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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈八〉

前回はmas氏のライカと新宿の話。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」のシリーズは数えると今回で8回目である。これは私自身の、カメラと写真を軸とした“素行”を紐解く重要な鍵としての(「茶」の精神と絡めたりして)、過去に読み耽ったウェブサイトにまつわる“回想録抄記”となっている。  いま私は、自主制作映画というスタンスで、“ちっちゃな映画”(タイトルは『アヒルの狂想曲』)を本気で創り始めているのだけれど、その“ちっちゃな映画”的なものをかつて創ろうとしていたのが、サブカルで私淑するmas氏だったのだ。私は彼の影響を(ウェブとサブカルの側面で)多大に受けている。mas氏は90年代末頃、アメリカの写真家デュアン・マイケルズ(ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals)に感化され、自身のカメラで撮影した散歩写真を掻き集め、一つのフォト・ストーリー作品を創ろうとしていたのだった。タイトルは、「My Last Pictures」であった。
 いま、“ちっちゃな映画”を創り始めた矢先、私はmas氏のウェブサイトをあらためて思い出す。そこにはサブカルへの深い愛着があった。彼は2000年代初め、自身のホームページ上のアーティクルにその映画創りの話を持ち込んで、読み人であった私にある種の熱量を注ぎ込んだのである。カメラとレンズと、そのアクセサリーを満遍なく揃えること。たっぷりと落ち着いた風情で世界を見わたし、その風景に己の足で大きく踏み出すこと。人生の最大の《余興》であり得るのが、映画ではないかということ――。
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 とても残念なことに、「My Last Pictures」のフォト・ストーリーのテクストも、そのウェブサイト自体も、今は現存していない(ただし、テクストは私個人がアーカイヴしてある)。それでも今年、彼の別のサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)がWWWのサーバー上に残っているのを発見して、今のところそれは、誰でも見ることができるようになっている(いずれ消えてしまう可能性がある)。更新は10年以上前を最後に途絶えてしまっているが、mas氏がそこに残した、旅行記や家族を写した写真、花などのフォト・ギャラリーとなっており、2000年代に作成したウェブサイトの一端を垣間見ることができ…

私はデュシャンの「泉」を観た

【東博の平成館に向かう通路にて】
 先月23日――。JR上野駅の公園口を出ると、空はまったくの濃灰色に染まっていた。まもなくぽつぽつと雨が降り始め、私は足早に公園内を通り抜けた。そそくさとライカのカメラをバッグにしまい込みながら――。
 向かうは東京国立博物館(東博)。東博の平成館にて催された、“東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展”なる冠の『マルセル・デュシャンと日本美術』を観覧したのである。
 率直に言って今回の目的を述べると、私はその特別展で、“便器”(urinal)が観たかったのである。皓々と光に照らされ恥ずかしげな面持ちの、urinalの姿。それを粛々と見届けたいという思い。デュシャンの、最も有名な“男性用小便器”が暗がりの中で浮かび上がっていた。

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【ガラスに囲まれたデュシャンの「泉」】
 念願の、urinalを観る目的は達せられた――。
 1917年、デュシャンの「泉」(Fontain)。フィラデルフィア美術館所蔵、1950年のレプリカ。磁器製小便器。
 そもそもデュシャンの作品を知ったきっかけは、20代の半ばである。彼が「フランス生まれ」であるとか、「20世紀現代美術の巨匠」であるとか、「抽象主義」であるとか、「チェスが得意」であるとか、そういった情報は頭の中にからきし無かったあの頃、偶然にして唯々その一点のみ、つまりそのurinalの写真を、ある本の中で目撃したのだった。
 その本とは、宝島社の『図説 20世紀の性表現』(編・著は伴田良輔)である。しかしあくまで私は、その本で、1900年代の性表現クロニクルの位置づけとして、デュシャンの作品すなわちあの真っ白な磁器製のurinal=「泉」の写真を見たに過ぎなかったのだった。何故これが性表現に値するのか理解せず、むしろ通り一遍の解釈を用いようとすれば釈然としない写真でもあった。その時代のクロニクルとしては、モンパルナスのモデルのキキ(Alice Prin)の存在の方が、遙かに重要に思われた。
【むしろ“おまる”と称したくなる「泉」】
 当時の私の頭の中では、こういうことが駆け巡っていた。何故このurinalが、デュシャンの「泉」という作品なのか。また本来、小便器として実際に設置して使用する場合の向きは、その有名な「泉」の写真を見れば分かるとおり、被写体urinalの正面中央に当たる排水口の部分が底部になければならず、それをわざわざこのような向き(横向き)にして作品とした意図とはいったい何なのか。
 この2つの疑問と同時に、写真としての記憶は濃厚に刻み込まれ、デュシャン=男性用小便器という象徴のみが一人歩きし、なおかつそれ以上の情報を入手するわけでもなく、すべてが謎に満ちたまま随分と長い間、こうした煩悶的疑問を抱き続けたわけである。

