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寺山修司―三分三十秒の賭博とアスファルト・ジャングル

今年に入って、寺山修司の文筆と映像の世界にどっぷりと浸かり始めた。この世界の、至る所から漂う臭気とは、いったい何か――。それは決して花の香りでも、柑橘系の香りでも、ない。乾いた土に雨が降り始めた時のあの匂い。授業参観が終わった後の、教室にしつこく残った母親達の安っぽい化粧品の匂い。あるいは鉄サビに指をこすりつけてしまった時の憤怒の匂い…。いや、そういうのではない。いずれも当て嵌まらない特殊な何かの匂いが、この世界から漂ってくるのは、確かなのである。  彼の著書『書を捨てよ、町へ出よう』(角川文庫)を読んだのだった。貪り読んだと言っていい。当ブログ「ぐだぐだと、寺山修司と新宿風月堂の話」で触れたように、私が所有している角川文庫のそれの、平成22年改版の本の装幀は、淡い緑色をしていてまったく目に付きやすい。そしてこの装幀カバーの裏面には、こう書かれている。 《平均化された人生を諦めとともに生き、骨の髄まで慣習の虜となってしまう前に、まずはすぐさま荷物をまとめ家を出よ、実行あるのみ――。人生に逃げ場はない。覚悟を決め、想像力を働かせよ。眠っている血はいつか、目をさます。家出の方法、ハイティーン詩集、競馬、ヤクザになる方法、自殺学入門。時代とともに駆け抜けた天才アジテーターによる、日常からの「冒険」のすすめをまとめた、クールな挑発の書!》 (角川文庫『書を捨てよ、町へ出よう』装幀より引用)
 この本は、光を失った《影》の空間において、たちまち黒みを帯びた濃い緑色に変貌する。緑色の特性というのは不思議なもので、明るい緑色は純真無垢な《少年性》をふるった明朗なる象徴となり、暗く深めの緑色は落ち着きを払った大人達の、“重い沈痛のうろたえ”を微かに含んだ《静寂》の象徴となって視覚にうったえる。アイルランドの三つ葉のクローバーには、“重い沈痛のうろたえ”が背後に潜んでいることを忘れてはならない。  むしろこうした緑色の変幻は、寺山修司という人の人格の、あるいは作家としての品格と言い換えてもいい、その両端の根源を表しているかのようでもあり、これ自体が寺山の象徴のアイテムとなっている。まことに優れた装幀である。私はこの本を手に取るのがやや恐ろしく感じる。寺山の世界とは、心地良い視覚的色彩のハレーションでありながら、単純には《猛毒》の根源であって、なおかつ蛾や蝶の「鱗粉」に触れた時のよ…

演劇『金閣寺』追想

 横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》
(『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)

 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。
 イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。
 それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。
 この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。

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【劇場で配られた『金閣寺』の御守護的フライヤー】
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。
 私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏に起きた金閣寺放火事件を題材にしており、三島由紀夫の小説『金閣寺』が原作。脚本は宮本亜門演出の『金閣寺』(伊藤ちひろ、宮本亜門)に拠る。
 上演が約2時間半強に及んだ『金閣寺』の構成は、脚本はもとより三島原作の『金閣寺』に忠実で、三島の文体が時折朗読されながら、「3人の青年」の生き様が滑降する状況心理劇となっていた。そのシチュエーションは概ね金閣の舎利殿がある禅寺(鹿苑寺)、あるいは京都界隈である。

 主人公の青年・溝口。彼は舞鶴で生まれ、父の遺言で金閣寺(鹿苑寺)の徒弟となった。父は舞鶴の辺鄙な岬の寺の住職で、その父と死別した溝口には生来の吃りがあった。彼にとって吃りは、自己の人生観を左右する大きなコンプレックスであった。
 同じ金閣寺で徒弟の修業をする青年・鶴川。彼は住職の縁故で預けられた身で、溝口の最も親しい慰藉の友であり、溝口の吃りを決して蔑まない。家は裕福で、溝口にはない明朗闊達な性格である。
 そしてもう一人の青年は、柏木。彼は溝口が通う大谷大学予科1年の生徒で、両足の内翻足のハンディキャップを抱えていた。性格は情動的で、知性を斜に構えた冷淡な態度をとり、関係を持つ異性を日常的に苦しめる。しかし溝口にとって柏木という男は、鶴川よりも自分に境遇が近く、その性悪な態度にしばし嫌悪を抱きつつも、どこか憎めず離れることができない腐れ縁的な存在だ。
 この三者三様の難役を実に瑞々しく等身大で演じきったのが、溝口役の河野麗生、鶴川役の高橋拓也、柏木役の金澤卓哉である。彼らの演技がこの舞台の軸となり血肉となっているが、そこに溝口の母親役の腰を据えた気丈な演技が加わると、場の局面の起伏が異様に波打つ。老師・道詮和尚が佇む禅寺の清楚で暗鬱とした趣は、「3人の青年」のうごめきによって血肉の赤に染められ、激しい人間同士の衝突が葛藤劇となって次々とめまぐるしく展開されていく。

 一つここで私は、三島由紀夫の言葉が想起された。「裸体と衣裳」という彼の日記抄の中で、昭和34年4月10日の皇太子御成婚パレードをテレヴィジョンで見た彼は、こんなことを書き記している。三島が釘付けになったのは、両殿下が乗る馬車に一人の若者が突然近づき、周囲が騒然となったアクシデントの瞬間だ。
《そこではまぎれもなく、人間と人間とが向い合ったのだ。馬車の装飾や従者の制服の金モールなどよりも、この瞬間のほうが、はるかに燦然たる瞬間だった》――。また、こうも述べている。
《それにしても人間が人間を見るということの怖しさは、あらゆる種類のエロティシズムの怖しさであると同時に、あらゆる種類の政治権力にまつわる怖しさである》
(三島由紀夫著『裸体と衣裳』より引用)

【『金閣寺』フライヤーの裏面】
 皇太子は生まれて初めて、“裸の人間の顔”を見、向かい合ったのだと三島はその時、昂奮を抑えることができないでいた。世界が変わった瞬間とも言える。それと同じものを私は、今回観た演劇『金閣寺』の舞台上においても、三島のこの不動の常態を示す感性の小端を見たはずだ、と気づいた。
 つまり、1950年の夏に起きた禍々しい金閣寺放火事件と等身大の若者――その若者の剥き出しの裸の顔。それは内部に秘められていた心の闇の突発的な爆発であり、向かい合った衝撃である。主人公の溝口が抱く想念すなわち金閣に対する美意識であるとか、まるで自分とは別世界の沙汰にある美の建物の存在が、やがて反撥と憎悪の対象となっていく経過を、舞台に面した観客席の中で私は目撃したのだ。私は確かにそこで、“裸の人間の顔”を、見た――。

 時系列が舎利殿放火へと向かうドラマチックな展開となっている反面、「3人の青年」の“裸の人間の顔”の実相を暴くのは、演劇が進行している最中ではとても難しいことだ。が、観終わって落ち着いた頃に、青年らの心の在処を探り出す永き余韻こそ、この演劇『金閣寺』の優れた演出ではないかと思われる。
 溝口、鶴川、柏木という3人の関係性及び情緒的行動はどこか不均衡かつ無秩序で、同胞としての仲間意識が表面的には乏しい。それぞれがそれぞれの人生を背負い、通い合うことなく孤独である。孤独としての共感、同胞的観念はおそらく内側の奥底に秘められ眠っており、それぞれの表情に無意識にもしばし反映される面がなくはない。しかし、緻密な心情を汲み取って束ねられるだけの達観というべきものが、溝口には具わっていなかった。すなわちこれが金閣寺を焼く、という行為の悲劇につながる。しかも、溝口の不幸は常に我々の中に存在するのだ。

§

 若者であるという人生の一つのカテゴリーは、その尊き同志との関係性において、どこか意識と意識との最大公約数を見いだし、失望の途を踏み越えながら妥協しつつ、心を安息に束ねていくものなのだろうが、溝口も鶴川も柏木も、誰一人折れることなく自己の観念の聖域に到達することを夢見、あくまで同志ではなく反同志として貫通し、結果的には観念そのものが脆くも破綻していく。互いが互いにとって許されるべき存在であるのか否か――。他方は恋に破れ、他方は愛に絶望し、他方は自己愛と精神美の崩壊を招く。

 等身大の生身の若者がこれらの青年を演じる上で、『金閣寺』におけるこれほど難しい役柄と構造はなかったであろう。己の本身にこそ、その役柄の剥き出しの顔が具有されることの、一種のおののきを感じる際どい演劇である。
 人間が人間を見ることの怖ろしさはエロティシズムの怖ろしさであり、政治権力にまつわる怖ろしさであるという三島の言葉が、ここではやはり相応しい。私が今回観た演劇『金閣寺』は、おそらくこれまでのどの同作品劇よりも、“裸の人間”たちによる群像劇であったと思う。それを奇跡的に観たと同時に、あの「3人の青年」と同じ襞を、己の内側に隠し持っていることに、誰もが気づかされることだろう。

