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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈八〉

前回はmas氏のライカと新宿の話。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」のシリーズは数えると今回で8回目である。これは私自身の、カメラと写真を軸とした“素行”を紐解く重要な鍵としての(「茶」の精神と絡めたりして)、過去に読み耽ったウェブサイトにまつわる“回想録抄記”となっている。  いま私は、自主制作映画というスタンスで、“ちっちゃな映画”(タイトルは『アヒルの狂想曲』)を本気で創り始めているのだけれど、その“ちっちゃな映画”的なものをかつて創ろうとしていたのが、サブカルで私淑するmas氏だったのだ。私は彼の影響を(ウェブとサブカルの側面で)多大に受けている。mas氏は90年代末頃、アメリカの写真家デュアン・マイケルズ(ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals)に感化され、自身のカメラで撮影した散歩写真を掻き集め、一つのフォト・ストーリー作品を創ろうとしていたのだった。タイトルは、「My Last Pictures」であった。
 いま、“ちっちゃな映画”を創り始めた矢先、私はmas氏のウェブサイトをあらためて思い出す。そこにはサブカルへの深い愛着があった。彼は2000年代初め、自身のホームページ上のアーティクルにその映画創りの話を持ち込んで、読み人であった私にある種の熱量を注ぎ込んだのである。カメラとレンズと、そのアクセサリーを満遍なく揃えること。たっぷりと落ち着いた風情で世界を見わたし、その風景に己の足で大きく踏み出すこと。人生の最大の《余興》であり得るのが、映画ではないかということ――。
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 とても残念なことに、「My Last Pictures」のフォト・ストーリーのテクストも、そのウェブサイト自体も、今は現存していない(ただし、テクストは私個人がアーカイヴしてある)。それでも今年、彼の別のサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)がWWWのサーバー上に残っているのを発見して、今のところそれは、誰でも見ることができるようになっている(いずれ消えてしまう可能性がある)。更新は10年以上前を最後に途絶えてしまっているが、mas氏がそこに残した、旅行記や家族を写した写真、花などのフォト・ギャラリーとなっており、2000年代に作成したウェブサイトの一端を垣間見ることができ…

強精カクテルいろいろ『洋酒天国』

【『洋酒天国』第11号】
 今年3月2日付の「ごきげんよう『洋酒天国』」を機に、私は一切合切、自身のヨーテン・ライブラリー数十冊を古書店に擲ってしまった。書棚に大きな隙間ができた。これできれいさっぱり、ヨーテンを忘れ去ろうという気でいた。昭和30年代のトリス・バーで人気を博した壽屋(現サントリー)のPR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)の無類の面白さは永遠に――とは言え、あまりにも古びたこれらの本をずっと手元に所有しておくことは、我が蔵書の管理の関係で難しくなり、結果、断腸の思いでヨーテンの“卒業”、という気分になったのであった。
 ところが――。
 数ヵ月前、『洋酒天国』の本を古書店に擲った後のこと、書棚を整理していると、ひょっこりと一冊、ヨーテンが現れた。なんとそれは第51号であった。第51号を所有していたとは、すっかりそのことを忘れていて、かつ、まったく別の場所に紛れ込んでいたから、古書店に送ったヨーテン・ライブラリーのリストに数えられていなかったのだ。
 かくして第51号は自宅に残留した。もはやこれは手放さないでおこうという気持ちになった。次第に私の気分は、再び昂揚して、ヨーテンのユーモアと華やかさが懐かしくなっていった。気がつけば――とある古書店からまたまた、レアで珍品のヨーテン第11号を入手してしまったのである。これはいかん。これはいかんぞ。
 こんな調子で私は、いま、ヨーテン熱が復活してしまった。熱を冷ますのに時間がかかりそうだ。期末試験に不合格。赤点で留年決定――。ごきげんよう、どころではない。『洋酒天国』からまったく“卒業”できていない。ともかく、ままならぬ欲心復活ということでご留意、ご勘弁願いたい。今回は、その第11号を紹介してしまおう。

