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1月, 2017の投稿を表示しています

漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
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 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

由紀さおり―季節の足音

分かる人には分かってもらえる、スレッスレの人生というのがある。飄々と生きている素振りに見えて、その内実、いちいち小さなことに感動し、涙を堪えて深く溜め息をつくような日々。本当の自分はそれなのに、でも、涙を流していてはかえって乗り越えられないような気がして、周囲への思いやりに欠けてしまうかも、と冷静に判断。やっぱり表向きの飄々とした仮面の自分があってこその自分だ、と言い聞かせ素直になれる、そういう年頃、としつき。
 私は今、由紀さおりさんが歌う「季節の足音」(作曲・羽場仁志、作詞・秋元康)を聴いている。ピンク・マルティーニの演奏の「季節の足音」。  聴いていて、ふと感じた。この歌の歌詞、
《穏やかに 時は過ぎ 今日も輝いて 一日が終わることを 感謝してます》
 だなんて、10年前の自分だったら鵜呑みにしてそれを聴いていたかも知れない。が、本当はそうじゃないんじゃないか、と感じた。  いちいち身の回りの小さなことに感動し、涙を堪えて、深く溜め息をつくような日々がくりかえしくりかえしやってきて、本当は辛くて哀しい。穏やかに過ぎゆく時間や季節に感謝したいんじゃなく、今日もなんとか頑張って“乗り越えられた”「自分自身」を褒めてやりたい。  飄々と生きていこうとする決意と諦念の裏返し。でもやっぱり、繁忙の合間に一息ついて飲んだコーヒーの、その香りが鼻孔に到達するうちに、見えない何かにありがとう、と感謝を言いたくなる心持ちに変わる。そんなふうな、若い頃には絶対分からなかった、生きていくことの心の襞――すべすべなんてしていないざらざらとした襞。普段は触れちゃいけないこの襞に触れれば、それなりの痛みが伴う――の危険な触覚。それがこの歌の本当の意味。そういう年頃、としつきでないと分からないもの。
 この歌は、由紀さおりさんとピンク・マルティーニのコラボじゃなきゃダメなんだ――と思う。この曲をレコーディングした、アメリカのオレゴン州ポートランドにあるKung Fu Bakeryのスタジオをホームページで調べてみた。ポートランド。なんて素敵な街なのだろう。山や川や緑に囲まれた街。アルバム『PINK MARTINI & SAORI YUKI 1969』には由紀さんやスタッフらが路上でジャンプしている楽しそうな集合写真があったけれど、このアルバムが録られた2011年の3月から6月…

漱石パスティーシュ

先日、大相撲の初場所で大関・稀勢の里が、自身における“悲願”の初優勝を成し遂げた。そうして連日、「日本人横綱が19年ぶりに誕生」という“歓喜”の話題を多くのメディアが取り上げた。私も長年、稀勢の里を応援していた一人として、このことは夢のような喜ばしい出来事であった。  ところが、あるワイドショーを見ていて、私は妙な空気を察した。一人の女性コメンテーターが、この話題の輪の中に入るべく努力し、「稀勢の里優勝」と「横綱昇進」に関するコメントを述べたのだけれど、その女性コメンテーターはどうやら普段、大相撲を観ていないらしく、稀勢の里関についてもほとんど知らなかった様子で、ちんぷんかんぷんとまでは言わないまでも、そのコメントの中の“悲願”と“歓喜”の感情が実にちぐはぐで空疎な、〈あなたはいったい何に喜んでいるの?〉と逆に問い詰めたくなるような内容に、すっかり興が醒めてしまった。私はこの熱狂の雰囲気の《泡沫》を感じたのと同時に、自分の“知らない感じていない”ことをつらつらと喋るのは実に「軽薄」で恐ろしいことだ、と鳥肌が立った。
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 「軽薄」と言えば、最近、映画『ユメ十夜』(2007年公開・「ユメ十夜」製作委員会)をDVDで観た――というと製作者に怒られてしまうが、この映画はけっこう漱石ファンの間で酷評されている。これは漱石の『夢十夜』の原作を、11人の監督によるオムニバス形式で映像化した日活配給の日本映画である。一般人のあるレビューでは、《漱石無残》と罵られていたりして、全体としてもほとんどそういう感じの批評のレッテルを貼られた作品だ。だから私自身も、しばらくこの映画を観ることをためらって、そうした先入観を吹き払うことができずにいた。
 ある日私は書店にて、漱石関連の記事が読みたくなったのを理由に、文芸誌『新潮』の最新号の本を探した。あいにくその時、『新潮』の最新号が見当たらず、立ちすくんでどうしたものかと考えあぐねていたところ、目の前に、奥泉光責任編集の『夏目漱石 百年後に逢いましょう』という河出書房新社のムック本があったので、これがいいと思い、それを買った。こういうことは、たまにある。  この『夏目漱石 百年後に逢いましょう』がなかなか、充実した内容で、著名な作家らによる漱石対談だとか、各作品の新たな着眼点とも思える解説エッセイ、その他コラムやら何やらで、とにかく漱…

