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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈四〉

前回からの続き。言わずもがな、お茶とサブ・カルチャーにまつわる話。  中国茶の「武夷肉桂」(ぶいにっけい)を取り寄せたので飲んでいる。このお茶は、福建省の武夷山が産地で、山肌の岩に生育することから岩茶と言われ、青茶すなわち烏龍茶の一種である。文春新書の『中国茶図鑑』にはこのように書かれている。 《葉は長めの楕円で肉厚。茶葉は黒ずんだ緑でツヤがある。果実あるいは乳の香り》 (文春新書『中国茶図鑑』「武夷肉桂」より引用)
 武夷の岩茶は香り高く、「武夷肉桂」は口に含む際に仄かなキンモクセイの香りがすると言われる。このような香りは、日本の煎茶にはない。実際に私も「武夷肉桂」の茶葉に湯を注いでみたのだが、花の香りで一瞬心がよろめき、なんともたまらない幸福感を味わった。高貴な気品が感じられ、味もまたとても青茶らしく奥深い。  前回紹介した中国茶「平水珠茶」は、その乾いた茶葉のエロティックな装いを礼讃したのだけれど、「武夷肉桂」もその姿がエロスを連想させてくれる。肉桂とはシナモンのことで、その香りに似ているというところから名付けられたようだが、この細く丸まった茶葉の縮れ具合を見ていると、まるでそれが女陰の小陰唇のように思えてならないのだ。  女性の慎ましやかな陰門の香りを愉しむ――といった淫らな“あるまじき”心の片隅の欲望は、あながち精神性への蔑み、冒涜、離叛の対象にはならないのではないかとさえ思う(むろん女性に対しても)。老子の古典を読んでいても、イスラムのアブー・ヌワースの『飲酒詩選』を読んでいても、これは私自身の雑感としてとらえられた感覚の傍証に過ぎないけれども、微量のエロスの抱合はかえって物事を(その多くは男と女の関係を)豊かにするものである。そうでなければ中国茶の真髄も軽やかさも理解できないに違いない。
 そういったことを踏まえてみても、中国茶は私にとって休息を愉しむための飲み物であり、精神修行の嗜みの一つである。いや、精神修行と言うのはあまりにも仰々しい。言わば、サブ・カルチャーにどっぷりと浸かるための心の準備体操、そのリブートのための精神的沐浴にすぎないのだから。尤も、体内には実際、茶のエッセンスが流れ込むわけだから、身体は純然とその養分で潤う。茶を飲んで心を清廉に、落ち着かせる――。これは酒を飲むのとは違う種類の、生きる歓喜である。歓喜の種は、いくつかあった方が…

We Are The World―伝説のレコーディング

【「We Are The World」エディション】
 私がレコーディングというものに真剣に興味を持ったのは、中学生の時だ。その頃、USA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」のビデオを観た。今思えば不思議な巡り合わせである。極端な話、このビデオを観ていなかったならば、音楽などやっていなかったかも知れない。

 そのビデオは、レコーディングの光景を如実に映したメイキングで、AKG C-12という名機のマイクロフォンの前でライオネル・リッチーが歌い始めるシーンが印象的。だが、ライオネル・リッチーとマイクロフォンのあいだに、奇妙な“布膜”の存在を“目撃”したのだ。どう見てもそれは、女性が穿く「ストッキング」であった。何故、ライオネル・リッチーとマイクロフォンとのあいだに、女性が穿く「ストッキング」が在るのか。中学生だった私は、思い悩んだ。結局はその「ストッキング」の謎解きこそが、レコーディングという制作現場への興味をいっそう深くし、自らもそれにどっぷりと浸かっていくきっかけになったわけだ。私はこれを、「思春期のストッキング事件」と称している――。

 さて、平成の時代がもうまもなく終わる。そういう時世において、かつては誰もがサビを口ずさむことのできたUSA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」など、“知らない”世代が増えてきているのではないか。そのことを承知の上で、「We Are The World」と私自身の想い出を書き連ねることは、逆にとても有意義なことだと思っている。前稿の「ミックステープってなんじゃらほい?」と多少なりとも繋がりのある話であり、昨年1月に書いた「青空の多重録音」も併せて読んでいただけるならば、この話はもっと聡明になるに違いない。私的なことながら、これは私にとってとても大切な、そしてある意味とても不思議な、歌とマルチ・トラック・レコーディングの話なのだから。

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 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ局が一斉にこの曲をオンエアしたというのだから、中学入学直後のことだ(シングルのリリースは3月28日)。というと、もう33年前の出来事である。

 話は少し戻るけれども、ハリー・ベラフォンテがケン・クレイガンに相談し、これはチャリティー・コンサートをやるよりも、ミュージシャンを募ってシングルを発表した方がいいとケンが提案したのは、直前にボブ・ゲルドフが英国でチャリティーのバンドエイドを結成し、「Do They Know It’s Christmas?」のシングルを発表して、この時のアフリカ飢餓救済の募金キャンペーンがうまくいったのを倣ってのこと。早速、ケン・クレイガンが動き出し、作曲をライオネル・リッチーに委ね、プロデュースをクインシー・ジョーンズに依頼。矢継ぎ早にスティーヴィー・ワンダーとマイケル・ジャクソンも賛同。

 曲作りはライオネル・リッチーとマイケルが担当して進み、後日、ガイド・ヴォーカル(ガイドを吹き込んだのはマイケル)のレコーディングを含めて、ほとんど数日のうちにプリプロダクションのレコーディングは終了したという。こうして出来た曲のデモ・テープは参加者に事前に配られ、85年の1月28日の夜、ロスのシュライン・オードトリアムでAMA(アメリカ・ミュージック・アワード)に出席していた著名なアーティストら45人が、A&Mのレコーディング・スタジオに集結。現場ではクインシー・ジョーンズの指揮の下、なんとここで翌朝の8時まで、のちに伝説となったレコーディングがおこなわれたわけだ。そう、私が後々ビデオで“目撃”することになる、「思春期のストッキング事件」のレコーディングである。

 この頃の私の記憶はきわめて曖昧で、おそらく中学入学式のあった直後、初めて「We Are The World」というタイトルの曲をテレビのニュースか何かで知り、聴いたはず。たぶんUSA for Africaの45人が掛け合うあのキャッチーなコーラスの響きに、私は幾分か“ときめいた”のだろう。がしかし、それだけでは、思春期の尖鋭な感受性における物事への強い関心事と何ら変わらない。だってあの頃は、ハレー彗星襲来のニュースにも興奮して飛びついて、実際に深夜から早朝にかけ、友人らとただひたすら夜空を眺め、小さすぎてよく分からないハレー彗星を見ようと“懸命”になったことがあるのだから。
 つまり、最初、「We Are The World」を聴いた印象というのは、それほどでもなかったのではないかと思う。やはり度肝を抜かれたのは、後々観たあのメイキング映像なのであって、それがきっかけで自らも「We Are The World」の7インチのビニル(レコード盤)を買い、やがてそのメイキング・ビデオ自体をショップで見つけ、購入。繰り返し繰り返し自宅で「We Are The World」のレコーディング映像を眼に焼き付け、「思春期のストッキング事件」を反芻する日々が続いたのであった。

 ちなみに――。こまかい話をすると、私のホームページのコラム「歌うUtaro主義」には、その当時のセッティングを再現したマイクロフォンの写真がある。あのようにそうやって自分も民生機の旧式のマルチ・トラック・レコーダーで歌を吹き込み、レコーディングをおこなっていた。ふとその頃考えついたのは、例のストッキングである。針金を輪っかにし、女性の穿くストッキングを巻き付けて膜にすれば、あれと同じものをこしらえることができる。ただし、多感な中学生だった私は、母親のストッキングを持ち出して、それを工作するまでの勇気は――なかった。中学生の男子としての、《羞恥心》の反作用である。

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【DVDパッケージの裏】
 話を戻す。いま私の手元にあるのは、「We Are The World」の20周年を記念したスペシャル・エディションDVD2枚組(日本盤2010年リイシュー)である。このスペシャル・エディションでは、かつて観たメイキング映像よりも、遥かに長く付け足された(未編集・秘蔵の)レコーディングの有様を観ることができる。まず何より、このチャリティーに参加したアーティストをここで列挙しておく。

