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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈六〉

サブカルで私淑するmas氏のウェブサイトが、ネット上で見つかった。奇跡の発見。過去に抹消されたと思われていた一部のページが、まだサーバーに残っていたのである。思いがけぬハプニングに、私は今、とても昂揚している――。

 ウェブサイト[msbcsnb]http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)。mas氏がかれこれ20年ほど前に耕していたウェブサイトであり、ラスト・アップデートは2008年4月15日となっている。つまり10年ほど前に最後の更新をして以来、ずっとそこに、ネット上で眠り続けていた、ということになる。この10年間、私はまったくそのことに気がつかなかったのだ。
 mas氏のウェブサイトは他にも[mas camera classica]というのがあったが、どうやらそれはこのドメインのディレクトリには残っていないらしい。もともとドメインが別のため、そちらはおそらく、もう現存していないかも知れない。
 この度発見した[msbcsnb]トップのインデックスのページには、彼愛用のクラシック・カメラとレンズによって撮影されたと思われる、奥さんと可愛い娘さんの当時の画像がそのまま残って掲載されている。残念ながらこのサイトは、オーナーであるmas氏とコンタクトを取ることができない仕様になっているが、ともかく私個人の感覚としては、不思議な気がしてならないのである。何故なら、もうこれらはこの世に無いと思われていたのに、本当はそこに在ったのだから――。

 発見したのは、まったくの偶然であった。前回の「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈五〉」の原稿を書く直前、mas氏に関連したワードを試しに検索したところ、このサイトがヒットしたのだった。まさに瓢箪から駒である。トップのインデックス・ページから紐付けされたページはけっこう多く残っているので、どれを閲覧しても懐かしい思いがする。mas氏の撮影された写真を眺め、テクストの隅々までを私はかつて、何度もアクセスして耽読したのだった。
 実を言うと、私自身がプライヴェートで付けている日記を調べたら、mas氏のサイトに関する記述が膨大に見つかった。およそその記述は2004年から2009年にまで及び、彼のサイトに関する感想が短文で記録されていたのである。そのテクストを参考にして今回、あるワードを…

おはようパソコン通信

【懐かしい雑誌『UTAN』1995年11月号】
 たまたま最近入手した、古い学研の科学雑誌『UTAN』の“パソコン通信”の特集記事を読んで、その言葉の甘美なる響きと共に、まだ20代であった淡い「90年代」を走馬灯のように――私は走馬灯という実物を一度も見たことがないが――思い返してみたりした。
 そもそも小学生の頃、8ビット・パソコンを愛玩していた私は、パーソナル・コンピュータなるものに対する愛着は少なからず残り香としてあったけれど、80年代後半以降普及した“パソコン通信”――音響カプラを用いてデータ通信をおこなうネットワーク・サービス、あるいはそのコミュニティ――の経験がなく、また「90年代」におけるDTMなどといったコンピューター・ミュージックから完全に疎外した状況にあった。1995年11月に発売されたWindows 95日本語版の普及により、徐々にニフティサーブが衰退していった時代を、遠目に、しかも離れすぎぬ距離で眺めていたことになるだろうか。

【巻頭大特集「おはようパソコン通信」】
 入手した『UTAN』1995年11月号の特集記事「おはようパソコン通信」はなかなか興味深い。最初のページは「最先端を行くインターネット」と題され、インターネットとは何かについて軽めに解説している。
 そう言えば当時、インターネットという言葉が世間で流行り始め、知ってか知らずか玉石混淆の情報が飛び交った。ある意味狭いコミュニティであったパソコン通信とは違い、劇的に広く世界中の情報を瞬時に誰もが平等に入手できるようになるインターネット。その頃のメディアだとか、私の周辺の知人の噂がとにかく凄まじかった。――そんな訳の分からん情報を入手して、なんの役に立つの?お金儲けになるの?英語がしゃべれないからなんのことだかさっぱり。おれはファミコンの方がいい。それって、タダで海外旅行できるんですか?インターネット?世界の網って何?など。下々の井戸端会議の妄想、オカルト、亡者のたぐい――。
 「最先端を行くインターネット」のページでは、慎ましやかなこんな文面がある。

《これからの世の中、一般人もコンピュータ・ネットワークに参加するようになってくるだろう。それを見越したインターネットの開発者達は、初心者でも簡単に扱えるとても便利な機能を持ったインターネット用のソフトウェアを作ろうと、日々精進している。その中の一つがWWWといえるのだ。WWWの登場はインターネット上での革命的な出来事なのだ》
(学研『UTAN』1995年11月号より引用)

 そのページの下部には、当時の懐かしいブラウザ、NetscapeによってアクセスされたJavaのホームページとCyberCashのホームページの画像が掲載されており、World Wide Webが画期的かつ革新的なネットワーク手段であることを印象づけていた。ちなみにインターネットの“最新技術”として、次のページには、VRML、NetPhone、CU-SeeMe、Real Audio、Acrobat、Turbo Gopher VRのアプリが紹介されていた。

 また、特集の後半ページでは、「草の根BBS開設への道」と称し、ホスト局開設に必要なものとして、①パソコン本体(古い98が狙い目と書いてある)、②ディスプレイ、③ハードディスク(中古の100MBクラスで十分と書いてある)、④モデム(最初は14400bpsのものを選ぶのがいいだろうと書いてある)、⑤電話回線(自宅の回線を使わせてもらうか、どこかに余った回線があれば、それを使わせてもらおうと書いてある)と列挙し、ホストプログラム一覧にはBig-Model、MASH、KT-BBSが挙げられていた。