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【中村正也撮影「彼女の眠りを妨げないように…」】
 ヨーテンをしげしげと眺める。やはりいいものだ。最高の友である。トリスのハイボールを飲みつつ、読み耽る。久しぶりに格別なる酔いの気分を味わう。
 『洋酒天国』第11号は昭和32年2月発行。表紙は坂根進。本を開いた扉には、《恋する者や酒のみが地獄に落ちたら天国は人影もなくさびれよう!》という含蓄ある小川亮作訳のオマル・ハイヤーム(ペルシアの詩人ウマル・ハイヤーム、Omar Khayyám)の「ルバイヤート」の詩と、柳原良平氏のイラスト。これぞ、ヨーテン酔狂の世界。昭和32年2月とは、これまた遠い「昭和」の昔々である。
 第11号発刊までの1年を遡った世相を調べてみた。昭和31年1月には、石原慎太郎の『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞。“太陽族”が流行語。これほど有名な小説を、私はまだ一度も読んだこともかじったこともない。“太陽族”とは言わば、戦後アプレゲールを意にした若者達を指す造語である。同年5月には早々と同名映画が公開され、実弟の石原裕次郎が銀幕デビュー。2月に「週刊新潮」創刊。10月には、モスクワにてソ連と「日ソ共同宣言」調印。そんなような時代。この頃、ウイスキーやリキュールなどの洋酒が軒並みブームとなっている。

【「サロン・ド・ノメエ」。池田竜雄氏のイラストと文】
 さて、『洋酒天国』第11号の中身。
 「コント三人集」。フランス文学者の田辺貞之助と演出家・丸尾長顕(日劇ミュージックホールのプロデューサー)、詩人・岩佐東一郎ら3人の、洋酒にまつわる珍芸奇芸的エッセイ。
 その中で私が好きなのは、岩佐氏の「ジン・フィズ」の稿だ。彼がまだ未成年であった頃に銀座の「サンチャゴ」というバーでジン・フィズに出合ったという話。そのバーでは知人の作家陣らと夜を享楽した云々が記されている。堀口大学、城昌幸、矢野目源一という面々。法政の大学生だった彼は、バーの女給を愛してしまった。「エミー」という名で、いまの“太陽族”とはちがう、と何故か付記している。愛のせいか、否定にも幾分熱がこもっている。ねり香水の「エミー」(?)をその子にプレゼントしたらしいが、音沙汰なかったらしい。《ドライジンを呑むたびにじいんと心がウェットする》という岩佐氏の言葉には、シニカルな響きがある。その後「エミー」はどうしたのだろうか。

 「サロン・ド・ノメエ」のエッセイでは、前衛画家・池田竜雄(池田龍雄)氏のイラストと文。この人の絵は、どこかヒエロニムス・ボスを想わせる。
 終戦の日の5日前、海軍の霞ヶ浦航空隊に所属していた17歳の池田少年は、航空隊解散という酒宴の場でウイスキーをしこたま飲み干し、しかも無謀なことに、腕立て伏せを繰り返したという若気の至り的な話。
 彼はこうして二日酔いの朝から第二の人生が始まったとエッセイを締めているが、まだまだ酒の酔い方を知らぬ少年が、ただその場の酒宴の勢いに呑まれ、またそれをしなければ男ではないといった愚にも付かぬ空気に呑まれ、自分が酒を呑んだのではなく呑まされていたという事実に気づくのは、まさにこれを書いている三十路前の今――だったのだろう。彼が無謀だったというより、あの頃の軍国日本こそが、無謀で破廉恥な生きものそのものであったし、無益な戦争を繰り返して、悪魔の宴で国民が酩酊していただけである。終戦後のアプレゲールというのは、その背徳の大人達のもとの残滓に他ならない。まあ、それはともかくとして、池田氏のこのイラストからは、自由なる少年の心持ちがよく表現されていて、私はいつまでも見飽きない。

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【矢野目源一氏の「強精カクテルいろいろ」】
 最後に、「強精カクテルいろいろ」を紹介する。これを書いたのは作家・矢野目源一氏である。アンリ・ド・レニエなどの翻訳家としても知られる。矢野目氏の著書はこの手の健康・美容系のたぐいが多いけれども、「強精カクテルいろいろ」もなかなか当時としては、“実践向け”指南であったのだろう。