 こうして緊迫と平穏とに包まれていた特異な時間は、あっけなく過ぎていった。伊勢佐木町の青空に。これは、私がとんでもない演劇を観てしまったという秘密事なのである――。

コメント

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拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
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 幼少だった私が初めて心霊写真というものに出会った写真が、この「鬼のお面」の写真だ。
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 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …

さようならヨーカドー

かなり思い出の詰まった“ローカル”な話――。去る2月17日、わが地元の市民に長年愛されてきた総合スーパー「イトーヨーカドー古河店」(茨城県古河市雷電町)が惜しまれて閉店。知り合いに聞けば、閉店日当日は駐車場がほぼすべて満車。多くの人が詰めかけて大盛況であったという。  実は昨年中の早い時期に、“古河のイトーヨーカドーが来年、閉店になる”という話を知人から聞いていた。閉店という言葉にある種の驚きはあったものの、ああ、いよいよヨーカドーもそうなるのかという深い溜息に近い気持ちであった。以前より、実際に店内で買い物をしていてもなんとなく客足が薄まっているように感じられたし、どこか活気に乏しいところがあった。しかも市内にはいくつかの大型スーパーがあって、そちらに客を取られている感は否めなかった。〈ここにきて閉店はやむを得ない〉という消沈。
 そうして今年の1月、茨城新聞の9日付の記事の見出しで「ヨーカドー古河店閉店へ 2月17日、売り上げ低迷」と出る。
《JR古河駅近くの中核的な商業施設として長年親しまれてきたが、近年の売り上げ低迷などを理由に撤退が決まった。同ホールディングスの担当者は「お客さまのニーズの変化に対応できなくなってしまった」と説明した》
(2019年1月9日付茨城新聞より引用)
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 あれよあれよと日々の生活の忙しさにかまけて、気づけば明日が閉店日なのだと気づいた時はもう遅かった。個人的に店舗を訪れる機会を完全に喪ってしまったのだった。今年はせめて一度だけ最後に訪れようと思っていたにもかかわらず。もう一度あそこで、あの店であれを買おう。その念願を果たせないまま、閉店の日が過ぎてしまった。クローズである。やるせない無念さが込み上げてくる――。
 地元に「イトーヨーカドー古河店」ができたのは、42年前の1976年(昭和51年)5月である。私はまだ4歳だった。
 あの頃、売り場面積の広い大型の総合スーパーなんていうものは他になくて、ヨーカドーのオープン直後、日曜日になるとそこへ家族5人で買い物に出掛けるのが、お決まりの休日イベントであった。買い物をした後に店内のレストラン街で昼食をゆっくりと楽しむ。私はもちろん、泣く子も黙る王道のお子様ランチ。ぽっくりとお山になったチャーハンの頂に日本の国旗。ピーピー鳴る笛が付いていて、黒っぽいカラメルのソースがたっぷりとかか…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

We Are The World―伝説のレコーディング

私がレコーディングというものに真剣に興味を持ったのは、中学生の時だ。その頃、USA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」のビデオを観た。今思えば不思議な巡り合わせである。極端な話、このビデオを観ていなかったならば、音楽などやっていなかったかも知れない。
 そのビデオは、レコーディングの光景を如実に映したメイキングで、AKG C-12という名機のマイクロフォンの前でライオネル・リッチーが歌い始めるシーンが印象的。だが、ライオネル・リッチーとマイクロフォンのあいだに、奇妙な“布膜”の存在を“目撃”したのだ。どう見てもそれは、女性が穿く「ストッキング」であった。何故、ライオネル・リッチーとマイクロフォンとのあいだに、女性が穿く「ストッキング」が在るのか。中学生だった私は、思い悩んだ。結局はその「ストッキング」の謎解きこそが、レコーディングという制作現場への興味をいっそう深くし、自らもそれにどっぷりと浸かっていくきっかけになったわけだ。私はこれを、「思春期のストッキング事件」と称している――。
 さて、平成の時代がもうまもなく終わる。そういう時世において、かつては誰もがサビを口ずさむことのできたUSA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」など、“知らない”世代が増えてきているのではないか。そのことを承知の上で、「We Are The World」と私自身の想い出を書き連ねることは、逆にとても有意義なことだと思っている。前稿の「ミックステープってなんじゃらほい?」と多少なりとも繋がりのある話であり、昨年1月に書いた「青空の多重録音」も併せて読んでいただけるならば、この話はもっと聡明になるに違いない。私的なことながら、これは私にとってとても大切な、そしてある意味とても不思議な、歌とマルチ・トラック・レコーディングの話なのだから。
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 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…