N響の歌劇「カルメン」

【N響歌劇「カルメン」のフライヤー】
 N響の歌劇「カルメン」の第1幕と第2幕をテレビで鑑賞して1週間後、第3幕と第4幕が同番組(Eテレ「クラシック音楽館」)で放送された。第3幕と第4幕はてっきり番組の都合上割愛してしまったのかと思っていたが、2週に分けて放送という形で、結局のところ演奏のすべてを観ることができた。
 前回(「歌劇『カルメン』とその女」)のおさらいをざっとしておこう。NHKで放送されたのは、昨年12月9日、NHKホールで創立90周年を記念したN響の定期公演プログラム、シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団の歌劇「カルメン」(演奏会形式)である。おもなソリストは、カルメン役=ケイト・アルドリッチ、ドン・ホセ役=マルセロ・プエンテ、ミカエラ役=シルヴィア・シュヴァルツ、エスカミーリョ役=イルデブランド・ダルカンジェロ。ちなみに合唱団は、新国立劇場合唱団とNHK東京児童合唱団。

 第3幕の「山間の荒れ地」。ここではジプシーの女達がカード占いをし、カルメンが不穏なカードを引いて、死の気配を暗示させるのだが、密輸入者の仲間入りをしてしまったホセは半ば茫然としているところを、ミカエラが救い出そうとやってくる。ここでミカエラは美しい祈りの歌を歌う。「ミカエラの詠唱」である。
 この「ミカエラの詠唱」を歌い上げるミカエラ役のシルヴィア・シュヴァルツが、実に美しい。その歌の響きもさることながら、超然と気持ちを込めて歌う彼女の艶やかな容姿は、もしかするとこのN響カルメンの白眉と言っていいのではないだろうか。こんな調子で美しく目の前で歌を歌われたら、私なら――この私なら、というメタフィクションの愚の骨頂を許していただけるのなら――すぐにでも翻ってミカエラの傍へ赴き、冷ややかでつれないカルメンを思い切って捨てる! そして一目散に二人で下山するであろう。
 しかし、ここが数奇なる男の性。ドン・ホセの愚かなところ。そんなふうにミカエラに祈られれば尚のこと、あるいはその思いが通じないせいなのか、カルメンへの愛がますます強くなり、結局は、自らを、当然カルメンをも窮地に追い込むことになる。まったくカルメンとは、いかなる魅力の女なのだろうか。

 第4幕「セビリアの闘牛場の前」。かなり客観視すれば、ここで諍いになるドン・ホセとカルメンの対面劇は、実際問題としてまことに羞恥の沙汰で見苦しいし滑稽。実に馬鹿馬鹿しい。なんといってもカルメンは既に闘牛士エスカミーリョの恋人である。それなのにドン・ホセは、無理やり復縁をせまるのだ。その男の神経とは、いかに。もちろんカルメンは断固拒否する。ドン・ホセはさらに復縁をせまる。カルメンも拒否し続ける。明らかに不穏な空気が漂う。
 ともかくその繰り返し。普通ならこのどうしようもないドン・ホセは、しつこすぎて観ていてうんざりするものだが、そこがどうしてどうして、歌劇「カルメン」の最高潮の見せ場となっている。この対面劇でがっぷりと四つに組んだ二人の(明らかにマルセロ・プエンテとケイト・アルドリッチの高い技量として)、外連味ないその丁々発止。とてつもなく大きな情熱と困惑と興奮とが、加速度を上げて波状の如く駆け巡る叙情歌の魅惑。緊張感を伴った男と女の最も壮絶な対立は、見苦しさを超越して神々しく輝かしい。情愛とは――。自惚れとは――。失意とは――。ああカルメン! 短刀でカルメンを刺し殺し、泣き叫ぶドン・ホセの声が高らかに響いて、幕が閉じられる。

§

 N響の名誉音楽監督デュトワの、高い完成度によるカルメン。この劇は人間的な自尊心や虚栄心、その弱さの明暗が色濃く描かれているが、あくまで歌劇としての品格は良質に保たれ、その純度は妥協を許していない。観終わってある種の爽快感を味わえるのは、作曲者のビゼー、リブレットの制作者であるアンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィによる類い希なセンスのたまもの。そしてその素材をしっかりと吟味して調理したデュトワの円熟の采配によるものだ。私はこれを、ナマの劇場で鑑賞したかった(その時のN響カルメンのフライヤーがこれまた見事。顔の見えぬカルメンの衣裳がまるで赤い薔薇のよう!)。同じソリストによる再演は、今後あり得るのであろうかと、夢を見続けていたい。

 ところで前回、グレース・バンブリーのカルメンを観る、と決意したのだけれど、これもどうやら約束が果たせそうである。フランス歌劇の歴史に触れつつ、次回はバンブリーのカルメンを堪能するつもり。なるべく近いうちに…。次回待たれたし。

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