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9月, 2018の投稿を表示しています

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私はデュシャンの「泉」を観た

先月23日――。JR上野駅の公園口を出ると、空はまったくの濃灰色に染まっていた。まもなくぽつぽつと雨が降り始め、私は足早に公園内を通り抜けた。そそくさとライカのカメラをバッグにしまい込みながら――。  向かうは東京国立博物館(東博)。東博の平成館にて催された、“東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展”なる冠の『マルセル・デュシャンと日本美術』を観覧したのである。  率直に言って今回の目的を述べると、私はその特別展で、“便器”(urinal)が観たかったのである。皓々と光に照らされ恥ずかしげな面持ちの、urinalの姿。それを粛々と見届けたいという思い。デュシャンの、最も有名な“男性用小便器”が暗がりの中で浮かび上がっていた。
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 念願の、urinalを観る目的は達せられた――。  1917年、デュシャンの「泉」(Fontain)。フィラデルフィア美術館所蔵、1950年のレプリカ。磁器製小便器。  そもそもデュシャンの作品を知ったきっかけは、20代の半ばである。彼が「フランス生まれ」であるとか、「20世紀現代美術の巨匠」であるとか、「抽象主義」であるとか、「チェスが得意」であるとか、そういった情報は頭の中にからきし無かったあの頃、偶然にして唯々その一点のみ、つまりそのurinalの写真を、ある本の中で目撃したのだった。  その本とは、宝島社の『図説 20世紀の性表現』(編・著は伴田良輔)である。しかしあくまで私は、その本で、1900年代の性表現クロニクルの位置づけとして、デュシャンの作品すなわちあの真っ白な磁器製のurinal=「泉」の写真を見たに過ぎなかったのだった。何故これが性表現に値するのか理解せず、むしろ通り一遍の解釈を用いようとすれば釈然としない写真でもあった。その時代のクロニクルとしては、モンパルナスのモデルのキキ(Alice Prin)の存在の方が、遙かに重要に思われた。  当時の私の頭の中では、こういうことが駆け巡っていた。何故このurinalが、デュシャンの「泉」という作品なのか。また本来、小便器として実際に設置して使用する場合の向きは、その有名な「泉」の写真を見れば分かるとおり、被写体urinalの正面中央に当たる排水口の部分が底部になければならず、それをわざわざこのような向き(横向き)にして作品とした意図とはいったい何なのか…

kissでこの世が終わる時―キコ/qui-co. the rat 13-11

工業高校の3年生だった1990年の9月26日。  それは学校の帰り――。友達に連れられて、雨の降る中、下北沢のスズナリの、どうにもならないほど狭いスペースにて、ぎゅうぎゅう詰めの観客の群れに肩や腕を揉まれながら座布団に尻を付けて“胡坐”(あぐら)状態で、演劇を観た。善人会議(現・扉座)の公演『まほうつかいのでし』。  それは魔法使いの弟子が、いっぱしの魔法使いになるために、人間を利用し、洪水をおこさせようとする話。でもこの選んだ人間が、アパート暮らしのぐうたら青年で、魔法使いの弟子の活発な行動癖に興味なく引きこもってしまっている。ところがこのぐうたら青年のイマジネーションの産物が、思いもよらぬ事態へと発展する――。
 “胡坐”で演劇を観たのはたぶん、あれ一度きりだった。高校時代に駆け込んだスズナリの、そのアウトオブバウンズな記憶のレイヤーを重ね合わせつつ、先週の9月16日、世田谷区・下北沢駅前劇場にて、キコ/qui-co.(主宰・小栗剛)の演劇公演『the rat 13-11』を観たのだった。  こうして私が下北沢で演劇を観るのにやって来たのは、本当に久しぶりのことであった。井の頭線の下北沢駅は駅舎工事の最中で、その分、周囲の風景はやや雑然として不均衡であった。しかし、行き交う若者達の表情は明るい。きっとこの空気は、この街の永年変わらぬエネルギッシュな射影なのだろう。ヴィレッジ・ヴァンガードでお気に入りのアイテムを見つけた。が、開場時間がまもなくであることに気づき、店を出る。近いうちにまたここに来ることをここで約束される――。
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キコ/qui-co.の『the rat 13-11』を観た。2本立て公演であり、私が観たのは片方の「the rat 11」。  ――あれから1週間。私がすぐにこの舞台の感想を書くことができなかったのは、個人的に1年以上にわたる、ある「愛の錯誤」の問題を片付けようとしていたからだ。第三者をまじえて、この問題は解決の糸口が見出されたかにも見える。しかし、まだ終わったわけではなかった。愛の問題に終わりはないのだ。尊いはずの愛は、人を幸せにもし、傷つき、不幸にもする。まだ私の心は、落ち着きを取り戻してはいない。  それでもなんとか、あの舞台で起きたことに向き合いたい。向き合うことで、何らかの傷痕を縫合したいと願う。今だから、その第一歩を踏み出…

豊かな快楽とアートの深淵―マドンナの『SEX』

前回に引き続き、1992年に出版されたマドンナ(Madonna)のフォトブック『SEX』についての回想及び論考。このフォトブックの外観については、先の伴田良輔氏のエッセイ「スクラッチ感覚」の中のキャプションが的確。 《アルミ製リング綴じのカバーにSEXという文字を型押し。さらにこれが銀色の袋に入っている。CD(シングル)付。Madonna, Steven Maisel/『SEX』/Verlag Warner Books,Inc. New York, 1992 日本では同朋舎より出版》 (伴田良輔著『奇妙な本棚』「スクラッチ感覚」より引用)
 それはあまりにも大きな障壁であった。これが出版された年、私はまだ20歳であった。高校2年(1989年)の時、マドンナの4枚目のアルバム『Like a Prayer』に触発され、挑発され、その3年後に訪れたマドンナのこの新たな扇情的挑発。しかし、これに対しては――尤も世界中の多くの一般人がそうであったと思われるが――乗っかりたくても乗っかれない自己の《性的欲望》に対する「冷ややかな眼差し」=《理性》という障壁が、その購買意欲を著しく抑制してしまったのだった。  果たしてあの時、“度が過ぎた”セールス・プロモーションであったかどうか、私の記憶にはない。が、マドンナが《性的欲望》を掻き立て、創作蜂起しているというよりも、それに群がったあらゆるエスタブリッシュメントが巧みなビジネスとして、《性的欲望》という幻想を我々の悶々とした葛藤の中に紊乱させ消費させようとしている、言わばその手練手管への大衆の抵抗の度合いは、決して小さくはなかったであろう。――20歳になってまもなく、マドンナの『SEX』を買い求め、どっぷりとそれに浸かるのには、些か日常の瑣末としては荒唐無稽な趣があった。連綿とした日常性における無理、impossibleな雰囲気。いかなる理由においても、未成熟な社会人としての私の自尊心は、ズタズタになったというのは少々大袈裟すぎる表現だとしても、到底それを容認し得なかったのである。
 それでいてあの時、そう思ったことが逆に愚鈍の極みであったと――今となっては悔いる。愚かな自分を叱咤する。まったく馬鹿げた論理の、《理性》であったと――。
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 当時1992年の頃は、ネット・ショッピングという便利なものは、まったく無かったと言っていいほ…

伴田良輔の「スクラッチ感覚」

個人的な創作上の都合で、私は、90年代に自身が嗜好共有した《サブ・カルチャー》のたぐいを洗いざらい回想していきたいという目的があって、文学に限らずアートの分野における影響という視点で、一つのアート作品=フォトブックを思い出すに至った。マドンナ(Madonna)の『SEX』である。これはアートのフォトブックであり、本という形態そのものがブック・アートにもなっている。このマドンナの『SEX』が世界的に混乱・騒乱・狂乱のニュースをふりまいたのは1992年10月前後のことで、その時私はまだ20歳であった。
 その前の高校2年(1989年)の春、ステファン・ブレイなどのプロデューサーによるマドンナの4枚目のアルバム『Like a Prayer』が発売され、私はすっかりいかれていた。1曲目の「Like a Prayer」におけるアンドレ・クラウチ(Andrae Crouch)の聖歌隊の掛け合いは素晴らしかったし、プリンスと共作した「Love Song」、それから、尺が2分少々しかないラストのボーナス・トラック的な要素の濃い11曲目「Act of Contrition」は、そのリバース・サウンドの奇抜さとマドンナのとてつもなく激しい衝撃的なシャウトに、脳がぶっ飛んだ。それでいて私がいちばん好きな曲は、「Till Death Do Us Part」。一瞬にしてマドンナが好きになり、一瞬にしてマドンナが恐ろしい存在にも感じられた。  日本盤のCDに封入されていたライナーノーツの隅っこには、小さな枠で記された「AIDS(エイズ)に関する事実」という文章があった。その中で、《AIDSは感染者と膣あるいは肛門による性交渉によってうつる可能性があります》とか、《コンドーム装着という簡単な行為が、正しく性交渉の度に行われていれば、命を救うことになるのです》とか、《AIDSはパーティではありません》などとあって、正直高校生だった私には、あまりにも唐突で消化しきれない、まるでティーンエイジャーが白昼の酒宴にでも巻き込まれてしまったかのような、とてつもなく別世界の出来事のように思われ、愕然としてしまったのを憶えている。確かにこの時、あのフォトブックに至るようなマドンナの強烈なるエモーションの予感は、あった。  ――まったくこうしたことを今頃になって思い出したのは、伴田良輔氏の本を不用意に自宅の…

世界の縁側―幻のNetsound

CubaseもLogicもPerformerもOPCODEのVisionも、当然ながらPro Tools IIIも所有していなかった20代の頃の私。音楽とレコーディングに関連して、当たり前のように貪り読んでいた本が、リットーミュージックの月刊誌『Sound & Recording Magazine』。当時その雑誌で連載されていた、コンピュータ関連のインターフェース&ソフトウェアの記事を、ほとんど読み飛ばすしかなかったのは、至極当然と言えば当然であった。  しかしながら、本を隅から隅まで貪り読みたい欲求に駆られていたにもかかわらず、コンピュータ関連の記事のみを読み飛ばすことは、多少の嫉妬心を覚えた。しかし所有していないものはしていないのだから、仮に読んでも何のことか分からず、得てして無害であった。  そうしたソフトウェアの話の、私にとって難解だった“オフライン”の世界の、その遥か外側には、さらにWWW=World Wide Webという“オンライン”の茫々たる世界があって、それこそ理解不能の極致――意味不明、これって日本語なのか英語なのか――といった心に留めようのない憤懣とした不完全燃焼の読後感を日々やり過ごし、結局のところ、平易で明瞭なる作業――ちまちまと使用済みのカセットテープを両手に抱えてキャビネットに移し整理し、毎度毎度、MTRの磁気ヘッドとキャプスタンとピンチローラーを、アルコールと綿棒で満遍なく掃除する――。この日課、絶対に欠かせなかった。
 話がたいへん込み入ってしまった。ともかく、今なお私が、その頃の90年代の『Sound & Recording Magazine』という雑誌を、何冊か所有しているコレクション・アイテムの中からたびたび読み返す理由は、単純明快。古いシンセや音源モジュールのスペック情報を得るためであり、必要ならば中古品を購入するためであった。
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 中学生の時からずっと愛読し続けて已まない貴誌『Sound & Recording Magazine』は少なくともこの30年、特に90年代におけるPCM音源やらマルチ・プロセッサーの拡充、ハードディスク・レコーダーといった新進気鋭のデジタル・ツールの“黒船来航”という革命的情勢を乗り越え、その何たるかを検閲し、導入奮起し、鼓舞し、未来志向でデジタル派を促進させ、それ…