 ポール・サイモン、キム・カーンズ、マイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロス、スティーヴィー・ワンダー、クインシー・ジョーンズ、スモーキー・ロビンソン、レイ・チャールズ、シーラ・E、ランディ・ジャクソン、ラトーヤ・ジャクソン、ベット・ミドラー、ティナ・ターナー、ビリー・ジョエル、シンディ・ローパー、ブルース・スプリングスティーン、ウィリー・ネルソン、ジェームス・イングラム、ボブ・ディラン、ルース・ポインター、マーロン・ジャクソン、ティト・ジャクソン、ジャッキー・ジャクソン、ダリル・ホール、ディオンヌ・ワーウィック、アル・ジャロウ、ケニー・ロジャース、ジョン・オーツ、ヒューイ・ルイス、ジョニー・コーラ、アニタ・ポインター、ビル・ギブソン、クリス・ヘイズ、ライオネル・リッチー、スティーヴ・ペリー、ケニー・ロギンス、ジェフリー・オズボーン、リンジィ・バッキンガム、ダン・エイクロイド、ハリー・ベラフォンテ、ボブ・ゲルドフ、ショーン・ホッパー、マリオ・チポリーナ、ウェイロン・ジェニングス。

 このうち、ソロ・パートのレコーディングに駆り出されたアーティストは21人。歌い出し順に紹介すると、ライオネル・リッチー、スティーヴィー・ワンダー、ポール・サイモン、ケニー・ロジャース、ジェームス・イングラム、ティナ・ターナー、ビリー・ジョエル、マイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーウィック、ウィリー・ネルソン、アル・ジャロウ、ブルース・スプリングスティーン、ケニー・ロギンス、スティーヴ・ペリー、ダリル・ホール、ヒューイ・ルイス、シンディ・ローパー、キム・カーンズ、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ。
 当たり前の話、作曲及び編曲に携わったライオネル・リッチーやスティーヴィー・ワンダー、マイケル・ジャクソンらはこの曲の構成を完全に理解しているので、レコーディングを実践する際、気持ち的にずいぶんと余裕がある。しかし、その他のアーティスト達は、事前にデモ・テープを渡され、曲を耳に通している以外では、数時間前にバックグラウンドのコーラスを録っただけに過ぎず、この曲のなんたるかなど分かるはずがない。これから始まるソロ・パートのレコーディングがいったいどんな感じになるのか、3人以外は誰もが皆目見当もつかなかったはずなのだ。

 用意されたAKG C-12マイクロフォンがレコーディング・ルームに定間隔で数本並べられ、ソロ・パートを歌うことになるアーティストらが、その背後に佇立して待機する。歌い出しの際にマイクロフォンの前に近づいてから歌い始めてくれ、という指示。指揮をとるクインシー・ジョーンズ以外では、そういった現場監督的な役割はライオネル・リッチーの仕事。彼がそれを手取り足取りでほかのアーティストらに教示する。
 そのライオネル・リッチーとスティーヴィー・ワンダーの歌い出しの直後、ポール・サイモンとケニー・ロジャースが歌う箇所のフレーズ、“And it’s time to lend a hand to life”→“The greatest gift of all”では、ポール・サイモンはこのAKG C-12が高い位置にあって非常に歌いづらい様子。彼の身長は低いのである。それでなくとも彼のヴォイスは比較的繊細であまり響く声ではない。マイクロフォンに向かってめっぽう近づくのだけれど、いかんせん位置が高すぎる。時折、これ、高いよと愚痴るのだが、クインシーがこの混乱の作業の中、それを了諾するはずもない。

 こうしたヴォーカル・レコーディングでは、どのようなミス・テイクが生じるか、どんなアクシデントが起こりうるのかといった断片の数々が、「We Are The World」のメイキング映像で見ることができる。
 ポール・サイモンとケニー・ロジャースのエピソードのほか、アル・ジャロウのおちゃめなミスの連発、ヒューイ・ルイスとシンディ・ローパーとキム・カーンズによる、サビへとつながる難しい掛け合いの箇所の厄介な一悶着、あるいはボブ・ディランが何度も何度も神妙に歌い直したりとか、ブルース・スプリングスティーンはめっぽうシャイでありながらもパーフェクトな仕事をこなしたりするシーンとか。さらにスティーヴィー・ワンダーとダイアナ・ロスのアドリブ・フェイクのレコーディングの様子などは必見であり、お見事と言うしかないパフォーマンスを見ることができる。
 私は当時、息を呑んでこれらを大雑把にまとめあげた“ディレクターズ・カット”を見たわけであり、本当に何度も何度も繰り返し見て、記憶に刻み込んだものである。そう、レコーディングとは、こういうことなのだと。

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 私が「思春期のストッキング事件」と称したストッキングについて答えを明かしてしまおう。
 あれは、ウインド・スクリーンといって、いわゆる発声の際に生じるスピット(唾吐き)やブレス・ノイズのために膜を張って、マイクロフォンを守る。AKG C-12のようなコンデンサー型のマイクロフォンは基本的に湿度に弱く、唾など大の苦手。また、ブレス・ノイズの混入を一定程度ウインド・スクリーンで遮蔽することができ、そうしたノイズの防音効果がある。現在は、ウインド・スクリーンの様々な良質の製品が市場に出回っており、女性のストッキングで代用することは、ない。

 あの頃、中学校で文化祭があり、英語クラブの生徒らがステージで「We Are The World」を歌ったことがあった。私は体育館の後ろで傍観して、それを聴いたのだけれど、自分もその合唱に加わりたくて非常に悔しい思いをした記憶がある。〈俺にも歌わせてよ!〉。心の中でずっとそう呟いていたのだ。
 それはさておき、あのビデオに登場するアーティスト達の、心の温かさ、誰かのために手助けしたいという一途な志は、音楽で表現できる《一つの愛》と言い換えてもいい。この音楽的手段は、誇れる素晴らしい仕事だと私は思う。
 今も尚、「We Are The World」。これが私の、伝説のレコーディングの想い出である。♪We are the world,we are the children !!

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…

拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
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 幼少だった私が初めて心霊写真というものに出会った写真が、この「鬼のお面」の写真だ。
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 右側の背景の下駄箱の上の窓ガラスに、中岡俊哉先生が指摘する“霊体”が写っている。中岡先生の説明では、この霊体は園児に関係のある女性、なのだそうだが、私の眼には髭を生やした近所のおじさんにしか見えなかった。
 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …

チュリッカ・チュリー!―オザケンのハロウィーン

子供の頃のハロウィーン(Halloween)の想い出なんかない。ハロウィーンは古代ケルトの起源で万聖節の前夜祭――なんていう話も、子供の頃に聞いたことがなかった。ただ一度だけ、カボチャ(あのオレンジのカボチャだったかどうかは不明)をくり抜いてお化けにして、ロウソクを中に入れて火を灯し、しばしそれを眺めたことはある。結局はそれが、やってる本人は何のことだかよく分かっていない“似非ハロウィーン”だったのだけれど、ケルトの起源で万聖節の前夜――なんていうのを知ったのは、大人になってからだ。  子供の遊び事は、いやつまり、自分達子供が遊びで夢中になっている時は、大人は知らぬ存ぜぬを決め込んでそっとしておいて欲しい――と思ったことがたびたびあった。うーんもう、ほっといてよ!ってな感じ。これは何もハロウィーンに関係なくて、遊び全般のこと。大人が立ち入ると、それだけで気分が滅入るし、面白いことがぶち壊しになることが多い。  本当は私は、絵を描くのが大好きな子だった。でもある時、大人が入り込んできて、〈ここの部分には、こういう線が必要でしょ〉と黒のクレヨンで殴り書きをされてしまい、それ以来絵を描くことが、なんとなく苦手になってしまったのだった。ほっといて欲しかったのになあ――。  もしもその頃、ハロウィーンについて詳しく知っていたならば、その万聖節の前夜、〈よしじゃあ、大人に復讐してやろうじゃないか!〉と悪戯を企てたかも知れない。その大人には、〈ここの部分には、こういう線が必要でしょ〉と言って赤のクレヨンで顔に殴り書きをし、でっかい口紅の“お化粧”をしてあげられたかも知れないのだ。〈ねえねえ、私の顔のことなんだから、私の化粧はそっとしておいて欲しいのよね、ちっちゃな悪魔さん〉。真っ赤っかになったでっかい口で、そんな文句を言われたら、さぞかし痛快だっただろう。でも、それでおあいこ。そんなハロウィーンの出来事があったとしたら、私はずっと、楽しく画を描き続けられたに違いない。
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小沢健二と日米恐怖学会がこしらえた絵本『アイスクリームが溶けてしまう前に(家族のハロウィーンのための連作)』(福音館書店)を読んだ。昨年の9月に発売された絵本である(作文は小沢健二、作絵はダイスケ・ホンゴリアン、手づくりはエリザベス・コール、写真構成は白山春久)。内容は、小学生くらいだったら読めるようになっ…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…