半ばの頃、あまり書物にお金をかける余裕がなく、しかしながらめっぽう書物に対して好奇心旺盛だった私は、なんとか安く買える本はないかと、書店の岩波文庫の棚を隅々まで眺めた。目に付いたのが『茶の本』である。薄っぺらいこの本は、定価260円ばかりであった。  これはいいと思い、表紙にある文章を貪り読んだ。《禅でいうところの「自性了解」の悟り…》云々の言葉に惹かれ、迷わずこれを買った。それが、この『茶の本』(岡倉覚三著・村岡博訳)である。
 以前、この本について書いた時(当ブログ「『茶の本』を手にして」)、一つの事実誤認が生じていたことをここで述べておく。それに気づいたごく最近、ブログの文中の加筆訂正をおこなった。  とどのつまり、そこには、《表紙には原本『THE BOOK OF TEA』の写真と福原麟太郎の解説の一部が記されている》と書いていたのだけれど、これがまさに事実誤認であった。その解説文は、福原麟太郎が書いた文章ではなかった。本の巻末にある福原麟太郎の昭和36年4月の解説には、そんな文章はどこにもなく、表紙のあれは岩波の寸評抄筆にすぎなかったのだ。  にもかかわらず私は、そうとは知らずに長年、それを福原の言葉だと信じていたのだが、後の祭りである。今回それが判明して、加筆訂正をおこなったが、やや複雑な心境に陥ったものの、当時20代であった私が岩波の『茶の本』を買ったきっかけは、あくまでその解説文であったことに、何ら変わりないのである。
 では一方の福原麟太郎の解説には、どのようなことが書かれているかというと、だいたい…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈一〉

およそ6年くらい前、私が音楽活動(ソロ・プロジェクト[Dodidn*])をウェブ上で新展開するにあたり、ホームページやブログをlaunchするうえでたいへん参考にした“個人サイト”というのがある。mas氏の「mas camera classica」である。mas氏とはまだお会いしたことはないが、もともとクラシック・カメラ愛好家でサイト・オーサーである彼の多趣味な活動は、むしろ雑然とした部分がなく一貫した信念で築かれた、言葉の流麗さに惚れ惚れとすることが多く、どこか異国情緒を漂わせる方であった。現在、そのサイトはない――。なかでも、彼の趣味の一つである「中国茶のオルタナティブ」は、知的な文章に鏤められたサブ・カルチャーの精神性の襞を感じさせた。
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 mas氏のことと、それら“消えたサイト”については5年前、当ブログ「中国茶とスイーツの主人」で書いた。そのうち、消える直前に密かに私がデジタル・アーカイブしておいたウェブページがあり、それが「中国茶のオルタナティブ」なのだ。  もしその時、アーカイブしていなかったならば、そのアーティクルの中身も、私が熟読玩味した記憶すらも忘れ去っていたであろう。非常に奇跡的なことである。最近、漱石の“ロンドン留学日記”を読み返している時、頻りに漱石が茶(Tea)を嗜んでいるのに感化され、私は今になってmas氏の「中国茶のオルタナティブ」を思い出した。そうしてアーカイブしたアーティクルを5年ぶりに開くことができた。  サブ・タイトルを“日本人として中国茶を楽しむということとは何か?”としたmas氏は、そのウェブページを2000年2月から2001年1月まで更新。12のエッセイによって構成していた。中でも特に、その四の「湯相、新たなる聴覚の快楽へ」が興味深く、ここでその内容を紹介することにする。
 「湯相、新たなる聴覚の快楽へ」。サブ・タイトルは「湯相、湯の音を楽しみ、泡の形状を楽しむということ」。  冒頭でmas氏が書き記しているとおり、茶の湯では「湯相」(ゆあい)、煎茶道ではそれを「湯候」(ゆごろ)というのだそうだが、茶を淹れる際、湯の温度を感覚的にとらえるには、湯の音を聞けばいい、という話題である。これが実に奥ゆかしく、風情があって面白い。  ちなみに『日本国語大辞典』(小学館)で「湯相」を引くと、《茶道で、湯加減のこと。釜の煮え…

シベリアに佇むぼとしぎ

人生は目の前の壁をいくつも乗り越えなければならないどころではなく、たとえ鈍足でも前へ向かって歩き、幾たびの山野を跋渉し続けなければならない。やがて、朝日の光が見えてくることを希望に――。  寒々しい秋雨が続く。雨合羽で覆われた額には、前方からしこたま降りそそぐ雨粒が、視界を遮る。雨という奴は。そうした日々、せわしい状況下で心がそわそわしていてもおかしくないのに、妙に落ち着いて、自然とのふれあいに感覚が尖鋭になっている自分に気づく。秋の季節のせいであろうか。いや、もちろん、そのせいだけではないのだけれど。
 心にぽつりと一滴の感動を与えてくれるエッセイがある。WWFジャパン(公益財団法人 世界自然保護基金ジャパン)の会報誌『地球のこと』の「いきもの徒然草」というコラム。毎号、自然界と人間との深い結びつきについていつも感心させられている。  2017年秋号の「いきもの徒然草」は、「シベリアの旅」。『桜の園』で知られるロシアの近代演劇の戯曲家・文豪チェーホフの、短篇「シベリヤの旅」が触れられていた。チェーホフの「シベリヤの旅」(Is Sibiri/Po Sibiri)は1890年、30歳の彼がサガレンへ向かう途上での、シベリアの原野を旅した際の紀行文であり、当時「ノーヴォエ・ヴレーミャ」紙に掲載された。ちなみにサガレンとは、サハリン(樺太)のことである。
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 コラムで引用されていたのは、「シベリヤの旅」のほぼ冒頭部分である(※コラムで参考文献として香西清訳とあるのは、神西清訳の誤り)。この短篇は、
《シベリヤはどうしてかう寒いのかね?》 《神様の思召しでさ》 (チェーホフ著「シベリヤの旅」岩波書店・神西清訳より引用)
 というチェーホフ自身とがたくり馬車の馭者(ぎょしゃ)との会話で始まる。導入部がいかにも、チェーホフらしい妙味を感じさせる。  ツンドラの水鳥の繁殖地を過ぎようとするチェーホフは、それを美しいと評するのではなく、人智のおよばぬ世界に対し、《神様の思し召し》という言葉を拾ったように、人間社会に対する諦念と、その裏側に秘めたる行き届いた神への信仰心、あるいは山野を跋渉する精神とによって複雑な知性を混淆させ、その文体を見事に編み上げている。ある意味これは、魯迅の文学性と近いものを感じるのだが、自然保護を目的とするWWFジャパンのこのコラムにおいては、あくま…

助手をさがす―カプセル怪獣のこと

我が音楽制作[Dodidn*]で音楽活動をやっていて、最近つくづく思った。助手(創作アシスタント)が一人欲しいと――。ついこのあいだ、古いテレビドラマで天知茂さん主演の江戸川乱歩・美女シリーズを観ていて、なるほどと思った。天知さん扮する明智小五郎の探偵事務所の、文代くんと小林くんという二人が、明智の補佐役としてあちこち動き回って活躍するが、ああいうのがいい。ああいう若くて活きがいい、論理的で行動力がある助手――。まあ、贅沢は言わないけれども、そんなような若さあふれる元気な助手が一人いれば、どれだけ助かるだろう。 §
 ふとこうしたことで思い出したのが、ウルトラセブン(1967~68年円谷プロの『ウルトラセブン』)の“カプセル怪獣”=ミクラスとウインダムとアギラの存在だ。  “カプセル怪獣”とは何か――。ガシャポンでカプセルに入った怪獣フィギュアの玩具――のことではない。ドラマの中でウルトラセブンことモロボシダン(森次晃嗣)が、何らかの理由でセブンに変身できない時、急場のピンチをしのぐため、小型ケースに収納されているカプセルを投げつけると、すぐさま怪獣が現れて悪い星人や敵の怪獣としばし闘ってくれるのだ。しかし彼ら(ミクラスとウインダムとアギラ)は実に弱いため、死なない程度に闘ってもらって、ダンが頃合いを見て怪獣をカプセルに戻すのである。
 第1話「姿なき挑戦者」でその“カプセル怪獣”ウインダムが登場し、第3話「湖のひみつ」でミクラスが登場。第10話「怪しい隣人」では、ピンチに陥ったダンがここぞとカプセルを投げつけるのだけれど、四次元ゾーンだったから不能で怪獣は現れず、困っちゃった…という場面もあった。そのほか、ウインダムは第24話「北へ還れ!」や第39話「セブン暗殺計画 前編」に登場。ミクラスは第25話「零下140度の対決」に登場する。  で、もう一つの“カプセル怪獣”アギラは、いったい第何話で登場したのか。自称・ウルトラセブン・フリークの私でも、ついつい忘れてしまいがちなのがアギラ。アギラって、どこで何をしたんだっけとあまり思い出せない。
 こうなると仕方ないので、『ウルトラセブン』のDVDライブラリーを観返すことになる。  そう、アギラは、第32話「散歩する惑星」に登場するのだった。地球を侵略する惑星=浮遊する島は、強力な電磁波を発して地球防衛軍のあらゆる電…

