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続・FMラジオ音楽悦楽主義

番組8回分をCD-Rにして送っていただいた
 連夜、1980年のラジオ番組「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」の録音を聴いている。DJはジャズ評論家・いソノてルヲ先生である。いま私の中で盛んにジャズが鳴り響いている。何故このような“至福”なる連夜と成り得たか。事の発端は昨年末の当ブログ「FMラジオ音楽悦楽主義」であり、とどのつまりこれはその後日談となる。起死回生のジャズ乱舞は以下の通りである――。

 いソノてルヲ先生の往年のラジオ番組「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」(1980年夏、NHK FMの夜枠で、土日を除いた2週間にわたって放送された全10回のジャズ特集番組)が聴きたくて、ある個人サイトのオーサーにその依頼をして失敗に終わった経緯を、「FMラジオ音楽悦楽主義」で詳しく書いた。ところが今月初め、まったく別のオーディオ愛好家の方から、奇跡的なコメントをいただき、当方はラジオ番組「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」を録音したオープンテープを所有しているので、宜しければCDにしてお送りしましょうか、というのだ。私は突然の予期せぬコメントにたいへん驚いた。

 もう昨年の時点で、いソノ先生の声――すなわち先生のDJを聴くことは不可能だと思っていた。私がいソノ先生と出会ったのはかれこれ25年も前の話だ。その当時の講義は、毎回先生が持参したカセットテープでラジオ番組(もちろん先生のDJ)の録音を聴き、古き良きアメリカのポップスやジャズを回想するといった趣向であった。既にこのことは他の稿で繰り返し書いてきたので割愛する。ともかく先生のあの独特な甘い声をもう一度聴いてみたいという切実な気持ちから、先の「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」という番組を知る経緯に至った。

 そのコメントをいただいた方のご厚意に甘え、ほんの一両日中に録音テープをCD-Rにコピーして送っていただき、ある意味においては25年ぶりに、じっくりたっぷりと、いソノ先生の声を満喫することができた。“至福”であると同時に先生の往年のジャズ解説とその甘い軽妙なDJは、珠玉である。

§

 送られてきたCD-Rメディアは、4枚に分けられていて、「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」の全10回のうち8回分が記録してあった。
 その内容を大まかに書いておく。1枚目が1980年7月23日放送の「トランペット」特集と24日放送の「トロンボーン」特集。2枚目が、25日放送の「アルト・サックス・ソプラノ・サックス」特集と26日放送の「テナー・サックス」特集。3枚目が27日放送の「クラリネット、フルートその他木管」特集と8月1日放送の「ベース」特集。そして4枚目が7月30日放送の「ピアノ」特集と31日放送の「ギター」特集となっていて、番組としてはさらに8月2日放送の「ドラム」特集、3日放送の「ビブラフォン、オルガン」特集と続いているが、最後の2日分の録音だけは欠落している。それでも私としては、この4枚で充分なヴォリュームであったし、先生のDJによる名解説が聴けただけでも有り難かった。

 去年あたりからトランペッターのフレディ・ハバードに関心を持っていた私は、この最初の「トランペット」特集の中でマイルスやクリフォード・ブラウンと共に、その彼の「Windjammer」を聴くことができたのはしごく幸いと思えた。何故なら、いま彼の1960年代頃の、マッコイ・タイナーやアート・ブレイキー、あるいは私の好きなエルヴィン・ジョーンズとの共演作に関心があって、どうしても1970年後半以降の彼の演奏は敬遠しがちな、おそらく今後後期の録音を聴く機会は好みの問題としてごく限られていると思われ、そうした意味でいソノ先生が初回で提示した、フレディ・ハバードの「Windjammer」を選曲していることは、そこに明らかな意図があったと受け取れる。しかし私にはまだ、その意図を理解することができない。それはそれとして、初回ではその他チェット・ベイカーやディジー・ガレスピーが紹介され、初回の最後はディジー・ガレスピーの「Poor Joe」を聴くことができ、私はまた彼のチャーリー・パーカーとの共作「Bird and Diz」の、とんでもなくお洒落なジャケットのリマスターCDを発見したりして、各演奏者への関心にいろいろ目移りしてしまっているのだけれど、それもこれもいソノ先生の自選と造詣の深い解説によるものであることは、言うまでもない。

 それにしてもジャズの世界とは、いやジャズを愛する者達の底知れぬ《愛情》とは、これほどまで深淵なものなのか――。番組の作りからその《愛情》がひしひしと伝わってくる。私自身はただただそれに圧倒されるだけだ。ビル・ハリスの「Crazy Rhythm」を聴けばジミー・ロウルズに興味を抱き、同曲を別の録音で聴くことのできるトロンボーン奏者のJ・J・ジョンソンに惚れ惚れとしたり、といったふうに枚挙に暇がなく、ジャズ狂における50年代から60年代にかけてのハードバップの桃源郷を耳で彷徨う。一回ぽっきりのジャズ番組ならともかく、この楽器毎に2週間特集し続けたという企画の洗練と先生の情熱、そして心地良いそのDJにすっかり陶酔し、遠のいていたジャズが瞬く間、目の前に月光となって降臨したかたちとなった。

 ところでこの「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」。全10回のこの特別番組とは異なるそれ以前の、1970年代のレギュラー番組として知れ渡っていた“名物ラジオ番組”でもあったようだ。そちらの番組の交代制DJの中には、やはりいソノ先生も参加していたという。むしろそちらで番組名が記憶されていたジャズ愛好家の方が多いのではないか。
 私は今回、試しにネット検索をかけて、あちこちのジャズ愛好家のブログを閲覧してみたのだ。すると2017年以降の“新着”の投稿としても、古き70年代の「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」の思い出話を書き綴ったオーサーの方がいて、その記憶の先鋭さに思わず唸りそうになった。
 凄まじくジャズ狂のラジオ・フリーク魂が顕在化しているのだ。果たしてこれは、ジャズならではの特異なことなのかどうか。はっきりとしたことはよく分からないが、少なくとも、音楽という広い世界の住人の熱量たるものは、その熱が時代の変化によってクールダウンすることが、どうやら永遠に無いようである。

 最後に、この場を借りて、「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」を届けてくださったオーディオ愛好家のY様にあらためてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
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ファミコンの思い出―プロレス

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 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…