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7月, 2017の投稿を表示しています

漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
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 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

映画『ミザリー』のこと

若い頃に観たスティーヴン・キング原作物の映画を、何の因果か知らぬが、今頃になって頻りに好んで観ている。キング原作でロブ・ライナー監督の映画『スタンド・バイ・ミー』については既に書いた。その稿で私は映画『ミザリー』についてこう述べている。 《同じロブ・ライナー監督&スティーヴン・キング原作の映画『ミザリー』(Misery)の方が映画としては好きで、その主演のキャシー・ベイツの恐ろしいほどに温和で甘ったるい顔が脳裏に刻まれていて離れない。うっかりすると、まったく毛色の違う『スタンド・バイ・ミー』の原作者が、同じスティーヴン・キングであることを忘れるほどだ。これらの映画は実に対照的である》。
 『ミザリー』は、1990年公開のアメリカ映画で、監督ロブ・ライナー、主演はジェームズ・カーン、キャシー・ベイツ、ローレン・バコール、リチャード・ファーンズワース。ちなみに、老齢のバスター保安官役を演じたリチャード・ファーンズワースが実に正義感たっぷりで格好良くジェントルマン。その妻役のフランシス・スターンハーゲンもお淑やかでおちゃめといった感じで愛くるしい。  この映画を一言で言い切るとするならば、観ている側が脂汗を垂らしながら「痛さを堪え」る映画、である。あるいは過去に忘却していた己の「痛み」をしっかりと思い出させてくれる、ありがたき、いやちっともありがたくない迷惑な映画、と言える。
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『スタンド・バイ・ミー』が季節の夏を描いたなら、『ミザリー』(又は『シャイニング』も)は冬。スクリーンいっぱいに真っ白い雪景色が広がる。――コロラドの田舎町シルヴァー・クリークで吹雪に遭遇し、車ごと、車道に面した小さな谷間に転落してしまった小説家の男ポール・シェルダンは、全身に重症を負ったにもかかわらず、“運良く”地元の一人の中年女性に救い出される。  この映画の“幸いなる”ストーリーは、ここから始まるのだ。ポールは長い冬の間、ずっとその中年女性の家で療養生活を送ることになる。彼は死なずに済んだのだ。ラッキーな男だ。しかもこれはまさしく“運良く”と言っていいだろう、彼女は元看護師で、怪我の手当はお手の物だったのだ。
 ポールのヒットセラー小説“ミザリー”シリーズの大ファンである、中年女性の彼女アニー・ウィルクスにとって、思わぬ怪我人の看病を強いられる事態でありながら、彼の来訪は又とない“憧れ…

柳瀬尚紀のユリシーズ

今年の2月、新聞の文化面の書評記事で作家の円城塔氏がこんな書き出しをしていて思わず目に留まった。

《まだまだ小さかった頃、同じ本に複数の翻訳版があることに戸惑いを覚えた記憶がある。言葉を正確に翻訳すれば、訳文は同じになるはずではないかと素朴に信じていたらしい》
(朝日新聞朝刊2月5日付より引用)
 《まだまだ小さかった頃》に、《複数の翻訳版があることに戸惑いを覚えた》経験を、私は同じ“小さかった頃”に、していない。それ以前に、「外国の本を日本語に訳している」本の体裁そのものに、私は疎かった――。  自分の住んでいる国の外側に、余所(よそ)の国があるということを概念的に知ったのは、随分後年だったのではないかと思う。幼年時代にほとんど原初と言っていい、大人が読み聞かせてくれた「外国の本」が、私にとってルース・スタイルス・ガネットの名作『エルマーのぼうけん』であった。この『エルマーのぼうけん』か、ヘレン・バンナーマンの『ちびくろ・さんぼ』かどちらかが、私にとって最初の「外国の本」だったのだろう(もちろんそれらは日本語に訳されていた)。少なくともこの幼年時代において、それらが「外国の本を日本語に訳している」本だという認識を、持ち得ていなかったはずだ。  小学校に入ってから、図書室という狂おしくときめきの場所に居座り、翻訳された「外国の本」に多く接する機会があったけれど、やはりそこでも、《複数の翻訳版があることに戸惑いを覚えた》経験はなかった。ましてや翻訳の優劣で文章が変容し、事柄のニュアンスが変わってくるなどとは露程も知らず。まだ幼くて稚拙な日本語しか話せない自分には、訳された内容云々を言及するだけの能力が無かった(他の子供達は、そういうことに気づいていたのだろうか)。図書室に置かれた本に対する、ある種の敬愛心から来る礼儀として、本に対してケチをつけることへの「おこがましさ」があったのかも知れない。

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 こんなことを書いたら怒られるかも知れないが、児童書の翻訳版で、例えばその頃読み親しんだジャン・アンリ・ファーブルの『ファーブル昆虫記』を、岩波文庫版で読みたいとは思わない。あるいは『エルマーのぼうけん』が文庫版になっていたとしても、そちらで読み返したいとは、決して思わない。

 子供の頃に親しんだ児童書には、思い入れと言うには少し大袈裟であるが、児童書なりの良き体裁と…

キューブリックの『シャイニング』

何故私はスタンリー・キューブリックの映画を好んで見続けるのかと言えば、そこに彼の最高傑作と思える遺作『アイズ・ワイド・シャット』があり、『2001年宇宙の旅』という壮大な哲学的オデッセイがあり、究極の叙事詩『バリー・リンドン』という作品があるからに他ならない。  スタンリー・キューブリックは1928年ニューヨークに生まれ、若い頃は雑誌のカメラマンとして腕を上げた。1950年代頃から映画製作に携わり、62年には『ロリータ』を、64年には『博士の異常な愛情 又は私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』を公開し、65年のあの『2001年宇宙の旅』(と共に博したヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」)で世界的なセンセーションを巻き起こし、一躍“時の人”となる。  1999年の遺作『アイズ・ワイド・シャット』が最高傑作となる決定的な布石があるとすれば、それは1980年公開の『シャイニング』だろう。この映画は彼の作品史上、最も収益を上げた作品となっている。『シャイニング』はホラー映画である。しかもホラー映画であって、単純なホラー映画ではない。様々な芸術的細工を施した、総合的芸術作品である。キューブリックが生涯作り続けた映画はすべて、その一つ一つが名画に匹敵する芸術作品でもある。
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《『シャイニング』は1980年5月23日金曜日にニューヨークで公開された。スタンリー・キューブリックはその作品に3年もかけていた。上映するためのフィルムがプレミア上映前の水曜日までできなかった。キューブリックが最初の6本のフィルムの音質を不満に思ったために、試写会は延期された》 (ヴィンセント・ロブロット著『映画監督スタンリー・キューブリック』晶文社より引用)
 この映画は当時画期的であった「ステディカム」(ステディカム・ジャイロスコピック・キャメラ・システム)を採用し、そのオペレーターであるギャレット・ブラウンによってほとんどのシーンが撮影された。動画撮影でカメラを手に持って走った映像を思い起こして欲しい。着地と同時に映像がぶれ、非常に見苦しいショットになるが、このぶれをほぼ完璧に抑えるべく開発されたのが「ステディカム」で、岡持を“出前機”に装着したバイクを想像すれば分かり易い。ああいった平衡状態を常に保つ仕組みの器械装置をカメラマン自体に装着し、カメラを装着する…

ノヴェンバー・ステップス―腐蝕の音楽

前稿に引き続き、武満徹の作品評と私の個人譚。  高校卒業後、幾年か過ぎ、その筑摩の国語教科書の武満徹著「暗い河の流れに」を読んでからというもの、「ノヴェンバー・ステップス」についてはやや関心があった。しかし私はまだその時、彼の映画音楽的な、いわゆる映画の映像進行に寄り添った形での音楽として、音楽家としての評価に傾き、彼の作品を避ける傾向があった。したがって「ノヴェンバー・ステップス」を“真に受けて”聴いたのは、今回が初めてのことであった。
 私が今聴いているのは、1967年12月8日に録音(世界初録音)された小澤征爾指揮、トロント交響楽団による演奏のCDで、ハイレゾでリマスタリングされた高音質でクリアなサウンドの「ノヴェンバー・ステップス」である。この曲は同年11月、ニューヨーク・フィルの創立125周年を記念した委嘱作品として初演され、作曲者である武満徹監修のもと、翌月カナダ・トロントのマッセイ・ホールにてレコーディングされたものと思われる(CD封入のブックレットの最終頁には、その時の録音スタジオ写真――武満及び小澤の神妙な表情と態度が写った――が掲載されている)。ちなみに、トロントはカナダの南東部、アメリカのニューヨーク州と国境を隔てたオンタリオ湖の北西部にある。
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 彼の生涯に遺した作品歴が明らかとなっている今となっては、それが実に“武満らしい”と分かるオーケストラによる金属的なひしめき、弦楽の不穏な和声の合間を縫うようにして、「ノヴェンバー・ステップス」では邦楽の琵琶(演奏者・鶴田錦史)と尺八(演奏者・横山勝也)が全体の21分間弱のうち大半をしめて独奏される。これらの邦楽器の存在が少なくともニューヨークの初演やトロントでのレコーディングでまことに“好奇な”評価を得た大きな理由であったと、私は思う。  レコーディングにおける音像では、尺八が右チャンネルに定位し、琵琶が左チャンネルに定位。ほんの幾度か、これらの独奏に覆い被さるようにして左右に広がったオーケストラのアンサンブルが加わるのだが、それもごく限られた尺のことで、この曲のほとんどの印象は、邦楽の琵琶と尺八の響きで形成されると言っても過言ではない。
 琵琶と尺八による独奏で私がインスピレーションを得たのは、東海道四谷怪談などといったいわゆる怪談物の独演会で奏でられる、奇々怪々でおどろおどろしい響きである。 …