夜の夢の銘酒―御慶事

地元、茨城県古河市の地酒「御慶事」で一人酒を嗜む。近所の酒屋におもむくと、これまたいかにも酒の好事家の親爺さん(店のご主人)がいて、業務用の冷蔵庫から新聞紙にくるまれた「御慶事」の瓶を取り出してきて、しばし酒談義をする。その間、銘柄が見えずとても謎めく。酒の話をする時の、この親爺さんのうるうるとした瞳と甲高い声が、その美味さを想像させる。そんな時の私は、親爺さんの話などほとんどもう耳に入らず、今宵の酒の肴は何にしようかしらんということで頭がいっぱいになる。ともかく、どんなに気の利いたテレビ・コマーシャルやポスター広告だろうと、この親爺さんの笑顔のそれには、かなわない。顔を見るだけで酒が呑みたくなる。
 「御慶事」特別本醸造の美味さは申し分なく、程よい辛さと甘さのバランスが絶妙で、肉だろうと魚だろうとパスタだろうと、酒の供となる膳は選ばない。蔵元は古河市の、天保2年創業の青木酒造である。青木酒造株式会社は本町2丁目という所にあるのだが、この近辺がまた私にとっては懐かしい場所で、当ブログ「『魚の賛歌』の時代―古河市公会堂というファンタジア」で書いた、かつて私が演劇をしていた頃に毎週訪れていたあたりなのである。稽古が終わった夜、大きなイチョウの木の下の、細い脇道を通り過ぎるその真横は、青木酒造の裏手になるのだった。ここより少し歩いた所には別の小さな酒屋があり、今でこそ「酒造」と「酒屋」を道々目にすると思わず、気持ちが高鳴ってしまう私でも、まだ20代のあの頃は、ただひたむきに演劇と音楽に夢中になっていただけの、ある意味つまらぬ余白のない男であった。
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 ただし酒というのは、どんなアルコール度数の酒であろうとも、ちょっと疲れただけでは済まないストレスを感じる時や、悲しくてズタボロな気分の時には不味くなるので、だいたいそういう時は呑まない。逆に、突然の祝い事や嬉しいことがあった時、あるいは何か日常の中で明るい兆しが感じられる時に呑む酒は、天から花吹雪が舞うかの如く、すこぶる美味いのだ。また私は、酔い潰れるような深酒は好まない。
 普段ウイスキー党を自負する私の、ささやかな日本酒へのこだわりというのは、本当に大したことではない。なんとなく「御慶事」に限っては、地酒ということもあって、その愛着感が一肌分、他の酒よりも熱い。「御慶事」の大吟醸(平成28年度全国新酒鑑評会で金賞…

じゅんのとcram schoolの世界

8月に劇団鴻陵座の演劇公演を観たのはつい昨日のことのようでもある。そこでオープニングとエンディングテーマを提供していたロックバンドcram schoolの音楽について(厳密にはその音が)、この1ヶ月半近く、私の頭の片隅でずっと鳴り響いていたように思う。  これを書いている現在では、ヴォーカルのじゅんの(齊藤隼之介)が弾き語りという形であちこちのライヴハウスに出没して活動している。そしてこれを書き終えた後も、彼は何かしら流動的に変化して活動を続けるだろうから、いま私が書けるのは、オープニングのテーマであった「Oh My God!」とエンディング曲の「広がる」、そして彼らcram school(Vo&G齊藤隼之介、Gt雜賀黎明、EB竹内蓮、Drm高林洸来)の3曲アルバムCD『投影法e.p.』(1.「レイトショウ」、2.「三月ウサギ」、3.「広がる」)の音楽についてである。 §
 先述した鴻陵座公演の稿(当ブログ「劇団鴻陵座『OH MY GOD!』を観たの巻」)で私は、cram schoolの音楽について、ほんの少しばかり、このように書いた。 《オープニングテーマを提供しているcram schoolの音楽が心にしみて、モノゴトが溢れかえって過敏症だらけの世の中の個人の心持ちを代弁するかのようで、その音と声の熱量は、こもって熱い。いい曲だ》――。
 アルバム『投影法e.p.』のサウンドでも、4人のそれぞれの音が剥き出しのまま、まるで呼吸と無呼吸とをかいくぐって迫ってくるかのように、力強く耳に押し当てられて私は、溺れかけた。「レイトショウ」における歌詞では、 《そういえば東京は今日もいつも通り それでも確か明日も来るみたい 僕はほら、その、恋をして 生きてることすら忘れそうだ》  と呟かれ、 《抱きしめてもいいかな 変わってしまっていない夜》  と語られる時、これを書いたじゅんのの寂しさを想った。
 いつからこの世の中が、個人の「生きてる」ことが《自由》ではなく、何か見えないものに押し当てられた、頑ななカリキュラムになってしまったのか、あるいはそう感じざるを得なくなってしまったのか、私はcram schoolの音楽を聴きながら思ったのだ。《抱きしめてもいいかな》の後の《変わってしまっていない夜》のあいだには、途方もないこの世の中に来てしまった絶望感を味わう、“だけど”…

しらべものと『言海』

最近食い付いて読んだ、「6千冊の辞書を収集した校正者」という見出しの、朝日新聞朝刊9月21日付の記事。その校正者とは、フリー校正者である境田稔信さん。三省堂のウェブサイトでは、境田氏が連載する「三省堂辞書の歩み」が面白く、今月の連載では「新撰支那時文辞典」について紹介されていた。言わずもがな、境田氏は辞書マニアである。  新聞の記事に目を戻すと、《愛着ある国語辞典「言海」だけで260冊》という文に驚愕する。国語辞典『言海』は、明治時代に文部省より命を受けて起稿された、国語学者・大槻文彦編纂の権威ある辞書で、古くから愛好家が多く、現在、ちくま学芸文庫より昭和6年の六二八刷を底本にした覆製版が出ている。この覆製版においては1300ページを超えており、ちくま学芸文庫としてもその本の厚みが並々ならぬ破格の分厚さを誇る。
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 ちくま学芸文庫の覆製版『言海』は、縮刷版ではない。これは本の中の「『言海』解説」(筆者・武藤康史)に書かれてあることだが、最初明治22年から24年にかけては、大形本で4つの分冊となっていた。それが結局、一冊本になったが、明治37年に小形本が、明治42年には中形本が出た。ちくま学芸文庫の『言海』はこの小形本の覆製版であり、21世紀復刻に際しての縮刷版ということではない。ただ、小形本は“大形本の縮刷版”ではある。文庫本でこの分厚さでは、相当なる活字のこまかさに辟易するものの、あくまで当時と同じ小形本の、“大形本の縮刷版”なのである。  またこれも「『言海』解説」に書かれてあることで恐縮するが、私がこのちくまの『言海』を買って、真っ先に調べたのは、夏目漱石が『言海』を使用していた節のある、小説の中の文章と、漱石の書簡に記された“言海”についてであった。小説の方は『明暗』(大正5年)で、書簡の方は、大正元年に岡田耕三氏に宛てた手紙の中に、“言海”という語が出てくる。これらは『漱石全集』の総索引で簡単に調べることができる。
 ということでこの古い国語辞典の『言海』を使って、敢えて語釈を調べてみたりすると、なかなか深々とした妙味がある。  例えば最近、個人的に漱石の『坊っちゃん』を読了したのだが、それに関連して、明治28年11月の小論「愚見教則」(漱石が愛媛県尋常中学校の「保恵会雑誌」という書物に教育論的人生訓をつらつらと綴ったもの)を読んでみると、《真率と…

強精カクテルいろいろ『洋酒天国』

今年3月2日付の「ごきげんよう『洋酒天国』」を機に、私は一切合切、自身のヨーテン・ライブラリー数十冊を古書店に擲ってしまった。書棚に大きな隙間ができた。これできれいさっぱり、ヨーテンを忘れ去ろうという気でいた。昭和30年代のトリス・バーで人気を博した壽屋(現サントリー)のPR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)の無類の面白さは永遠に――とは言え、あまりにも古びたこれらの本をずっと手元に所有しておくことは、我が蔵書の管理の関係で難しくなり、結果、断腸の思いでヨーテンの“卒業”、という気分になったのであった。  ところが――。  数ヵ月前、『洋酒天国』の本を古書店に擲った後のこと、書棚を整理していると、ひょっこりと一冊、ヨーテンが現れた。なんとそれは第51号であった。第51号を所有していたとは、すっかりそのことを忘れていて、かつ、まったく別の場所に紛れ込んでいたから、古書店に送ったヨーテン・ライブラリーのリストに数えられていなかったのだ。  かくして第51号は自宅に残留した。もはやこれは手放さないでおこうという気持ちになった。次第に私の気分は、再び昂揚して、ヨーテンのユーモアと華やかさが懐かしくなっていった。気がつけば――とある古書店からまたまた、レアで珍品のヨーテン第11号を入手してしまったのである。これはいかん。これはいかんぞ。  こんな調子で私は、いま、ヨーテン熱が復活してしまった。熱を冷ますのに時間がかかりそうだ。期末試験に不合格。赤点で留年決定――。ごきげんよう、どころではない。『洋酒天国』からまったく“卒業”できていない。ともかく、ままならぬ欲心復活ということでご留意、ご勘弁願いたい。今回は、その第11号を紹介してしまおう。
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 ヨーテンをしげしげと眺める。やはりいいものだ。最高の友である。トリスのハイボールを飲みつつ、読み耽る。久しぶりに格別なる酔いの気分を味わう。  『洋酒天国』第11号は昭和32年2月発行。表紙は坂根進。本を開いた扉には、《恋する者や酒のみが地獄に落ちたら天国は人影もなくさびれよう!》という含蓄ある小川亮作訳のオマル・ハイヤーム(ペルシアの詩人ウマル・ハイヤーム、Omar Khayyám)の「ルバイヤート」の詩と、柳原良平氏のイラスト。これぞ、ヨーテン酔狂の世界。昭和32年2月とは、これまた遠い「昭和」の昔々である。  第11号発刊まで…