伊勢佐木町と『はま太郎』のこと

前回のブログ「演劇『金閣寺』追想」で書いた、横浜・伊勢佐木町のイセビルの地下にあるクリエイティブスペースTHE CAVE。その地下の小スペースで、ぼんやりと見ることのできたエジプト風の壁画。昭和初期に建てられたというイセビルとその頃の食堂のものと思われる壁画については、個人的にとても興味があった。そうして調べた結果、このイセビルに編集部のある、星羊社発行の“ヨコハマを転がる民衆文化誌”『はま太郎』を入手したので、この本を精読して詳しい知識を得てみたいと思った。
 イセビルと壁画についての記事が書かれているのは、2015年6月発行の『はま太郎』第10号である。これがまた不思議な縁というか面白いことに、雑誌そのものが、実にあの壽屋(現サントリー)のPR誌『洋酒天国』とよく似ているのだ。  『洋酒天国』は昭和30年代に不定期で発行され、各地のトリスバーなどに据え置かれた開高健編集の小冊子で、私のコレクター・アイテムでもあり、たびたび当ブログでも紹介している(カテゴリーラベルの“洋酒天国”をクリック)。『はま太郎』と『洋酒天国』を外見で比較してみると、本の大きさはほぼ同じB6判。ヨーテンのほうがやや小ぶりで、『はま太郎』のほうは紙質の違いで若干厚めに感じられる。が、しかし本当によく似ている。
 『はま太郎』の印刷の匂い――。この独特の匂いも、別の意味で懐かしい。  昔、小学校で配られたテストや印刷物は、すべて藁半紙だった。手書きも手書き、謄写版刷りからコピー機へと推移する過渡期の頃だ。そういう藁半紙で印刷されたインクの匂いが、『はま太郎』の紙から漂ってくる。  ちなみに、『はま太郎』第10号はミシン縫い製本の一色刷なのだけれど、11号以降はどうやらカラー印刷になったようだ。中区界隈の酒場だとか老舗パン屋(コテイベーカリーの「シベリア」がたまらなく美味しそう!)などのショップ・ルポ、ノンフィクション、ちょっとした味のあるコラムなどを読んでみると、やはり第10号は、とびっきり“ヨーテン”っぽいのである。
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 さて、イセビルと壁画のこと。「ヨコハマ・理想郷譚 十之章 伊勢佐木町入口の不夜城 ~イセビル地下の壁絵が語る、ザキのモダン文化~」の記事。伊勢佐木町の沿革とイセビルの大まかな歴史については前回のブログを参照していただきたいが、当時横浜の市会議員をしていた地元出身の上…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》 (『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)
 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…

空想と本の物語

本に対する愛着を示せ――の答えが、ここにあった。2016年11月27日付朝日新聞のコラム「折々のことば」に挙がった北田博充さんの以下の言葉である。
《空想は現実の反対側にあるものではなく、空想の延長線上に現実がある》 (2016年11月27日付朝日新聞「折々のことば」より引用)
 やはり深みのある言葉である。この言葉が気に入って――というか気になって――よくよくこの言葉を考えてみようと、新聞の「折々のことば」の部分を切り取って、それからしばらく、この紙切れを机の片隅に置くことにしたのだ。
 本を読むことの始まりが、空想の始まりであることを、この言葉は味わい深く示している。いや、何も本に限ったことではない。何か物事を始めるには、空想の準備というか空想の前置きが必ず「起こって」いる。空想はそこに在るものではなく、自分で「起こす」ものなのだ。  空想のその先に、つまり本を読んだその先に、思いもつかぬ現実がある。少なくとも私は、いくつもの本を読んだことによって、何か人生観や文化的な営みが活力を持って動き出し、意識的か無意識かは別にして、ある種の新しい現実を作り出していると思う。だから本との出会いがあまりうまくいかなければ、その先の現実もあまりうまくいかないような気がしてきてしまう。
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 とにかく学生時代は、本が読みたいという衝動以外にも、小一時間の暇をつぶすために、よく本屋へ駆け込んだ。大きなデパートがあればそこの書店には必ず足を運んだし、駅の目の前の書店で時間をつぶす時の、“制限時間”を自分に課した官能的な快感はなんとも言えない。そこでいい本と巡り会えるかどうかは、やってみなければ分からない面白さがある。  まだ、インターネットがそれほど普及していない時代の、本と本屋にまつわる話。  その頃20代半ばの私は、行きつけの本屋で、『THE BODY 写真における身体表現』(ウィリアム・A・ユーイング著・美術出版社、1996年刊)という写真集を発見してしまった。これは、著名なアーティストたちによる身体表現写真をカテゴリー別に分類し解説したもので、飯沢耕太郎氏が日本語版の監修者であり、431ページもあるどっしりと重い分厚い本である(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)。
 本屋の書棚の、一番高い所に並べられていたその本を、ある時一度、偶然手に取って眺め、こ…

青空の多重録音

まず私は、この極私的な懐かしい思い出を、いかにして伝えるべきかたいへん苦慮し、タイトルもあれこれ考えてしまった。「青空の多重録音」。それは中学生だったか高校生だったかの頃の思い出であって、いま私が音楽で「歌う」ことの、その技術と心情の在り方の一つの分岐点になった事柄でもあった(この話は4年前、[Dodidn* blog]の「Back Again」で触れられているが、内容的に充分ではなかったので敢えてもう一度ここで書く)。
 この話は、「歌う」ことを目的とした私が、その初心に返るべく、忘れてはならないことを注意深く思い出していくことに意味がある。  1987年頃、中学生だった私は、念願のマルチ・トラック・レコーダー「TASCAM PORTA TWO」を入手する(この機と多重録音に関してはホームページのコラム「多重録音ということ」参照)。これはカセットテープに4トラック録音することができ、ミキサー部には入力アンプやEQ、AUXなども充実していたから、アマチュアバンドの録音には最適なレコーダーであった。テープスピードは9.6cm/secと4.8cm/secに切り替えられ、前者のテープスピードだと、46分のカセットテープであれば片面23分のところを11分ほどで使い切ることになる。しかしこの倍速スピードは音質面で4.8cm/secよりも優れていたのである。  私はこの機で、多重録音ということを学んだ。通常のカセットテープ・レコーダーは、磁気テープ帯の片面2トラックステレオ録音/再生であり、音を重ねて録ることはできない。マルチ・トラック・レコーダーは磁気テープ帯両面を一度に使用するので4トラック分録ることができる。それぞれのトラックのレベル・フェーダーを操作することによって音量を調節し、パンポットでそれぞれのトラックの定位(ステレオの左右の振り分け)を可変することができる。例えばバンド演奏を録る場合であれば、1トラック目にドラム、2トラック目にベース、3トラック目にギター、4トラック目にヴォーカルといったふうになり、これを音量的にバランスを取ってミックスし、別のテープレコーダーにダビングすれば、多重録音によるバンド演奏が仕上がる仕組みである。この録音のプロセスそのものは、現行のデジタルによるマルチ・トラック・レコーダーやコンピューター・ミキシングと何ら変わりはない。
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