§

 「90年代」の前半というと、我が家では既に黒電話ではなくコードレス電話だったように思うが、プッシュ回線に切り替えて数年経った頃だったと思う。まだまだ固定電話での音声通話が主流の時代であり、そんなプッシュ回線の電話機で友人の電話番号を登録していた私は、プルルルルとワンプッシュで友人を呼び出し、劇団の打ち合わせで深夜、長電話をしたものだ。まだコミュニケーション・ツールの最上級は電話であり、電話一辺倒であり、ファクシミリなどはまだ敷居が高かった。やがてポケベルが一般普及したけれど、私は持たなかった。だからパソコン通信やインターネットなど、そんな高いパソコンを買い、高いモデムを買い、高い通信料を払ってまでソーシャルなデータ通信を趣味範囲で楽しもうという気には到底なれず、そういう身分でもなかった。

 しかし時代の波というのは加速するものである。私が初めて携帯電話(PHS)を持ったのが1997年で、シャープのモバイル端末「ザウルス」でPHS回線を使ったデータ通信を初めて経験したのは、1999年頃ではなかったか。そう、それがWWWデビューである。
 当時のデータ通信料1分10円はなかなか厳しく、「10円メール」というのが流行ったのもその頃だ。メール以外では、オフラインであらかじめデータを入力しておき、回線をつなげた直後、それを送信してすぐに回線を切る。そうしてできるだけ通信時間を短縮させて使用していたのだ。ブラウザでは、かなり通信料がかさ上げされてしまうJPEGやGIF画像の読み込みを遠慮し、ブラウザでの画像の読み込み設定をあらかじめオフにしておくなどカスタマイズを強いられた。
 けれども、2000年代に入ってからADSL回線網が段階的に普及。プロバイダの料金体系は固定料金制となり、この通信費用の問題は一件落着した。

【The Trojan Room Coffee Machine】
 最後に一つ。特集記事を読んでいてふと目に留まったのは、ケンブリッジ大学Trojan研究室のホームページとやら。「コーヒーメーカーの現在の残量がわかるホームページ」とある。
 大学の研究員達がその室内で飲んでいるコーヒーの製造機をカメラで撮り続けているだけの話なのだが、いま考えると、当時のWWWとしてなかなかオーセンティックな試みだと思った。まだまだ覚束ないデジタルカメラを使い、毎秒1フレームずつビデオキャプチャーされ、サーバーにそのJPEG画像データを送るプロトコル。ネット権化をねらう優秀な人達の、小さな試み。これを身分相応、通信料がかろうじて痛くない人は、ずっと眺めていたに違いない。

 さて現在、このホームページは存在するのかと思い、確認したところ、驚くべきことに今も存在した。ただし現在はキャプチャーされておらず、2001年8月22日に終了した旨の記述があった。今は、最後にサーバーを停止した際の画像のみアップされている。

コメント

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…

拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
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 幼少だった私が初めて心霊写真というものに出会った写真が、この「鬼のお面」の写真だ。
 そこは東京・葛飾区の幼稚園。昭和50年に撮られた写真。私とあまり変わらない年頃の子供達が節分の日であろうか、画用紙に鬼の画を描いて切り取って、自慢げに整列した「鬼のお面」の記念写真。
 右側の背景の下駄箱の上の窓ガラスに、中岡俊哉先生が指摘する“霊体”が写っている。中岡先生の説明では、この霊体は園児に関係のある女性、なのだそうだが、私の眼には髭を生やした近所のおじさんにしか見えなかった。
 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

中野重治の「歌」

高校3年時の国語教科書を開く。筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』。この教科書については、当ブログ「教科書のこと」でも触れており、先日はこの教科書で知った評論家・唐木順三についても書いた。誰しも文学的出発点(文学に目覚めたという意味の)という経験譚はあるようだが、私にとっては、1990年に学んだこの筑摩の、高校国語教科書がどうやらその出発点と言い切っていいのではないかと思われる。  以前もこの教科書から、高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」について掘り下げたことがあるが、この教科書の「現代詩」の章題ページには、高村光太郎の彫刻作品である「腕」のモノクロ写真が掲載されていて、それが異様に迫るものがあり、光沢して白く見える指先から心に突き刺さるものを感じてはいた。ここで括られた「現代詩」は萩原朔太郎の「竹」「中学の校庭」で始まり、高村の「ぼろぼろな駝鳥」、そして中野重治の「歌」、金子光晴の「富士」、山本太郎の「生まれた子に」で閉じられる。どれもこれも、生命をもったことば達の狂った叫び声がきこえてくるかのようで、ひ弱な高校3年生であった私にとっては、鋭く、痛く、他の小説や随筆のように容易に読み砕くことができなかったのである。
§
 その中で最も身体に堪えたのが、中野重治の「歌」であった。第一の《おまえは歌うな》のことばの滑り出しは、あまりにも衝撃過ぎた。  これはこの筑摩の国語教科書全体にも言えることだけれど、すべてがことばとして痛いのである。心がひりひりと痛くなるような作品を敢えて撰修し、ずけずけと入り込んで高校生の悠長な精神を揺さぶりかけるような仕掛けが、あちこちにひしめいていた。そんな痛い筑摩の国語教科書の中で、「現代詩」における中野重治の詩は、あまりにも痛かった。以下、部分的に引用する。
《おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな》 《風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな》 とことばをたたみ掛けたうえで、 《すべての風情を擯斥せよ》  と一徹に恫喝し、 《胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え》  だとか、 《喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ》 《それらの歌々を 行く行く人びとの胸郭にたたきこめ》 (筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』に準じて引用)
 と、盛んに煽動されておしまいまでを読むのに、あるいはそれを声に出して読むのに、どれほどの勇気がいったことか…