中野重治の「歌」

高校3年時の国語教科書を開く。筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』。この教科書については、当ブログ「教科書のこと」でも触れており、先日はこの教科書で知った評論家・唐木順三についても書いた。誰しも文学的出発点(文学に目覚めたという意味の)という経験譚はあるようだが、私にとっては、1990年に学んだこの筑摩の、高校国語教科書がどうやらその出発点と言い切っていいのではないかと思われる。  以前もこの教科書から、高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」について掘り下げたことがあるが、この教科書の「現代詩」の章題ページには、高村光太郎の彫刻作品である「腕」のモノクロ写真が掲載されていて、それが異様に迫るものがあり、光沢して白く見える指先から心に突き刺さるものを感じてはいた。ここで括られた「現代詩」は萩原朔太郎の「竹」「中学の校庭」で始まり、高村の「ぼろぼろな駝鳥」、そして中野重治の「歌」、金子光晴の「富士」、山本太郎の「生まれた子に」で閉じられる。どれもこれも、生命をもったことば達の狂った叫び声がきこえてくるかのようで、ひ弱な高校3年生であった私にとっては、鋭く、痛く、他の小説や随筆のように容易に読み砕くことができなかったのである。
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 その中で最も身体に堪えたのが、中野重治の「歌」であった。第一の《おまえは歌うな》のことばの滑り出しは、あまりにも衝撃過ぎた。  これはこの筑摩の国語教科書全体にも言えることだけれど、すべてがことばとして痛いのである。心がひりひりと痛くなるような作品を敢えて撰修し、ずけずけと入り込んで高校生の悠長な精神を揺さぶりかけるような仕掛けが、あちこちにひしめいていた。そんな痛い筑摩の国語教科書の中で、「現代詩」における中野重治の詩は、あまりにも痛かった。以下、部分的に引用する。
《おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな》 《風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな》 とことばをたたみ掛けたうえで、 《すべての風情を擯斥せよ》  と一徹に恫喝し、 《胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え》  だとか、 《喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ》 《それらの歌々を 行く行く人びとの胸郭にたたきこめ》 (筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』に準じて引用)
 と、盛んに煽動されておしまいまでを読むのに、あるいはそれを声に出して読むのに、どれほどの勇気がいったことか…

すどうへいちょうと土屋さん―『電送人間』

今年、かつて東宝映画の名俳優だった土屋嘉男さんが亡くなられ、個人的に記憶に残っている黒澤明監督の『七人の侍』での火傷を負った撮影話を想い出しつつ、土屋さんが出演した映画を何か観たいとずっと思い続けていた。脇役に徹して外連味のない名演技を残した映画の中に、1960年(昭和35年)の東宝映画『電送人間』というのがある。主演は鶴田浩二、白川由美、中丸忠雄。この映画においては、土屋さんは比較的地味な刑事役ではあるが、彼のダンディズムとリアリズムにのっとった演技がとても渋く、私の脳裏からその一挙手一投足が離れない。
 以下、出演者の敬称略をお許しいただきたい。この映画『電送人間』自体もまた、奇抜で異様に満ちていて面白いのだ。監督は福田純。円谷英二が特撮技術監督。なんと言っても東宝の特撮モノとして、『電送人間』はその映画史上に燦然と輝く“変身人間シリーズ”の第2弾作品であり、白川由美と佐原健二主演の『美女と液体人間』(1958年)がその第1弾、三橋達也と八千草薫主演の『ガス人間第一号』(1960年・正しい表記は『ガス人間㐧一号』)が第3弾となっていて、内容的にはどれも甲乙つけがたい。
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 映画『電送人間』の原作は、海野十三の丘丘十郎名義の「電送美人」だそうである。ウィキペディアにそう記されていた。調べてみると確かに、三一書房の『海野十三全集』の別巻には、“未完作品”として「電送美人」が収録されている。が、この未完作の「電送美人」はいったいどのような内容で、しかもこれがどのような経路で東宝の制作スタッフに知られ、企画が進んでいったのかについて、私は『電送人間』の制作にまつわる詳細な記録等を掴んでいないから、まことに惜しくも、ここでそれらを詳らかにして書き述べることができない。

 若者や子供連れの家族がひしめく遊園地の一角に、どう見てもこの場所と不釣り合いな中年の男が、お化け屋敷のアトラクション(スリラーショウ)の洞窟の中へ入場する。そしてこの暗い洞窟の中で、中年の男は何者かによって刺殺されてしまう。何者かは忽然と消えてしまったのだ。この謎めいた殺人事件から、映画はおどろおどろしく始まる。
 見どころは、なんと言っても、電送人間こと須藤兵長(中丸忠雄)が冷たい無表情であちこちと現れ、殺人事件を犯し、奇妙な立体電送機(瞬時にして物体を遠隔に移動させることのできる電気装置)によ…