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My Love Is Your Love

ホイットニー・ヒューストン『My Love Is Your Love』
 アメリカのヒップホップ系のミュージシャンであるワイクリフ・ジョン(Wyclef Jean)が、私と同い年の1972年生まれであるということを露程も知らなかったのは、恥じらいをもって深く省みるべきだ――と自分自身に警告して、私は彼のリリース間もない『J'ouvert』が届くのを心待ちしてこれを書いている。
 実はホイットニー・ヒューストンの命日(2月11日)の折に触れ、ワイクリフ・ジョンとジェリー・デュプレシス(Jerry Duplessis)がプロデュースした1998年の「My Love Is Your Love」について、ここで少し“陽気に”書くつもりでいた。が、どうもそんな気分にはなれない…。
 同年のホイットニーの通算4枚目であったソロ・アルバム『My Love Is Your Love』とそのシングル「My Love Is Your Love」。これが今、個人的なキーワードであることには変わりはないが、私は今、思いがけず《挫折》の心境を味わっている。どうにもこうにもうまくいっていない。しかし、あのアルバム、あの曲が、なんだか苦境に立たされた私自身を、静かに慰めてくれている気がするのだ。

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 高校時代で思い起こすことがある。それは確かに「1990年8月」の出来事なのだけれど、18歳だったその頃、雑誌の募集広告で応募した私は、横浜の本牧にあったアポロシアターの“アマチュア・ナイト”に、ヴォーカリストとして出場したのだった。簡単に言えば、若手ミュージシャンやエンターテイナーの登竜門的オーディションである。デモテープを送り、しばらくして事務所から連絡があった。出場してみないかと。そこでは観客の拍手の度合いで優劣が決まるルールになっており、優勝者は本場ニューヨークのアポロシアターに行くことができる、というような目標が掲げられていた。
 今でも私は、その時のチラシやチケットを棄てずに保管している。それは良き思い出としてではなく、“最悪”の思い出として――。
 私はここで、それなりの《挫折》感を味わった。出場の際に用意した曲は、ホイットニーの「One Moment In Time」という曲で、リハーサルではまったくうまくいっていたのに、本番での歌い出しの時、マイクロフォンの入力がミキサー側でオンになっていないという“最悪”の状況に陥ったのだ。

当時の“アマチュア・ナイト”のチケット
 ステージにいる私はそれを自分で操作することは不可能であった。もちろんミキサーなどの音響機材は、そのスタッフと共に観客席の後方に陣取っている。とにかく私は地声でフォローし、歌い続けた。しかし、観客席まで声は届いていない。やがてマイクロフォンの入力がかろうじてオンになった時、既に曲の半分を消化してしまっていた。
 私はあまりの緊張で、自分が何を歌っているのか分からなくなっていた。そうしてヴォーカル・パフォーマンスが劣悪な状態で、観客の鋭い視線のみが感じられ、拍手が疎らにあったのか無かったのか、そんなことはともかく、既に私は歌い終えるかなり前に、自分の敗北をはっきりと受け止めていた。ステージを去り、控え室に戻って、昨日までの希望に満ちた喜びが嘘のように消え去り、劇場を出てどこをどう帰ったのかよく憶えていなかった。

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 1998年にアルバム『My Love Is Your Love』がリリースされ、本来ならホイットニーの大ファンである私はそのアルバムを買わずにはいられなかったはずだ。ところがその頃も、そんなふうな気分ではなかった。ちょうどその頃、20代後半あたりの、自作の曲がまったく作れない、歌えないという暗澹たる道を、とぼとぼと彷徨っている最中であり、大スターが放つ新しい曲を喜んで聴く気にはなれなかったのだ。そう、その時も、私自身に《挫折》感が漂っていた。

 『My Love Is Your Love』はいいアルバムなのである。90年代のデジタル・レコーディングによるクリアで肉厚のあるサウンド。ホイットニーが最もセンシティヴにパフォーマンスを披露してくれた最高の時期のアルバムであり、先述したワイクリフ・ジョンの「My Love Is Your Love」は比較的素朴なアレンジながら、人の生き方というものの温かみと情熱を感じさせてくれた。私はこのアルバムを、ずいぶん後になって初めて聴いたのだった。

 ――ホイットニー・ヒューストンは「2012年2月11日」に亡くなった。亡くなった直後、私は深い悲しみに暮れることなく意外にも平然といられたのは、目の前に取り組んでいた、いや真剣に取り組むべき本物としての、自分自身の音楽があったからである。悲しみの感情がどこかでリズムとなりメロディとなって漂泊していったと言うべきか、とどのつまり、ホイットニーは自分自身の音楽の中にあるという強い確信があった。だからさほど深い悲しみに陥ることはなかったのだ。

 そうしていま私は再び、あの“アマチュア・ナイト”での出来事のように、どうにもならず何かによって一本の線が途切れ、《挫折》感を味わいつつある。どうすれば音楽は作れるのか、どういう状態であればそれは可能なのか――。
 ホイットニーがこの世にいないという寂しさが、今になってようやく、猛烈な勢いで体内を駆け巡る。血潮がほとばしるくらい。とうに過ぎたはずの悲しみが、風船のように膨らみ始めている。状況としてはやはり、“最悪”だ。

 決して比喩ではなく、“最悪”は“最悪”である。今の私自身もそうだが、遠いアメリカの環境も、どうやら危うく変化しそうである。先が見えてこない。自由の象徴だったアメリカの文化は、相当、深い危機感に晒されている。
 よその国は、よその国、とは割り切れない。それでも私自身は、ただ前に向かって歩く以外にない。「My Love Is Your Love」の曲が、そのホイットニーの歌声が、頭のどこからともなく流れてくる。そう、ワイクリフ・ジョンが共に登場した、1998年のデイヴィッド・レターマンのレイト・ショウでの「My Love Is Your Love」は、本当に最高のパフォーマンスだった。あれをもう一度、いや何度も聴き返そう。あの感動が私の中で、途切れそうになる一本の線をなんとかこうにか、食い止めてくれているのだから。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
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ファミコンの思い出―プロレス

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