スキップしてメイン コンテンツに移動

☞最新の投稿

現在進行形のエイプリルフール

恋とか愛とかの瑣末で、私自身の内と外で実際に起きていることや起こりつつあることを、露骨にあれやこれやと書くのは控えたい。しかし、とりあえずそのことは脇に置いておくことにして、何より、その恋とか愛とかで露出した《粘膜》の炎症を、さしあたって治癒すべく、意識的に聴き返したバート・バカラックの音楽とその映画について書いておきたい。
 私はこの映画を観て、心が大いに和み、平常心を取り戻すことができた。情緒が激しく揺さぶられたのち、やがて心理的には沈静化して、恋とか愛とかの思考を静かに継続することができた。バカラックのおかげである。はて、この男いったい、何を言いたいのかと思うこと勿れ――。ともかくその曲は、バカラックの「The April Fools」であり、ある映画の主題歌でもある。振り返ると私は5年前、こんなことを書いていた。

《春になるとバカラックの音楽が聴きたくなり、キューブリックの映画が観たくなる――。バカラック作曲の主題歌である映画『幸せはパリで』の「The April Fools」。胸が押しつけられるような切ない曲で、20代の頃によく聴いていました。
カトリーヌ・ドヌーヴとジャック・レモン主演『幸せはパリで』(スチュアート・ローゼンバーグ監督)の映画はまだ観たことがない。現在、DVDの販売はないようで、古いVHSでも高値なのでレンタルで借りるぐらいしか手はありません。しかしタイミング良く、NHKさんあたりが放送してくれればいいなと思ってはいますが…》

 ホームページ[Dodidn*]「今月のMessage」のコラムで、2013年の4月にそれを書いたのだった。そうして今年になってこの映画が観たくなり、ネットショップで検索してみたところ、どうやら幸いにも近年DVD化されたようで、簡単にそのDVDを入手することができた。――私は今、この映画を観終わり、余韻に浸っている。エンディングでディオンヌ・ワーウィックが歌う「The April Fools」が、両耳にこびりついている。湿った夜の夏のかがり火となって、私の心はさらによろめいていった――。

§
 ジャック・レモン主演の名画の数々を、私はほとんど観た記憶がない。ジャック・レモンの顔をたちまち思い起こそうとすると、ヘンリー・フォンダの顔が浮かんできてしまう。唯一、ジェームズ・ブリッジス監督の映画『チャイナ・シンドローム…

薩摩治郎八と藤田嗣治の『洋酒天国』

【『洋酒天国』第10号の表紙】
 ご無沙汰いたしておりました。ヨーテンこと『洋酒天国』の話題です…。振り返ると前回は、今年の1月末の「八十頁世界一周の『洋酒天国』」。パリか、ニューヨークか――で閉じていた。あれから半年、せっせとなんとか不足分(未入手号)を何冊か入手して増やすことができたので、これからまた逐一、ヨーテンを紹介していきたいと思う。
 壽屋(現サントリー)PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第10号。昭和32年1月発行。この頃の世相については、第11号(昭和32年2月発行)で書いてしまったので、ここでは省かせていただく。
 10号とまだ既刊数が少なく、毛が生えそろっていない“初心な”頃の編集部は、やはり中心となっていた編集者・開高健のセンスと力量に頼る面が多かったのだろうか。ヨーテンの創刊自体は、柳原良平や坂根進らのアイデアも加味され、骨格がほとんど出来上がっていたようだが、さすがに毎号の具体的な内容については、開高健の趣味嗜好に依るところが大きかったのではないかと推測される。このまだ数をこなしていない頃のヨーテンの内容は、ほとんど西欧文学に重きを置いた、知的水準の高い文化人的嗜好と潮流の《匂い》がムンムンと漂ってくる。言うなればまだこの頃は、西欧風の襟を正した《気品》があった。ここからだんだんと号を重ねるうちに、それが少しずついい意味で脱線していき、緊張感がほぐれ、格好の風俗の度合いが濃厚となっていく。

 ともあれ、第10号の表紙扉の見開きは、ボーヴォワールの詩である。
《パリで飲むマルティニとニューヨークで飲むマルティニとには、黒板に手で描いた円と理想上の円ほどの違いがある》。
 ほらやっぱりね。パリでしょ、ニューヨークでしょ。ニューヨークをけなしてパリを持ち上げても、やはりどちらも捨てがたい文化の街の潮流が感じられる。この感覚は大人の世界のヨーテンには絶対欠かせないのである。

§

【写真家・松島進氏のピンナップ。モデルは安西郷子さん】
 この頃だと『忘却の花びら』なんていう映画に出演していた東宝の女優・安西郷子さん。そのポートレート。写真は松島進氏。澄ました表情がなんとも美しい。歌劇団(彼女は大阪松竹歌劇団)出身の女優さんはみなスタイルが良く、画が映える。

 今号の冒頭の翻訳物は、ポーの「アモンティラアドの樽」。訳者は谷崎精二氏。ある男に恨みを抱えた主人公が、謝肉祭(カーニバル)の日の夜に復讐を遂げる恐ろしい話。ポーの作品の面目躍如。もちろんヨーテン抄録小説なのだから、これは酒に絡んだ話に決まっている。
 文中、何度もアモンティラアド酒!アモンティラアド酒! と出てくる。――アモンティラアド酒とは、スペインの発酵酒シェリー酒の一種でアモンティリャード(Amontillado)のこと。産地はヘレス――。男と主人公の会話で《シェリィ酒とアモンティラアド酒との区別だってわかりはしないよ》という言葉が、面白いことに二度も出てくる。この話、主人公がどんな手段で復讐を成し遂げたかについては、ネタバレになるので割愛した方がいいだろう。小説を読んでのお楽しみ。ちなみにポーの短篇なら、集英社文庫のヘリテージシリーズがお薦め。ともかく男は、アモンティリャードに思いのほか惑溺していたために、主人公の企みにまんまと嵌まってしまう。こうして読み耽っていると、ポーの世界に深入りし、文学としての酔い心地が良く、ヨーテン抄録であることを忘れる。

 それにしても、シェリー酒とアモンティリャード酒との区別云々の言葉が、些か気になって仕方がない。
 シェリー酒に関しては、坂口謹一郎著『世界の酒』(岩波新書)が詳しい。そういえば私、一昨年から昨年にかけての、スペインのカルメンの話題に因んでサンチェス・ロマテの“ドン・ホセ・オロロソ”という18年物のシェリー酒を、昨年のその際に購入したのだった。が、すっかり今まで買ったのを忘れて、飲む機会を失って所蔵したままになっている。そうだ、そうだ――。であるならば、ここぞという機会に、いっそアモンティリャードの15年物か30年物かを買ってみて、ドン・ホセと飲み比べをしたらどうか。果たして本当に、アモンティリャードに対してドン・ホセがひれ伏すのかどうか。カルメンよ、見ていてくれ給え! おまえの厚い唇に、この俺の誉れ高い血潮を、気を失うまで注ぎ込んでやる。
 うーん、これは我ながら名案だ。ということで、このシェリー酒の決闘(?!)に関しては、いずれあらためて存分に書いてみたいと思う。

§

【薩摩治郎八の「おとぼけ回想記」】
 おっと、忘れていた。本当はこちらが今回の本題だった。「おとぼけ回想記」の第7回目である。これを書いているのは、ヨーテン・フリークなら誰しも敬愛して已まない大富豪・薩摩治郎八氏。
 この回の「東西女性酒豪伝」では、パリの街を席巻した女性酒豪のご婦人達がつらつらと列挙されて、治郎八氏の回想の慈しみに弾みをつけている。中でも、ド・ノワイユ伯爵夫人と画家・藤田嗣治の話が出てきてまことに愉快。治郎八氏はその頃の藤田のパトロンであり、パリでの交遊録に事欠かない。藤田は酒が一滴も飲めなかったのだが。
 ところで、林洋子著『藤田嗣治 手紙の森へ』(集英社新書ヴィジュアル版)をぱらぱらめくっていると、モディリアーニの藤田の肖像線画がとても印象的で、1917年にパリでフェルナンド・バレーと結婚云々についても当然記されてあったりする。これが治郎八氏の筆にかかると、“正妻フェルナンド・バレエ姐御”と称されてエピソードがより豊かに、より繊細な映像となっていっそう面白みが膨らむ。

 ああ、この話題はちょっと…。
 ここまで書いておきながら、何を今更という感じなのだが、ここでは詳しく書きたくない。話が長くなってしまうから。薩摩治郎八は明治34年東京生まれで、祖父が近江商人の大資産家であり、18歳で英国に遊学。それからパリの社交界を通じて、豪放磊落の放蕩三昧、遊蕩生活を送った。「東西女性酒豪伝」はその頃のパリを回想しているのである。しかしながら後に治郎八氏が開高健と出会い、この「おとぼけ回想記」を書いている頃には既に、生活の様相は一変し、凋落の途であったらしい。
 薩摩治郎八氏と藤田嗣治について語るのは、たぶん相当面白いと思う。これもいずれあらためて別稿で書くことにする。なんと今年2018年は、藤田の没後50年に当たるようなのだ。彼の経歴を見ると、1949年(昭和24年)には疎開先の神奈川県小淵村からニューヨークへ移住。翌年の2月には再びパリに戻っている。その18年後、チューリッヒで死去。この間にフランス国籍を取得し、カトリックの洗礼を受けている。

 ともかく神妙なくらい、“パリからニューヨークへ”というのが、私の中で仄かに熱いキーワードになってきている。そこにきてスペインのシェリー酒だ。これはたいへんなことになった。いや、サブカルチャーにヒントを与える人生訓の賜物だ。
 ヨーテンを通じて彼ら文化人のエピソードをつまみ取ることができるのは、何よりも幸運なことである。何度でも言おう。『洋酒天国』万歳。これからも私にとってヨーテンは欠かせない相棒であろう。

コメント

このブログの人気の投稿

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
*
 幼少だった私が初めて心霊写真というものに出会った写真が、この「鬼のお面」の写真だ。
 そこは東京・葛飾区の幼稚園。昭和50年に撮られた写真。私とあまり変わらない年頃の子供達が節分の日であろうか、画用紙に鬼の画を描いて切り取って、自慢げに整列した「鬼のお面」の記念写真。
 右側の背景の下駄箱の上の窓ガラスに、中岡俊哉先生が指摘する“霊体”が写っている。中岡先生の説明では、この霊体は園児に関係のある女性、なのだそうだが、私の眼には髭を生やした近所のおじさんにしか見えなかった。
 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…