 現代美術の争点としてみれば承知の事実であるが、結局それがデュシャンの、ダダイズムによる仕業だということを理解するに至ったのは、マン・レイの写真芸術を鑑賞するようになってからのことである。彼もまた芸術上、多くのレディ・メイド(既製品)を扱っている。ちなみにマン・レイは1922年頃からキキと同棲をし始め、1924年にはキキの背中をモチーフにした写真芸術作品「アングルのヴァイオリン」(Violon d’Ingres)を手掛けている。

 デュシャン(Marcel Duchamp 1887-1968)について『広辞苑』ではどのように表記されているか。
《フランスの美術家。アメリカに渡り、ダダやシュルレアリスムの運動にも関わり、近代美術の視覚優先のあり方を批判した絵画・オブジェで現代美術に大きな影響を与えた》
(岩波書店『広辞苑』第七版より引用)
 また『ランダムハウス 英和大辞典』でレディ・メイド(Ready made)を引くと、デュシャンの名が出てくる。
《現代美術のオブジェ;日常的な既製品にその本来の用途から離れた別の意味を持たせ、彫刻作品として発表したもの;1915-17年Marcel Duchampが発表した作品が有名》
(小学館『ランダムハウス 英和大辞典』第2版より引用)

 レディ・メイドとは、出来合いの既製品という意味があり、「泉」もレディ・メイド作品である。こういうことである。
 ヨーロッパ列強では第一次世界大戦の只中。すなわちシベリア出兵の前年、中華民国では広東軍政府が成立する前となるが、1917年のまさにロシア革命の最中、その春、芸術家リチャード・マットなる男は、ニューヨークのグランド・セントラル・パレスで催された“アンデパンダン展”に「泉」(Fountain)と題された磁器製の男性用小便器を出品した。
 アメリカの“アンデパンダン展”は、もともと1884年以来フランスで開催されてきたフランスの独立美術家協会(La Société des Artistes Indépendants)による無審査、無賞の展覧会の基本原則を借り受けた、言わばアメリカ版独立芸術家協会による展覧会である。この時4月10日の展覧会では、1,000人以上のアマチュア芸術家による作品2,500点あまりが出品されたという。真っ白な輝かしいurinalのFountainもそのうちの一つであるはずであった。
 リチャード・マット氏は、マンハッタンのショールームでJ・L・モット鉄工所が製造したレディ・メイド=urinalを買い付け、展覧会に送った。このオブジェは確かに開催日の直前に会場に運搬されていたという。ところが――。
 ところがどうも、展覧会の役員らによる評議によって、この作品を展示しない旨が決まったのだった。展示委員会の責任者であるデュシャンは協会に抗議し、役職を辞任した。この時の協会が発表した声明文がある。
《「泉」は、(一部省略)あるべき場所に設置されれば実に有用なものであるが、その場所は芸術の展覧会ではなく、そしてどう見ても、芸術作品ではない》
(フィラデルフィア美術館監修『デュシャン 人と作品』日本語版より引用)

 果たしてurinalは、芸術か否か? で大論争となった。これが「泉」にまつわる顛末である。写真家のアルフレッド・スティーグリッツはこの「泉」を自分の画廊に持ち込んで撮影。その写真はデュシャンやアンリ=ピエール・ロシェ、ベアトリス・ウッドが編集する小冊子『ザ・ブラインド・マン』の第2号に掲載され、“アンデパンダン展”における「リチャード・マット事件」を取り上げて、芸術家が侵害された権利への非難と「泉」の芸術性を説く寄稿文が掲載された。

 ここで触れておかなければならないのは、「泉」を出品した芸術家リチャード・マット氏なる人物とは、いかなる人物なのかということである。言うまでもなくリチャード・マットなる人物は、この世に存在しない架空の人物である。これはデュシャンが巧妙に企てた偽名であった。“アンデパンダン展”に「泉」を、つまり無審査・無賞の芸術展覧会にurinalを送り込んだら、いったいどのような結果になるだろうかという、デュシャンのダダイズム的計略の沙汰であった。まさにこれが既存の近代美術に刺客として送り込まれた問題提起であって、見事にその各論の提起は成功した。全体としてみれば、レディ・メイドを担ぎ出した革新的珍事件なのである。

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 私はその珍事件の“戦犯”なるオブジェ=urinalを、そのレプリカの実物を、2018年10月の東京の東博にて、目撃したのだった。もはや数奇な運命に満ちたurinalとのご対面であった、と言えよう。
 これ自体、今日に至るまで想像だにしなかった個人的出来事であるし、こちらがわざわざアメリカのミュージアムにおもむいて観たのではなく、向こう様がやって来て日本でそれを間近で鑑賞することができたのだから、すこぶる幸運な芸術鑑賞の極みと言っていい。一言で言えば、奇跡という粋なはからいの仕業なのである。

 「泉」のフォルムが、それ本来の工業製品としての有用性云々を飛び越えて、あまりにも審美的であることについて、以前より私は感動を覚えていた。その物が固有に保持する必然的な機構と法則は、ある種美しい秩序の流れのような存在となり、構造そのものが審美的に整った形となること。すなわちフォルムの審美的芸術性とは、機構と法則の美を意味しているということ。国鉄時代の0系新幹線のフォルムがまさにそれである。
 その観点での美を追求していくとなると、デュシャンの「泉」は、私がこれまで目にした公衆用トイレの、どのurinalよりも美しいのではないか、と思ったことは事実である。小学校のトイレしかり、駅のトイレしかり、東京におもむいた数ある劇場や映画館のトイレしかり――。かつて古びたドライブインなどで見かけた、驚くべき壁式小便器(実際には小便器はなく、ただ壁に向かって用を足す形態の小便用トイレ)を体験したことのある古めかしい私としては、デュシャンの「泉」はあまりにもフォルムが美しすぎるのである。それは実用としてそこに立つ者を誘惑する、“魔の力”さえあるように思われる。女性にはこのあたりの理屈が体感として味わえないことが残念である。

 デュシャンの「泉」というレディ・メイドについて、台座彫刻の制作で知られるアーティスト竹岡雄二氏は、美術系月刊誌のインタビューで次のような興味深い話をしている。
《マルセル・デュシャンの「レディ・メイド」という概念が僕にとっては大きい。僕が興味を持ったのは、デュシャンが便器を台座に置いたということでした。レディ・メイドのオブジェクト、特に便器というまるで芸術作品にならないものを作品にするには、台座の上に置く必要があったんです。人は「レディ・メイド」ということにばかり注目しますが、僕はデュシャンが便器を台座に置いたこと、そのものをこそ見るべきだと思うんですよ。デュシャンの「レディ・メイド」以来、現代の美術は大きく変貌したと思っています》
(美術出版社『美術手帖』2016年4月号より引用)

 話が長くなりそうだ。デュシャンの人と作品については、今後もことさら取り上げていきたい。デュシャンのダダイズム、そして東洋のタオイズム(老荘思想)との接点について触れることができれば、と考える。

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

高校で学んだ「清光館哀史」

高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。  「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。  そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。
 子供を連れて汽車の旅を続けていた柳田が、子供に《今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ》と訊かれ、別に悪いわけではないけれども、九戸の小山内の清光館は小さくて黒かったね――と答えるこの随筆の最初の文章が印象的で、教科書には、“当時の小山内周辺”という岩手県九戸郡の地図まで付記されており、神妙な親子の汽車の旅の小景が目に浮かぶようである。しかも紀行への敬慕の度合いが日増しに――少なくとも今、28年という重みで――自己の内心に跳ね返りながら増幅してくる不思議な随筆である。「清光館哀史」をあらためて読み返す意義は、確かにあったのだ。この心持ちの正体は、いったい何であろうか。
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 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。
 平成2年(1990年)、そのうちの春であったか夏であったか、あるいは秋であったかは思い出せないが、工業高校の3年生だった私は、国…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
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 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。  『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。  読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。  私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じで…

We Are The World―伝説のレコーディング

私がレコーディングというものに真剣に興味を持ったのは、中学生の時だ。その頃、USA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」のビデオを観た。今思えば不思議な巡り合わせである。極端な話、このビデオを観ていなかったならば、音楽などやっていなかったかも知れない。
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 さて、平成の時代がもうまもなく終わる。そういう時世において、かつては誰もがサビを口ずさむことのできたUSA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」など、“知らない”世代が増えてきているのではないか。そのことを承知の上で、「We Are The World」と私自身の想い出を書き連ねることは、逆にとても有意義なことだと思っている。前稿の「ミックステープってなんじゃらほい?」と多少なりとも繋がりのある話であり、昨年1月に書いた「青空の多重録音」も併せて読んでいただけるならば、この話はもっと聡明になるに違いない。私的なことながら、これは私にとってとても大切な、そしてある意味とても不思議な、歌とマルチ・トラック・レコーディングの話なのだから。
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 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ…