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高校生の万国博読本

【『高校生の万国博読本』の表紙】
 バシェの「音響彫刻」修復プロジェクト(当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」参照)に鑑み、1970年の“大阪万博”関連の話題を増やしていきたい(※その他の万博関連の記事については、当ブログのカテゴリー・ラベル「万博」を参照していただきたい)。

 5年前だったか、1冊の古本をオークションで入手した。日本万国博覧会教育研究会編『高校生の万国博読本』という小冊子。この本の発行年は定かではない。が、万博開催年1970年の直前であることは間違いなく、これは後半で紹介するが、高校における万博旅行の際の必須読本であったようだ。内容は、全72ページのモノクロ判(世界地図と国旗を記した参加国一覧、会場案内図、会場パノラマ写真のみカラー判)で、当時の公式ガイド本をコンパクトにまとめた、学校での学習用とでも言うべきガイドブックとなっている。ちなみに、この小冊子には企業広告はいっさい掲載されていない。

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【当時の「万国博データ通信システム」の図表】
 『高校生の万国博読本』は、シンプルどころかとても几帳面で真剣そのもの。公式ガイドとして充分なヴォリュームとなっており、読み応えがある。言うまでもなく、“大阪万博”のテーマは「人類の進歩と調和」。本を開くとまずこのテーマが強調されて目に飛び込んでくる。おさらいがてら、万博の概略を列挙してみる。
 種類は「国際博覧会条約にもとづく第1種一般博覧会」。開催年「1970年(昭和45年)」。会期は「3月15日から9月13日の6ヵ月間」。会場は「大阪府吹田市千里丘陵」。主催は「財団法人日本万国博覧会協会」。これらを踏まえたところで、本は万博のテーマに関する基本理念の説明から入り、テーマの展開、これまでの万博の歴史と意義、それから“大阪万博”の設営に関する記述と続いて、さらにテーマ館、お祭り広場といった主要な設備の紹介となる。次はエキスポランドという娯楽地区、日本庭園、日本館の紹介及び解説ページとなり、その後各パビリオンのページとなっている(これが約半数のページを割いている)。最後は、「出展国の素顔」と題した、各国の国名や面積、人口、首都名、民族・宗教・言語など付随の事柄が表にまとめられたページがあって、「会場の交通」という万博会場までの道程を示した地図で本の内容は終わる。

 本当はここで、“鉄鋼館”のパビリオンについて書き連ねたいと思っていたのだが、それは別の稿に譲るとして、この『高校生の万国博読本』で私が一番興味を持ったページについて、ここでは触れておく。それは、「万国博づくり」と題されたページである。

【会場のピクトグラフ、入場料金、会場への交通など】
 “大阪万博”は129カ国と24の国際機構、国内企業・団体、外国の州・都市、民間団体に参加招請活動をおこなって、万博史上初の77カ国の参加が決定した、とまず書いてある。会場建設に関しては、羽田空港と同じ約330万平方メートル、標高30~70メートルの千里丘陵の地形を活用してすり鉢状に造成された、とある。この時見積もられた入場者数は3千万人という予想を超え延べ5千万人。未来都市として設計された会場の各施設の配置の問題、水・ガス・電気の供給の問題、そして入場者の管理及びそのサービスがたいへん重要な課題としてあったようだ。
 このページ内に示された「万国博データ通信システム」なる図表に、思わず釘付けになる。これは本部ビル別館の「電子計算機センター」を中枢とし、各部の情報システムとオンラインでネットワーク化された全体のフローを示したもので、会場内に設置されたセンサーやコンピューターからのデータを「電子計算機センター」が一括で管理し、それをもとに新たな情報を送り返す仕組みと言っていい。例えばそれは、駐車場やエスカレーターに設置されたセンサーによる混雑状況であるとか、待ち合わせ案内のやりとり、あるいは迷子センターや医療施設との連携などを指すのだろうが、今でこそ世の中で当たり前となっているコンピューターを介したネットワーク・システムが、この47年前の“大阪万博”の会場内で画期的に導入・活用されていたことに、驚きを隠せない。まさにそこは、実際的な「21世紀の未来都市」だったのである。

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 話は変わる。
 私がこの『高校生の万国博読本』を入手した際、一折の栞(しおり)が挟まれていたのだ。それは、「修学旅行のしおり」であった。1970年の9月8日から14日までの7日間、秋田県の「県立能代北高校」で“大阪万博”への修学旅行が実施された。その当時の旅程表である。
 こまかい話になるが、私は、この高校の万博旅行の計画が、本当に実施されたかどうか確認することができていない。少なくとも当時の「県立能代北高校」では、そのような旅行の計画があり、このような栞が作成・印刷(日本交通公社の秋田営業所が発行印刷)され、生徒に配られたことだけは確かなようである。現にこの栞には、当時高校2年生であったある生徒の実名が、直筆のボールペン字で書かれてあった(※個人情報であるため、こちらで画像にぼかしを入れた)。

【読本に挟まれてあった「修学旅行のしおり」】
 さて、その旅程表を見てみる。これがまた驚くべき、凄まじい旅程となっているのだ。
 出発は9月8日の18時半(はて、9月8日火曜日は授業があったのか?なかったのか?)。能代から東能代に赴き、臨時列車(国鉄・夜行急行おが3号)で上野駅に到着するのは、翌日の9時24分。東京駅着は10時20分で、新幹線ひかり27号に乗り、京都に13時10分着。その日はまるまる京都の観光地(二条城や清水寺)を巡って京都内の旅館に宿泊。
 3日目、8時出発。京都から大阪の万博会場までバスを使い名神高速で移動。9時20分に会場入り。たっぷりと万博見学。16時半前に集合となり、往路と同じ手段で京都の旅館に戻る。京都着は17時半。
 4日目は、3日目とまったく同じ旅程。2日目の万博見学。
【夜行列車を含んだ7日間の旅程表】
 9月12日の5日目は、8時半より京都からバスで移動、9時半に比叡山根本中堂を見学。11時に滋賀県大津の石山寺を見学、13時半に京都の宇治平等院を見学。15時半には奈良へと赴き、東大寺及び興福寺を見学。17時半に奈良の旅館に宿泊。
 13日の6日目。8時に旅館を出発。唐招提寺を経由し、9時半に薬師寺、11時に法隆寺を見学。そうして帰路となる新大阪には15時着。15時45分発のひかり310号で東京駅着は18時55分。この日は旅館に泊まらない。そのまま上野まで乗り継ぎ、20時6分の臨時列車、夜行急行おが2号に乗る。東能代に着くのは翌14日(7日目)の8時5分という強行。能代に到着は8時40分。午前中の解散、は言うまでもない。

 旅程表を見ているだけでこちらが疲労困憊になりそうな、移動の多い盛りだくさんの旅。万博見学がメインだが、京都や奈良、滋賀まで脚を伸ばしている。
 万博見学に2日分を要したのは恵まれた計画だったのか、あるいは逆に過酷な試練であったのか、これなら大人気だったアメリカ館やソ連館に長時間並ぶのも選択肢として考えられるし、1日はそれに費やすこともできただろう。それはともかくとして、まるで地球の裏側を旅するかのような、秋田から東京、そして畿内を巡る壮大な4泊7日の旅であっただろうと思われる。
 残念ながら、この栞には、この持ち主の学生が万博会場でどんなパビリオンをまわり、どんな体験をしたか、行く予定のパビリオン等のメモが書き込まれていなかった。したがって、安直に想像することはできない。しかし、これだけの旅程の中で、その2日間が最高の思い出となったことは、言えるのではないか。『高校生の万国博読本』という本を通じ、私にとって幻であるはずの“大阪万博”が、さも実体験したかのように感じられるのは、この生々しい栞が挟まれていたからである。本当に貴重な資料なのだ。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…