 ここでは4つのカクテルが紹介されている。例えば第一のカクテルは「淫羊霍カクテル」(いかりそうカクテル)。イカリソウはメギ科の多年草で、干した根は強壮剤となる。そうした強壮剤と酒をミックスさせてしまおうというのが、どうも日本人的発想に思えてくる。このカクテルは、《精液の分泌を旺盛にするエピミザンを含有》とある。イカリソウをドライ・ジンの瓶に詰め込んで、1週間寝かすのだという。ウズラの卵を4個加えてシェークすれば理想的、というのだから、強精カクテルとしては手強い。
 「木天蓼カクテル」(またたびカクテル)というのも書いてある。もはや、何も説明する必要はないだろう。マタタビを粉にしてウォッカの中に入れ、10日間寝かす。そして別の瓶に漉して移し替えると、美しい琥珀色のものができる、のだとか。発想は中学生並みといったら失礼だが、ちょっと効き目としては一度くらい、試してみたくはなる(絶対やらないが)。
 矢野目氏は、この手の知識がすこぶる豊富だったようだ。さぞかし夜の友としては、このような強精カクテルを毎晩隠れて飲んで、燃え上がる焔のように火照った身体で右往左往していたのだろうか。そんな姿を見たくはないが、ヨーテン面目躍如といったところである。

(※もし『洋酒天国』小冊子をお持ちの方で、お譲りいただける方がございましたら、こちら。

コメント

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

高校で学んだ「清光館哀史」

高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。  「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。  そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。
 子供を連れて汽車の旅を続けていた柳田が、子供に《今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ》と訊かれ、別に悪いわけではないけれども、九戸の小山内の清光館は小さくて黒かったね――と答えるこの随筆の最初の文章が印象的で、教科書には、“当時の小山内周辺”という岩手県九戸郡の地図まで付記されており、神妙な親子の汽車の旅の小景が目に浮かぶようである。しかも紀行への敬慕の度合いが日増しに――少なくとも今、28年という重みで――自己の内心に跳ね返りながら増幅してくる不思議な随筆である。「清光館哀史」をあらためて読み返す意義は、確かにあったのだ。この心持ちの正体は、いったい何であろうか。
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 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。
 平成2年(1990年)、そのうちの春であったか夏であったか、あるいは秋であったかは思い出せないが、工業高校の3年生だった私は、国…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
 「藤野先生の『頓挫のある口調』について」。  三宝氏は『藤野先生』(魯迅『朝花夕拾』所収)で、魯迅が綴った先生の“口調”にまつわる表現――頓挫のある口調――の翻訳について鋭く言及している。頓挫のある口調とは、いかなる口調であるのかと。  さて、と思い、私は高校時代の筑摩書房の国語教科書を開いた。残念ながらその教科書には魯迅の『藤野先生』は収録されていなかった。書棚を探して皮肉にもそれを見つけたのは、同じ筑摩の『筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫)である。ここに収録されていた『藤野先生』は竹内好訳で、『世界文学大系』第62巻(筑摩書房)に拠っている。私はこの竹内氏の訳版によって、三宝氏が言及する部分を見つけることができた。
 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。  『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。  読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。  私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じで…

We Are The World―伝説のレコーディング

私がレコーディングというものに真剣に興味を持ったのは、中学生の時だ。その頃、USA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」のビデオを観た。今思えば不思議な巡り合わせである。極端な話、このビデオを観ていなかったならば、音楽などやっていなかったかも知れない。
 そのビデオは、レコーディングの光景を如実に映したメイキングで、AKG C-12という名機のマイクロフォンの前でライオネル・リッチーが歌い始めるシーンが印象的。だが、ライオネル・リッチーとマイクロフォンのあいだに、奇妙な“布膜”の存在を“目撃”したのだ。どう見てもそれは、女性が穿く「ストッキング」であった。何故、ライオネル・リッチーとマイクロフォンとのあいだに、女性が穿く「ストッキング」が在るのか。中学生だった私は、思い悩んだ。結局はその「ストッキング」の謎解きこそが、レコーディングという制作現場への興味をいっそう深くし、自らもそれにどっぷりと浸かっていくきっかけになったわけだ。私はこれを、「思春期のストッキング事件」と称している――。
 さて、平成の時代がもうまもなく終わる。そういう時世において、かつては誰もがサビを口ずさむことのできたUSA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」など、“知らない”世代が増えてきているのではないか。そのことを承知の上で、「We Are The World」と私自身の想い出を書き連ねることは、逆にとても有意義なことだと思っている。前稿の「ミックステープってなんじゃらほい?」と多少なりとも繋がりのある話であり、昨年1月に書いた「青空の多重録音」も併せて読んでいただけるならば、この話はもっと聡明になるに違いない。私的なことながら、これは私にとってとても大切な、そしてある意味とても不思議な、歌とマルチ・トラック・レコーディングの話なのだから。
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 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ…