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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈八〉

前回はmas氏のライカと新宿の話。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」のシリーズは数えると今回で8回目である。これは私自身の、カメラと写真を軸とした“素行”を紐解く重要な鍵としての(「茶」の精神と絡めたりして)、過去に読み耽ったウェブサイトにまつわる“回想録抄記”となっている。  いま私は、自主制作映画というスタンスで、“ちっちゃな映画”(タイトルは『アヒルの狂想曲』)を本気で創り始めているのだけれど、その“ちっちゃな映画”的なものをかつて創ろうとしていたのが、サブカルで私淑するmas氏だったのだ。私は彼の影響を(ウェブとサブカルの側面で)多大に受けている。mas氏は90年代末頃、アメリカの写真家デュアン・マイケルズ(ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals)に感化され、自身のカメラで撮影した散歩写真を掻き集め、一つのフォト・ストーリー作品を創ろうとしていたのだった。タイトルは、「My Last Pictures」であった。
 いま、“ちっちゃな映画”を創り始めた矢先、私はmas氏のウェブサイトをあらためて思い出す。そこにはサブカルへの深い愛着があった。彼は2000年代初め、自身のホームページ上のアーティクルにその映画創りの話を持ち込んで、読み人であった私にある種の熱量を注ぎ込んだのである。カメラとレンズと、そのアクセサリーを満遍なく揃えること。たっぷりと落ち着いた風情で世界を見わたし、その風景に己の足で大きく踏み出すこと。人生の最大の《余興》であり得るのが、映画ではないかということ――。
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 とても残念なことに、「My Last Pictures」のフォト・ストーリーのテクストも、そのウェブサイト自体も、今は現存していない(ただし、テクストは私個人がアーカイヴしてある)。それでも今年、彼の別のサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)がWWWのサーバー上に残っているのを発見して、今のところそれは、誰でも見ることができるようになっている(いずれ消えてしまう可能性がある)。更新は10年以上前を最後に途絶えてしまっているが、mas氏がそこに残した、旅行記や家族を写した写真、花などのフォト・ギャラリーとなっており、2000年代に作成したウェブサイトの一端を垣間見ることができ…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈四〉

【中国茶の青茶に属する「武夷肉桂」】
 前回からの続き。言わずもがな、お茶とサブ・カルチャーにまつわる話。
 中国茶の「武夷肉桂」(ぶいにっけい)を取り寄せたので飲んでいる。このお茶は、福建省の武夷山が産地で、山肌の岩に生育することから岩茶と言われ、青茶すなわち烏龍茶の一種である。文春新書の『中国茶図鑑』にはこのように書かれている。
《葉は長めの楕円で肉厚。茶葉は黒ずんだ緑でツヤがある。果実あるいは乳の香り》
(文春新書『中国茶図鑑』「武夷肉桂」より引用)

 武夷の岩茶は香り高く、「武夷肉桂」は口に含む際に仄かなキンモクセイの香りがすると言われる。このような香りは、日本の煎茶にはない。実際に私も「武夷肉桂」の茶葉に湯を注いでみたのだが、花の香りで一瞬心がよろめき、なんともたまらない幸福感を味わった。高貴な気品が感じられ、味もまたとても青茶らしく奥深い。
 前回紹介した中国茶「平水珠茶」は、その乾いた茶葉のエロティックな装いを礼讃したのだけれど、「武夷肉桂」もその姿がエロスを連想させてくれる。肉桂とはシナモンのことで、その香りに似ているというところから名付けられたようだが、この細く丸まった茶葉の縮れ具合を見ていると、まるでそれが女陰の小陰唇のように思えてならないのだ。
 女性の慎ましやかな陰門の香りを愉しむ――といった淫らな“あるまじき”心の片隅の欲望は、あながち精神性への蔑み、冒涜、離叛の対象にはならないのではないかとさえ思う(むろん女性に対しても)。老子の古典を読んでいても、イスラムのアブー・ヌワースの『飲酒詩選』を読んでいても、これは私自身の雑感としてとらえられた感覚の傍証に過ぎないけれども、微量のエロスの抱合はかえって物事を(その多くは男と女の関係を)豊かにするものである。そうでなければ中国茶の真髄も軽やかさも理解できないに違いない。

 そういったことを踏まえてみても、中国茶は私にとって休息を愉しむための飲み物であり、精神修行の嗜みの一つである。いや、精神修行と言うのはあまりにも仰々しい。言わば、サブ・カルチャーにどっぷりと浸かるための心の準備体操、そのリブートのための精神的沐浴にすぎないのだから。尤も、体内には実際、茶のエッセンスが流れ込むわけだから、身体は純然とその養分で潤う。茶を飲んで心を清廉に、落ち着かせる――。これは酒を飲むのとは違う種類の、生きる歓喜である。歓喜の種は、いくつかあった方が人生をより楽しめる。

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 “日本人として中国茶を楽しむということとは何か?”という副題の、mas氏のウェブサイト「中国茶のオルタナティブ」は、2000年2月から2001年1月までの1年間に更新され、12のエッセイ(アーティクル)がかつてWWWに存在していた。しかし現在、このウェブサイトは消滅しており、以前より私は、そのHTMLファイルアーカイブしておいて、密かにハードディスク内に眠らせていたのである。私のごくわずかな茶に関する教養は、この「中国茶のオルタナティブ」を基礎としていたと言っても過言ではない。
 mas氏は写真やカメラをはじめ、ジャズ・フュージョン、ギター、書物、陶器、中国茶、スイーツ作りなどのサブ・カルチャーに卓越していた。当時、愛娘の成長記録もウェブ日記として投稿していたりして、しばしその家族写真のたぐいも、バルナックやM型(M4?)ライカの結実として私の記憶に印画された。そうして彼の趣味の世界に私はすっかり魅了され、趣味人としてのmas氏を私淑するようになったのである。ここで再び6年前の当ブログ「中国茶とスイーツの主人」の中の凡庸なる言葉を用いるけれども、私は、彼の存在をこのように表したのだった。
《いつしか私は、彼は日本人ではなく、中国人あるいは台湾人なのではないか、と考えるようになった。なんとなく、その節々がそれぞれの文脈の中に感じられた。実際のところは分からない。彼のプロフィールは念入りに多くが伏せられており、横浜近辺が居住地なのではないかとこちらが推測するほかはなく、出身地については謎であった。
 しかしながら彼の日記の中における、その日常全体の空気が、どこか貴族的、上流階級的な情趣があって、むしろそれは好感の持てるたぐいであったが、日本から少し距離を置いたアジア人、古い言い方をすれば渡来人という位置づけを空想してみると、彼の人物像がよりいっそう輪郭を帯びて際立つのである》

【私淑するmas氏のウェブサイト「中国茶のオルタナティブ」より】
《Tea is mind of water. Water is the body of tea.》
「中国茶のオルタナティブ」のその三は、「茶は水の神、水は茶の体」というタイトル。ここでは実に興味深い、mas氏の曾祖父に関する記述が窺える。
《彼は、遠州は浜松の隣町、掛塚の男。遠州男の典型で、仕事よりも趣味に生きるタイプ。まあ、「人生暇つぶし」ってなもんです。そして、彼の最高にして最大級のエネルギーが必要とされる趣味が煎茶でした。何せ彼は道具一式を携帯し、美味しい水を求めて自転車に乗って山に隠り何か月も帰ってこなかったのですから。
 どこまで行っていたのかは家の者は誰も知らなかったようですが、窯元のおやじと仲良くなり山のように陶器を持って帰ってきたこともあるというから、もしかしたら、愛知県、岐阜県あたりまで行っていたのかも知れません。もちろん、ただ単に美味しい水を求めて。。。
 風流と言うにはあまりにも過酷で仙人的、でも、仙人と言うにはあまりにも煩悩に溢れている。これこそ趣味人の鑑だと私は思っています。
 想像するに明治生まれくらいまでって、こういう人は別に珍しい存在ではなかったのではと想像します。昭和中頃までこういう人がいたということは日本人として記憶に留めておきたいと思っています》

 遠州は掛塚――という古き良き時代を想わせる表現が、彼の教養の文語的品性を醸し出していて、私はそこに惹きつけられる。掛塚(かけつか)という町は、遠州灘に注がれる天竜川河口の地域にあって、貴船神社で知られる静岡県磐田市南西部の旧町名である。しかし現在も、あのあたりにはところどころ掛塚の地名が残っている。
 おそらくここで平凡社の『世界大百科事典』でも開けば、もしかすると掛塚に関連した詳しい町史・文化史などの伝承が得られるかも知れないが、敢えてそれは遠慮しておく。ともかくmas氏の曾祖父は掛塚出身であり、その彼は朗々とした趣で煎茶のために清水を追い求め、悠々とあてどない旅をした明治男であった、という点をここでは押さえておくことにする。

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【作法ではなく心の安息を、人に寄り添うひとときを…】
 どうも私は中国茶を嗜むとき、エロティックな装いの茶葉を見つけ出して愉しむ、といった個人的な嗜好を見出してしまって始末がわるい。しかし、茶を飲んでストレスを忘れ、落ち着くという点においては、最も効果的な連想のようでもある。これをもし《風流》と思っていただける方がいるならば、些か気分は萎えずに済むのだけれど、ところでこの《風流》という言葉を聞くと、私はつい九鬼周造の名著『「いき」の構造』を想起してしまう。岩波文庫の『「いき」の構造』の本には、「風流に関する一考察」というのも収録してあって頼もしい。
 九鬼周造と岡倉天心の近親的及びその心情において複雑極まりない関係(不埒な縁故と言っていい)を思い浮かべると、《風流》という哲学の、その見事な到達観への、短い人生における道程の裏返しには、過酷で煩悩に満ちた黒い驟雨の壮麗さが秘められている――としか言いようがない。九鬼周造という人を思うと、心情としてまことに不憫であり愛憐の極みであり、かつ愛情という問題を語る上での芸術や思想を飛び越えた鋭い魂の衝動こそが、彼の哲学を推し進めたのではないかと想像される。

 「いき」を論じるのも《風流》を論じるのも、不憫というある種の美醜の観念を含有してこそのものであることを、九鬼周造の人生がすべてを物語っている。その点において、岡倉天心もmas氏も、そして彼の曾祖父の明治男も、みな《風流》の人であったことだけは、私は熟知したつもりである。

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

高校で学んだ「清光館哀史」

高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。  「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。  そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。
 子供を連れて汽車の旅を続けていた柳田が、子供に《今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ》と訊かれ、別に悪いわけではないけれども、九戸の小山内の清光館は小さくて黒かったね――と答えるこの随筆の最初の文章が印象的で、教科書には、“当時の小山内周辺”という岩手県九戸郡の地図まで付記されており、神妙な親子の汽車の旅の小景が目に浮かぶようである。しかも紀行への敬慕の度合いが日増しに――少なくとも今、28年という重みで――自己の内心に跳ね返りながら増幅してくる不思議な随筆である。「清光館哀史」をあらためて読み返す意義は、確かにあったのだ。この心持ちの正体は、いったい何であろうか。
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 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。
 平成2年(1990年)、そのうちの春であったか夏であったか、あるいは秋であったかは思い出せないが、工業高校の3年生だった私は、国…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
 「藤野先生の『頓挫のある口調』について」。  三宝氏は『藤野先生』(魯迅『朝花夕拾』所収)で、魯迅が綴った先生の“口調”にまつわる表現――頓挫のある口調――の翻訳について鋭く言及している。頓挫のある口調とは、いかなる口調であるのかと。  さて、と思い、私は高校時代の筑摩書房の国語教科書を開いた。残念ながらその教科書には魯迅の『藤野先生』は収録されていなかった。書棚を探して皮肉にもそれを見つけたのは、同じ筑摩の『筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫)である。ここに収録されていた『藤野先生』は竹内好訳で、『世界文学大系』第62巻(筑摩書房)に拠っている。私はこの竹内氏の訳版によって、三宝氏が言及する部分を見つけることができた。
 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。  『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。  読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。  私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じで…

We Are The World―伝説のレコーディング

私がレコーディングというものに真剣に興味を持ったのは、中学生の時だ。その頃、USA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」のビデオを観た。今思えば不思議な巡り合わせである。極端な話、このビデオを観ていなかったならば、音楽などやっていなかったかも知れない。
 そのビデオは、レコーディングの光景を如実に映したメイキングで、AKG C-12という名機のマイクロフォンの前でライオネル・リッチーが歌い始めるシーンが印象的。だが、ライオネル・リッチーとマイクロフォンのあいだに、奇妙な“布膜”の存在を“目撃”したのだ。どう見てもそれは、女性が穿く「ストッキング」であった。何故、ライオネル・リッチーとマイクロフォンとのあいだに、女性が穿く「ストッキング」が在るのか。中学生だった私は、思い悩んだ。結局はその「ストッキング」の謎解きこそが、レコーディングという制作現場への興味をいっそう深くし、自らもそれにどっぷりと浸かっていくきっかけになったわけだ。私はこれを、「思春期のストッキング事件」と称している――。
 さて、平成の時代がもうまもなく終わる。そういう時世において、かつては誰もがサビを口ずさむことのできたUSA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」など、“知らない”世代が増えてきているのではないか。そのことを承知の上で、「We Are The World」と私自身の想い出を書き連ねることは、逆にとても有意義なことだと思っている。前稿の「ミックステープってなんじゃらほい?」と多少なりとも繋がりのある話であり、昨年1月に書いた「青空の多重録音」も併せて読んでいただけるならば、この話はもっと聡明になるに違いない。私的なことながら、これは私にとってとても大切な、そしてある意味とても不思議な、歌とマルチ・トラック・レコーディングの話なのだから。
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 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ…