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12月, 2017の投稿を表示しています

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「ひだまりのうた」について

2018年1月、私は「ひだまりのうた」という歌を作る。作り始める――。これについて二三、作る際のまえおきとして書き残しておきたいことがある。この曲のテーマは、“どこへ行ってしまったか分からない《昔》の友に贈るブルース=応援歌”ということになっているが、個人的に、この曲を作ろうと思ったきっかけとなった、「ある友人」について(充分考えた末に思い切って)書いておきたいのである。  実際のところは――「失踪」ではないのだろう。だが私にとって、この長い年月の果て、友人=彼が居なくなった状況を「失踪」ととらえて今日まで認識している。昔からの仲間であった周囲とのネットワークを断ち、結局ほとんど誰も彼の居場所を知らない有様なのだから、ある意味において「失踪」と言えるだろう。彼は私のかつての「友人」であったし、その昔所属していた劇団のリーダーでもあった。
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 10年前の秋に発刊された、ある演劇雑誌の取材記事には、当時の彼の飄々としたプロフィール写真が掲載されている。無論、その記事は劇団のプロモーションを目的とした内容である。母体の劇団のリーダーとして座し続けた余裕と自信に満ちた態度が、そのプロフィール写真に滲み出ていた。雑誌の取材を受け、とうとうとした語り口であったろうことが想像される彼の言葉には、劇団に対する「情熱」と「希望」と「夢」と、底知れぬユーモアのセンスが鏤められ、「ナンセンス・コメディ」を標榜する劇団の旗印としてのイメージは、すこぶる健やかなものであった。  10年前といえば、私はとうの昔に劇団を脱退した人間だったので、彼と会う機会はまったくなく、こうした業界雑誌を通じての所見ではあるものの、その頃の彼は元気そうで紛れもなく絶頂期の「演劇人」であったろうし、「信念」を変わらず貫いているという感があった。  それから数年後、彼は劇団とメンバーとのあいだで「いざこざ」を起こす。そしてまもなく「失踪」してしまった。6年ほど前のツイッターの書き込みを最後にして以降、彼はほとんどすべてのSNSの更新を断絶し、ネット上から姿を消した。だから、仲間内でも彼の居場所を知らない――と私は認識している。この認識が間違っているかどうか分からないが、少なくとも今、彼という存在が周囲からいっさい消えた「空白」の、途上の最中にあって、双方にとってとても穏やかな、波風の立たない期間が経過してい…

下館の駅

年の瀬。気もそぞろ、後々忘れてしまいそうな、思いがけないありふれた《風景》を記憶に刻み込んでおきたいがため、これを書く。  今年の11月22日、私は亡くなった父の年金関係の書類手続きを済ませるため、同じ茨城県の筑西(ちくせい)市を訪れた。茨城県内の年金事務所というのは、計7ヶ所あって、土浦(2ヶ所)、日立、水戸(3ヶ所)、下館(しもだて)ということになる。筑西市にあるのが、下館年金事務所。私はそこを訪れ、煩雑な書類申請の手続きを済ませた。こう言ってはなんだけれど、まったく“思いがけず”辺鄙なところにその年金事務所がある。田畑と閑静な集落に囲まれた一角に、田舎の郵便局風情の建物があって、中は事務員と来訪者でそれなりにざわざわと賑やかであった。喉が渇き〈蜜柑が食いたい〉と思った。そんなような環境である。

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 “知らぬ町”の雑踏への好奇心は人一倍ありながら、さすがに今回は重要な案件だけに、その日の午前、駅に着いた私は足早に、事務所へと向かった。交通手段はタクシーであった。  タクシーの運転手さんがとても愛想良かった。「年金事務所ですか。私も…二三、年金について相談したいことがあるんですがね」と呟いた。おもむろに私は「はあ」と応えた。しばし会話が途切れた。  「市外からもたくさんの人が、事務所にやってきますよ」と再び運転手さんが口火を切った頃には、既に事務所の前に到着してしまっていた。向こうが年金に関していったいなんの相談を持ちかけようとしていたのか、とうとう聞けずじまいであったが、已むを得ない。それはそうとして、もっと立派なビルディングを想像していたが、事務所の体裁はやはり、どう見ても小さな郵便局である。  それから中で、およそ1時間半くらいかかり、書類の申請手続きが済んだ時は、正午近くになっていた。その場でタクシーを呼び、再び駅に戻った。往路の運転手さんではなかった――。
 駅は、JR下館駅である。地方のどこにでもある普請に真新しい塗り壁を施したような駅舎、と言っていい。ついつい私は茨城県の古い人間なので、“下館市”と口走ってしまいそうになる。が、ここは筑西市なのだ。  駅の反対側には、筑西市の市役所がある。ここはもともと、20数年前に駅前の再開発事業で出来たショッピングモール施設であった。それが十数年前のショッピングモール閉鎖いざこざに伴い、以後新たに計画され…

モニュメンタルなオザケン

ごくごく近いある夜、バッカスがお呼び立てした「宴」が急遽中止となり、ぽかんとした気分でいたところ、俄にその中止の原因が、水面下による、人間の心の疚しく愚かしい《嫉妬》の仕業だと知り、私は心許なく落胆した。水入りである。  出席者同士の対立というのではないのだ。その人にとって不都合な、不条理と思える局面を理性によって目視静観することのできない利己的な「不安」と「気弱さ」が、事の推移を有為に堰き止め、出る杭を事前に打って抑えつけたのである。こうなると、歌によって何事かを表現することが使命の私にとっては、真っ白になってしまう。何もできない。混迷の一瞬とはまさにこのことであり、舞台の板を外されること、あるいはマイクロフォンのケーブルを外されることは、不本意ながら、私の最も怖れる事態なのである。
 直感というのは恐るべき妄想を生む。そうした顛末の渦中、遠い彼方にいるオザケンのことを想った。私はあまりオザケンのことをよく知らない。知らないが、ただ、1995年のあの曲だけは、特別だ。その頃のテレビ・ドラマ『部屋においでよ』(うちにおいでよ。主演は清水美沙、山口達也)で主題歌だった、「それはちょっと」。なんて懐かしい、22年前の曲。久しぶりにそれをプレーヤーにかけて聴いたのだった。  想えばその時以来、私の関心事はオザケンに及ばなかった。いつの日にか気づいた頃にオザケンは第一線から消えてしまった。その消えた理由について、何かそこには不条理な、愚かしい《嫉妬》であるとか、出る杭が打たれ舞台の板を外されただとか、そんなことがあって憤りを感じたのではないかと、私は勝手に妄想したのだ。この裏打ちのない妄想は心のどこかで共鳴し、反復した。言うなれば負となる不条理に、その消えたオザケンに、シンパシーを感じたのである。
 オザケンの「それはちょっと」と言えば、筒美京平だ。この曲の作詞は小沢健二、作曲は筒美京平、編曲が小沢健二&筒美京平。たまたま近頃、往年のグループ・サウンズ“ヴィレッジ・シンガーズ”を調べていたところ、ここでも筒美京平が絡んできて、独特の“筒美サウンズ”が耳の内側を心地良く叩き、ヴァイブした。「それはちょっと」は8分の4拍子のリズムで小気味いい音色によるイントロ、オザケンの“イチ、ニ、some shit!”というハッスル・シャウトがフレーム・インして始まる。が、いかにも筒美…

羊羹と『草枕』と私

風邪をひいていたから、この前漱石山房記念館を訪れた序で、神楽坂の“物理学校”に寄ることができなかった。悔しい。“物理学校”と言えば、『坊っちゃん』の坊っちゃんである。坊っちゃんは東京物理学校出身で、現在、神楽坂には明治39年建築の校舎が復元され、近代科学資料館となっている。無論、今は“物理学校”とは言わない。東京理科大学である。
 先月の26日、朝日新聞の記事で「『草枕』まるで桃源郷」という宮崎駿監督と半藤一利氏の対談の、“草枕”話を読んだ。『草枕』一つで、二人の語らいが熱を帯びたものになったことが想像される。  私も『草枕』が急に読みたくなった。と同時に、羊羹が食いたくなった。――羊羹。紫黒色の、餡を練ったり蒸したりして固めた菓子――。『草枕』を読むと、羊羹が食いたくなる。確か10年ほど前、『草枕』を読んだ際には、まだそれほど実物の羊羹に心を奪われることはなかった(当ブログ「漱石の『草枕』」)。が、それ以降である。この小説を何度も読み返しているうち、すっかり羊羹という菓子の虜になってしまった感がある。  だから私は今、ある老舗和菓子屋の羊羹を調達したのだ。それを頬張りながら『草枕』の字面を愉しんでいる。その老舗は慶応2年創業というから、考えてみれば漱石の生まれた前年ではないか。『草枕』に読み耽り、漱石山房を訪れ、またちまちまと『草枕』を開いたりしている。風邪はなんとかかんとか、おさまってきたようだ。
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『草枕』を何度も読んでいる。人生のうちにこれほど繰り返して読む小説はあろうか。『草枕』の中の些細な文章が、突然何を思ったか光り輝く瞬間というのがある。それを体験するのがすこぶる愉しい。新聞にもあったが、宮崎監督も《何度読んでも、どこから読んでも面白い》と述べて『草枕』を愉しんでいる。飛行機に乗る時も持っていくそうだから、言わば旅のお供の本である。私もそのように感じることがある。  『草枕』は、本(小説)の体裁よりはむしろ、旅に供する“行李”(こうり)に近い。若者からすれば、漱石と言えば『猫』だの『坊っちゃん』を読んだりして、とかく『草枕』は敬遠されているだろう。私も若い頃はこれを読むことはしなかった。けれども、だんだん自分が世の中の垢にまみれてくると、ほかの癇に触れる小説などは読みたくなくなり、なにかとビターなような文章の字面を、頭に詰め込みたくなる(数字がい…

漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
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 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

父の友だった犬

2018年の干支は、戌(いぬ)=犬である。WWFジャパン(公益財団法人 世界自然保護基金ジャパン)の会員の私は、会報誌『地球のこと』のコラム「いきもの徒然草」を読むのが好きである。冬号の「いきもの徒然草」のテーマは、やはりイヌであった。タイトルは「犬、わが友の物語」。
 ちなみにこの会報誌『地球のこと』についてあらかじめ述べておくと、毎号、実にこまかく丁寧に、地球環境保全の様々なプロジェクトの報告などがなされている。例えば日本は、「エコロジカル・フットプリント」の大きさが非常に大きい、ということが書かれてあったりした。世界の国々の平均値が「地球1.6個分」とやや大きく、地球環境の行く末が深刻に懸念されているのに対し、日本はさらにそれを上回る、「地球2.9個分」も地球に負荷をかけているそうで、これは驚くべき事実である。  こうした会報誌の中身を読んでいくと、地球を消費している側の、切実に身につまされる危機感が込み上げてくるのだけれど、「いきもの徒然草」をふと読むと、その心が一瞬和む。この緩急がなんとも言えない。
 元来、人間は自然を尊び、その自然と「共存・共栄・共生」してきた自負がある。そうしたことを考えるロジックが、コラム「いきもの徒然草」にはいつも含まれている。だからとても思索的で、柔らかい気持ちになる。ただし、今年のこのコラムに対しては、非常に私的な意味合いで、深く寄り添った感が強い。振り返れば今年、6月に同コラムを紹介したときは一角獣のこと、秋号ではシベリアとチェーホフの話、そして今号は来年の干支でもあるイヌの話題。いずれも私自身における、日常生活の機微とその対面の心の思惑とが交差していったのだ。
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 「犬、わが友の物語」。ある戦国時代の侍とその飼い犬にまつわる伝説。  南方熊楠『十二支考』(下巻・岩波文庫)の「犬に関する伝説」では、《犬に宗教の信念あった咄諸国に多い》というくだりから始まって、こうしたイヌにまつわる伝説が列挙されている。熊楠の並々ならぬ博学な、イヌ伝説に関する文献の羅列に無関心ではいられない。読み人は誰しもこれらの寄せ集められた話に感服してしまうのではないか。コラムではそのうち、熊楠が『和漢三才図会』に拠った部分の話を切り出している。
 ――戦国時代の三河国、宇津左衛門忠茂は、白い犬を連れて狩りに出たところ、眠気を催して木下で寝入って…