スキップしてメイン コンテンツに移動

☞最新の投稿

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈八〉

前回はmas氏のライカと新宿の話。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」のシリーズは数えると今回で8回目である。これは私自身の、カメラと写真を軸とした“素行”を紐解く重要な鍵としての(「茶」の精神と絡めたりして)、過去に読み耽ったウェブサイトにまつわる“回想録抄記”となっている。  いま私は、自主制作映画というスタンスで、“ちっちゃな映画”(タイトルは『アヒルの狂想曲』)を本気で創り始めているのだけれど、その“ちっちゃな映画”的なものをかつて創ろうとしていたのが、サブカルで私淑するmas氏だったのだ。私は彼の影響を(ウェブとサブカルの側面で)多大に受けている。mas氏は90年代末頃、アメリカの写真家デュアン・マイケルズ(ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals)に感化され、自身のカメラで撮影した散歩写真を掻き集め、一つのフォト・ストーリー作品を創ろうとしていたのだった。タイトルは、「My Last Pictures」であった。
 いま、“ちっちゃな映画”を創り始めた矢先、私はmas氏のウェブサイトをあらためて思い出す。そこにはサブカルへの深い愛着があった。彼は2000年代初め、自身のホームページ上のアーティクルにその映画創りの話を持ち込んで、読み人であった私にある種の熱量を注ぎ込んだのである。カメラとレンズと、そのアクセサリーを満遍なく揃えること。たっぷりと落ち着いた風情で世界を見わたし、その風景に己の足で大きく踏み出すこと。人生の最大の《余興》であり得るのが、映画ではないかということ――。
§
 とても残念なことに、「My Last Pictures」のフォト・ストーリーのテクストも、そのウェブサイト自体も、今は現存していない(ただし、テクストは私個人がアーカイヴしてある)。それでも今年、彼の別のサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)がWWWのサーバー上に残っているのを発見して、今のところそれは、誰でも見ることができるようになっている(いずれ消えてしまう可能性がある)。更新は10年以上前を最後に途絶えてしまっているが、mas氏がそこに残した、旅行記や家族を写した写真、花などのフォト・ギャラリーとなっており、2000年代に作成したウェブサイトの一端を垣間見ることができ…

赤いパンツの話〈二〉

【ザミラ社の赤いパンツを穿いてアートワークのスチル撮影】
 前回の赤いパンツの話の続き。今回は少々深い話で、長い。
 たかがパンツ、されどパンツなのである。パンツを侮ること勿れ。パンツ(=アンダーウェア)というものは、穿いている本人と日常生活を共にする《所縁ある所有物》であるから、その穿いているパンツの柄やデザイン、形状によって、その人の「品格の指向性」を占うことができるのではないかと私は思っている。
 その一方で、特に男子にありがちだけれど、パンツに対していくばくかの妙なこだわりがありつつも、自己の所有物とするにしてはあまりに節操がない無頓着な選択――柄なんかなんだっていいのさ…。2枚組で500円なんて手頃な値段じゃないか…。よしこれを買っておこう――に陥る場合が多い。
 この手の所有物は、そもそも“他人に見せるべきものではない”から、どんな柄のパンツを穿いていたって構わないだろう、という考えに落着してしまうのが常である。壮年期を過ぎるとまさにその土壺にはまる。言うなれば、ショップ側の消費者に対する「過度な情愛」に消費者が甘えるかたちでの、ありふれた構図なのである。

§

 余所の他人が自分のパンツを見たりする機会は滅多にない。少なくともしげしげと見られることはないだろう。たぶん。奥さんや恋人、自分の息子娘にパンツ姿を見られることはあっても、自分とそのパンツの「隠密な関係」を暴露されることはない。その視線は秘匿の可視である。旦那のパンツは私が買い与えたのだから、という場合は別にして。
 ともかく自分は、自分のパンツをよく見る。当たり前のことのようだが、自分のパンツは自分で確実に目視する。それは自分でそのパンツを穿いているのだから。
 自分で選んで買ってそのパンツを穿いている以外に、奥さんや二号さんに買い与えられたパンツを穿いている場合においても、ほとんどの場合、そのパンツに盗聴器や隠しカメラが巧妙に仕込まれていることはおそらくない――。自分とそのパンツとの関係は、実に隠密なものであって、《所縁ある所有物》への親近感はいささか奥さんとの関係と比較しても、なかなかどうして、穿いていたそれなりの期間のうちに充実した性愛の企みをしつこく帯びているはずである。実はこのことが、とても重要なことであると、私は気づいたのだった。

【ザミラ社の赤いパンツが届いた写真】
 パンツにおける「品格の指向性」とは、パーソナリティのことである。厳密に言うと、その人の個性というより、その人の“その日”の個性、という意味が正しい。それを他人がどうこう占ったり決め込むことではなくて、自分がその日一日を過ごす上で、「自分自身とどう向き合うか」というモチベーションなりポテンシャルなりエクスペクテーションが重要なのであり、その最初の(その日の朝の)対峙が、パンツなのである。パンツは、奥さんや二号さんよりもあなたのことを、よく知っている――。
 したがって、穿いているパンツと向き合うことは、自分自身と向き合うことと同義である。これが結局、ザミラ社の赤いパンツの、ユーザーポリシー《いかなる戦いにも勝つ》とか《人の挑戦を笑わない》とか)とつながる話なのだと、私は思っている。

§

 某日、待ちに待った赤いパンツが届き、アートワークのスチル撮影のためにそれを穿いた。いい履き心地である。心と肉体が共鳴し、ゆるりと溶け込んでいく感覚の履き心地――。おや? そういえば、あれは? そうそう、気がつかなかった。あれはいったいどこに?
 そうそう、あれである。あのことである。新聞記事で書かれていた、あの「memento mori」の文字は、パンツのどこに刻印してあるのだろうか。
 撮影が無事に済んだ後、腰回りをちょろりとめくってみた。けれど、どこにもない。めくる部分が次第におおっぴらになって、あれがどこにもなかったから、とうとうおしまいにはパンツ全部をずりおろさなければならなかった。うん…? あ!

 この、あ! という衝撃は宇宙の神秘を思わせた。そこに「memento mori」。そこにメメントモリ。ソコニめめんともり。いやいや、その時は確か、「memento vivere」(訳すと“生を想う”)と読めた。文字を反転させても読めてしまう不思議な字体である。刻印してあったのは、意外な箇所であった。こんなところに。こんなところに。コンナトコロニ。何度も声を出して言いたくなる、こんなところに。パンツをずりおろして、尚それが見つけにくい箇所――。いったいどこに刻印されているかは、この赤いパンツを実際に穿いて楽しんでもらいたいものである。自分自身とその可愛らしい“倅”をチラ見しながらメメントモリを見つめる行為は、とても大事なことかも知れない。

 この赤いパンツをモチーフにして、曲を作るということに関しては、自分自身の曲作りのモチベーションが近年、音楽の構造の殻を「解体する」、余分な構成を「脱ぎ捨てていく」という心持ちによって成就していたのに対し、ごく最近はその心境からついに変容した。私はようやく音楽の諸処のパーツを「着飾っていく」、「着込んでいく」楽しさに気づいた次第なのだ。
 例えばアメリカはニューヨークの、“厳しい冬”という環境下において、ヒップホップの文化や潮流が、「フリーズドライしながら着飾っていく」=ミックステープを競い合うことでスケールアップしていったことと共通する事項である。だからパンツを脱ぐのではなくて穿くのだ、着込んでいくのだという観念の重要さに関しては、その冬の寒さで眠気が吹っ飛ぶほど、音楽的には深い話なのである。

【ハミパンはダメよ、などのユーザーポリシー】
 ザミラ社ユーザーポリシーにあるように、《YOU DO NOT SHOW “HAMI-PAN”》、つまり紳士的ではないからうちのパンツでハミパンはダメよ――という信念を私なりに解釈するとなると、こういうことになる。
 現地(街)のラッパーが下着をハミパンにしてちょい見せするストリート・ファッションは、着飾る文化の(ごくごく稀な状態としての)ちょっとした疲れや無感覚性、あるいはシャイな遠慮の裏返し、ととらえていい。着こなしのだらしなさを可愛いと言ってもらえるのならまだいいが、それをわざとやるようになると、話は違ってくる。ストリート・ミュージックであるヒップホップを、フリーズドライしないで高層ビルの上階に持っていくと、それはたちまちジャンクフードではなくなって高級なワインが付いてきてしまう。こうした傾向には、注意が必要だ。紳士的であれ、というのはパンツを脱ぐなよ、ということであり、お偉いさんの前で脱ぎ始めるのは、己の純粋な音楽性の崩壊を意味する。

§

 さて、ここからはまったくの余談として、ブリーフとパンツの歴史について触れる。
 正直申し上げて私はこれまで、カルバン・クラインやユニクロ、B.V.D.などの下着を好んで愛用してきた。アバクロにも一時期、デザイン的な好みで興味があったが、最近は遠のいて買っていない。やはり身近なショップで買えるカルバン・クラインやユニクロの方が親近感があり、不都合がない。
 ところでB.V.D.という商標名は何の略か――。知らなかったので調べてみると、Bradley(ブラッドレー)、Voorhees(ブーヒーズ)、Day(デイ)の3人の創業者の名の頭文字だそうで、1876年にニューヨークで設立したブランドである。B.V.D.の商品は、国内ではフジボウアパレルが販売している。なんとなく新しめのアイコンの感覚があったが、れっきとした老舗のブランドなのだ。
 かつて90年代、プロレス団体である新日本プロレスがこのブランドとコラボレートし、そのカラフルな広告がリング上のマット一面にプリンティングされたことがあった。会場の観客もテレビ中継の視聴者も、試合を観るにつけ、そのB.V.D.のロゴを始終見続けたことになり、その広告の視覚的効果というか影響は計り知れない。むろん、テレビ中継の合間のコマーシャルもB.V.D.であった。それにすっかり影響され、その頃私が着用していた下着類は、ほとんどB.V.D.だったのである。

 今はカルバン・クラインとユニクロのパンツを穿くことが多い。カルバン・クラインのボクサーパンツはシックな黒を着用し、ユニクロのブリーフはカジュアルな柄物を好んで穿く。前者はビジネス用、後者はプライベート用、といった感じで個人的に使い分けている。
 ザミラの赤いパンツの話から少し遠ざかる。近代のブリーフとパンツの歴史を調べてみた。こんな機会がなければ、なかなかパンツの歴史を知ろうとは思わなかった。だがこれがなかなか面白い。

 現在、男性用のパンツとしては、トランクスよりもブリーフの方が好まれているかと思われる。ブリーフのあの形状というのは、1935年、シカゴの下着メーカーのクーパーズ社が最初という説がある。もともと乗馬やスポーツなどで使用していたサポーター(ジョックストラップ)が前身のようで、激しい運動によりふらふら動いてしまう性器を固定するための形状から派生し、一般的なアンダーパンツとしてのブリーフが誕生した。ブリーフのあの画期的な特徴である前開きの機能は、翌年に発表されたマンシングウェア社のアイデア、だという。
 このブリーフの誕生には、別の説もあって少々困惑する。アメリカのユニオンスーツ(つなぎ型の下着)のメーカーであるヘインズ社が1932年、ニット素材の紳士用ブリーフを製作した、というヘインズ社の公式サイトの見解もある。
 1932年のヘインズ社か、35年のクーパーズ社なのか。これを突き詰めてどちらのメーカーが先にブリーフを開発したかを探ることは、私の関心事から外れるのでやめておく。ともあれ、それよりも前に遡って19世紀の頃までは、欧米では一般にパンツというものを穿いていなかった。これは事実である。着ていたのは男女共、上下のつなぎ型のユニオンスーツであった。

 ブリーフの誕生よりも少し遡る。1910年、それまで一般普及していたユニオンスーツを、上下に切り分けたメーカーがあった。カルマーズ社という紡績メーカーである。上下を切り分けたことにより、ユニオンスーツの下の部分は、後々のトランクスの原型となったのだ。日本ではこれを、“西洋褌”と称した。腰から股を布で覆う「猿股」(さるまた)である。
 1910年を年号に言い換えると明治43年であり、その年以降、国内に“西洋褌”の「猿股」が流入されて広まった、ように思われる。が、漱石の『吾輩は猫である』の文中(第七章)に「猿股」という名詞が出てくる。この小説が発表されたのは、明治38年(西暦で言い換えると1905年)の雑誌『ホトトギス』であり、厳密に言うと、第七章が発表されたのは明治39年1月1日の同雑誌第九巻の第四号であるから、カルマーズ社の上下に切り分けた形状の“西洋褌”の流入の時期とは5年の開きがあって、漱石の「猿股」の方が古いことになる。これはいったいどういうことなのだろうか。
 第七章では人間の裸と衣服について論じた長い論述となっており、《単簡なる猿股を発明するのに十年》と車夫の先祖を皮肉っている。あの当時、車夫が穿いていたのは黒の股引で、この股を通して穿く布製の下穿きは、「猿股」と同じである。ただしこの場合の股引は、下着ではない。車夫は股引の下に褌を巻いていたはずである。漱石が書いた「猿股」は、旧来の職人の作業着を指していたかと思われ、流入してきた“西洋褌”=褌に替わる下着=トランクスのことではなかったのではないか。日本人がそれまで穿いていた旧来の股引のことを「猿股」とも言い、“西洋褌”のトランクスも「猿股」と十把一絡げに称していた、と考えた方が無難なようである。あくまで私論に過ぎないが。もしそうだとすると、この「猿股」の件はかくも凡庸に落着してしまう。
 日本人が穿いていた下着というのは、江戸時代以降より太平洋戦争の至る近代に限定するとなると、男女共、「褌」(ふんどし)もしくは「猿股」が一般的、ということになる。尤も、下着無し、ノーパンという選択肢もあった。
 翻って欧米の近代におけるパンツの歴史を紐解いてみると、先述したとおり、つなぎの下着からトランクスが誕生し、のちにブリーフ型が生まれた。ちなみに日本でブリーフ型の下着が爆発的に流行したのは、戦後の昭和30年代以降ということになる。物に溢れかえっていたアメリカの文化に憧れて、貧しい日本人が西洋パンツ――若々しい輝きに満ちた白ブリーフの美しさ――に飛びついた心境は、痛いほどよく分かる。

 西洋においても東洋においても、古代から中世、あるいは近世から近代にかけて下着と呼べるものは、男女共に「腰巻き」のたぐいであった。それは腰に布を巻き付けていたか垂らしていたかの違いにしか過ぎず、東洋あるいは日本においては、布が薄く、前後ろで縛りやすい紐状になっている「褌」の型の下着が広く普及していたのは、軽くて動きやすいという利便上、当然の帰結かと思われる。それが身分の違いや士農工商の生活文化によって、「褌」の汎用性にどのような濃淡があったかについて、もはや専門的な話になりすぎるかと思うので割愛する。その点、「猿股」は気軽なアイテムである。
 下着にもそれ相応の意味が込められている。「褌」は、成人になった者だけが穿く下着、という習わしもあり、元服の意味が込められていた。このあたり、ころもへんに軍と書く字で察しがつくと思われるが、男子の勇ましい姿の象徴でもあった。ちなみに元服前の子どもは、寝冷え予防の効果もあった「腹掛け」を着用し、この慣習は明治以降も続いた。大人になって「褌」を腰に巻く、という一般的な通念は軍隊でも採用され、徴兵によって兵隊になると、「褌」着用が義務づけられていたのである。古来「褌」の面目躍如であった。

§

 ブリーフの話が褌に変わってしまった。これ以上続けると、さらに話が長くなってしまうのでやめる。
 何故ブリーフの歴史に触れたかということにつながるのだが、「健脚ブリーフ」をやった時のモチーフとなったブリーフが、実はフランス画家フレデリック・バジール(Frédéric Bazille)の油彩画「夏の情景」(Scène d'été)がヒントとなったことをホームページ[Dodidn*]のコラム「浮遊―透明なパンツ、透明な歌声」で述べた。

 あの絵が描かれたのは、1869年なのである。フレデリック・バジールが描いた“青年達の穿いている物”が下着だとすると、ブリーフ誕生の歴史としては困ったことになる。あれは完全なボクサーブリーフだからである。アメリカのブリーフ誕生の以前に、既にフランスではブリーフが存在したことになるからだ。
 あれは海水浴の水着――と再解釈しなければ道理が立たないのだけれど、水着としてみてもデザインが素晴らしく現代的で、腰巻きというたぐいではなく、フレデリック・バジールを服飾デザイナーとして見立てると相当なセンスだったのではないか。まさに現代の、おしゃれなアバクロのアンダーウェアにしか私には見えない。
 ちなみにアバクロ(アバクロンビー&フィッチ)は1892年創業で、ヘミングウェイがよく好んでショップに訪れたブランドだそうである。謎だらけのまま、終わりたい。

コメント

過去30日間の人気の投稿

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

高校で学んだ「清光館哀史」

高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。  「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。  そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。
 子供を連れて汽車の旅を続けていた柳田が、子供に《今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ》と訊かれ、別に悪いわけではないけれども、九戸の小山内の清光館は小さくて黒かったね――と答えるこの随筆の最初の文章が印象的で、教科書には、“当時の小山内周辺”という岩手県九戸郡の地図まで付記されており、神妙な親子の汽車の旅の小景が目に浮かぶようである。しかも紀行への敬慕の度合いが日増しに――少なくとも今、28年という重みで――自己の内心に跳ね返りながら増幅してくる不思議な随筆である。「清光館哀史」をあらためて読み返す意義は、確かにあったのだ。この心持ちの正体は、いったい何であろうか。
§
 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。
 平成2年(1990年)、そのうちの春であったか夏であったか、あるいは秋であったかは思い出せないが、工業高校の3年生だった私は、国…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
 「藤野先生の『頓挫のある口調』について」。  三宝氏は『藤野先生』(魯迅『朝花夕拾』所収)で、魯迅が綴った先生の“口調”にまつわる表現――頓挫のある口調――の翻訳について鋭く言及している。頓挫のある口調とは、いかなる口調であるのかと。  さて、と思い、私は高校時代の筑摩書房の国語教科書を開いた。残念ながらその教科書には魯迅の『藤野先生』は収録されていなかった。書棚を探して皮肉にもそれを見つけたのは、同じ筑摩の『筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫)である。ここに収録されていた『藤野先生』は竹内好訳で、『世界文学大系』第62巻(筑摩書房)に拠っている。私はこの竹内氏の訳版によって、三宝氏が言及する部分を見つけることができた。
 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。  『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。  読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。  私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じで…

We Are The World―伝説のレコーディング

私がレコーディングというものに真剣に興味を持ったのは、中学生の時だ。その頃、USA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」のビデオを観た。今思えば不思議な巡り合わせである。極端な話、このビデオを観ていなかったならば、音楽などやっていなかったかも知れない。
 そのビデオは、レコーディングの光景を如実に映したメイキングで、AKG C-12という名機のマイクロフォンの前でライオネル・リッチーが歌い始めるシーンが印象的。だが、ライオネル・リッチーとマイクロフォンのあいだに、奇妙な“布膜”の存在を“目撃”したのだ。どう見てもそれは、女性が穿く「ストッキング」であった。何故、ライオネル・リッチーとマイクロフォンとのあいだに、女性が穿く「ストッキング」が在るのか。中学生だった私は、思い悩んだ。結局はその「ストッキング」の謎解きこそが、レコーディングという制作現場への興味をいっそう深くし、自らもそれにどっぷりと浸かっていくきっかけになったわけだ。私はこれを、「思春期のストッキング事件」と称している――。
 さて、平成の時代がもうまもなく終わる。そういう時世において、かつては誰もがサビを口ずさむことのできたUSA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」など、“知らない”世代が増えてきているのではないか。そのことを承知の上で、「We Are The World」と私自身の想い出を書き連ねることは、逆にとても有意義なことだと思っている。前稿の「ミックステープってなんじゃらほい?」と多少なりとも繋がりのある話であり、昨年1月に書いた「青空の多重録音」も併せて読んでいただけるならば、この話はもっと聡明になるに違いない。私的なことながら、これは私にとってとても大切な、そしてある意味とても不思議な、歌とマルチ・トラック・レコーディングの話なのだから。
§
 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ…