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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈六〉

サブカルで私淑するmas氏のウェブサイトが、ネット上で見つかった。奇跡の発見。過去に抹消されたと思われていた一部のページが、まだサーバーに残っていたのである。思いがけぬハプニングに、私は今、とても昂揚している――。

 ウェブサイト[msbcsnb]http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)。mas氏がかれこれ20年ほど前に耕していたウェブサイトであり、ラスト・アップデートは2008年4月15日となっている。つまり10年ほど前に最後の更新をして以来、ずっとそこに、ネット上で眠り続けていた、ということになる。この10年間、私はまったくそのことに気がつかなかったのだ。
 mas氏のウェブサイトは他にも[mas camera classica]というのがあったが、どうやらそれはこのドメインのディレクトリには残っていないらしい。もともとドメインが別のため、そちらはおそらく、もう現存していないかも知れない。
 この度発見した[msbcsnb]トップのインデックスのページには、彼愛用のクラシック・カメラとレンズによって撮影されたと思われる、奥さんと可愛い娘さんの当時の画像がそのまま残って掲載されている。残念ながらこのサイトは、オーナーであるmas氏とコンタクトを取ることができない仕様になっているが、ともかく私個人の感覚としては、不思議な気がしてならないのである。何故なら、もうこれらはこの世に無いと思われていたのに、本当はそこに在ったのだから――。

 発見したのは、まったくの偶然であった。前回の「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈五〉」の原稿を書く直前、mas氏に関連したワードを試しに検索したところ、このサイトがヒットしたのだった。まさに瓢箪から駒である。トップのインデックス・ページから紐付けされたページはけっこう多く残っているので、どれを閲覧しても懐かしい思いがする。mas氏の撮影された写真を眺め、テクストの隅々までを私はかつて、何度もアクセスして耽読したのだった。
 実を言うと、私自身がプライヴェートで付けている日記を調べたら、mas氏のサイトに関する記述が膨大に見つかった。およそその記述は2004年から2009年にまで及び、彼のサイトに関する感想が短文で記録されていたのである。そのテクストを参考にして今回、あるワードを…

高校で学んだ「清光館哀史」

【高校の国語教科書から柳田国男「清光館哀史」】
 高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。
 「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。
 そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。

 子供を連れて汽車の旅を続けていた柳田が、子供に《今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ》と訊かれ、別に悪いわけではないけれども、九戸の小山内の清光館は小さくて黒かったね――と答えるこの随筆の最初の文章が印象的で、教科書には、“当時の小山内周辺”という岩手県九戸郡の地図まで付記されており、神妙な親子の汽車の旅の小景が目に浮かぶようである。しかも紀行への敬慕の度合いが日増しに――少なくとも今、28年という重みで――自己の内心に跳ね返りながら増幅してくる不思議な随筆である。「清光館哀史」をあらためて読み返す意義は、確かにあったのだ。この心持ちの正体は、いったい何であろうか。

§

【“当時の小山内周辺”と記された地図】
 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。

 平成2年(1990年)、そのうちの春であったか夏であったか、あるいは秋であったかは思い出せないが、工業高校の3年生だった私は、国語の授業で初めて「清光館哀史」を読んだのだった。当時私は、柳田も、その彼の業績の民俗学研究についても無知であったし、関心がなかった。しかし、「随想」を学ぶ教材として、「清光館哀史」の最初の授業でそれを音読させられ、自身の目に、あるいは自身の声の響きとして、文中の《つまり清光館は没落したのである》という文章が飛び込んできた瞬間から、柳田に対する関心が、一気に高まったように思われた。
 「没落」という言葉が、18歳足らずの私の心に強い衝撃をもたらした、と言えばいいのだろうか。柳田が旅の途中、清光館が「没落」したことを知る、その彼の驚きの衝撃と、私が「没落」という言葉に一瞬触れた強い衝撃とは、さほど違ったものではなかったのではないか。いや、もちろんそんなことはないのだが、柳田が清光館の「没落」の衝撃を直接的な起因とし、その地で見た女達の盆踊りの正体を探り当てたことは間違いないのである。
 岩手県九戸の小山内にあった清光館という“小さくて黒い”旅館を営む家族の、フィクションではないその家族の営みの崩壊――死別であり離別――を64年の歳月を経て平成2年にようやく知り得た私は、柳田が語ろうとしている「哀史」の底流を、〈なんとか通暁してみたい〉という観念に駆られたのだった。むろんそれは、高校3年という身の丈の範疇で湧き起こった拙なる志の、純朴な欲心に過ぎなかったのだけれど、「哀史」という言葉の意味が、例えば高村光太郎の「レモン哀歌」の「哀歌」と同根の、いわゆる《悲哀》とそこはかとない人間の暗部の《怨念》とを内包していることを悟った、些細な読解の出発点でもあった。この時、文学の凄まじさを味わうと同時に、さらには「清光館哀史」を読み進めた時の、どうしようもない胸痛と圧迫感のようなものは、今でも忘れることのできない身体的体験であった。

§

【清光館のあった辺りの写真】
 まず、柳田国男の経歴を、『日本国語大辞典』(小学館)から引用する。
《民俗学者。兵庫県出身。旧姓松岡。国文学者井上通泰の弟。東京帝国大学法学部政治学科卒。農商務省法制局、宮内省などの官吏を経て朝日新聞社客員となる。その間森鷗外、田山花袋らと交わり抒情詩人として期待されたが、次第に民間伝承の研究に精進、民俗学研究所を創設するなど、斯界の第一人者となる。昭和二六年(一九五一)文化勲章受章。芸術院会員。学士院会員》
(小学館『日本国語大辞典』より引用)

 さらに加えて以下、教科書での彼の略歴も添えておく。
《(省略)初め官界に入ったが、民俗学に関心を抱き、公私の旅行を利用して全国に土俗を探訪し、民間口承文芸・民間信仰・庶民生活史の研究・民俗語彙の採集などの各分野に独創的研究をして多大の業績をあげ、日本民俗学を樹立、普及した》
(筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』より引用)

【先生が作成し、当時授業で使用したドリル】
 当時の授業で扱ったドリルや資料が、今でも残っている。藁半紙の紙はボロボロになってはいないものの茶褐色に煤けており、解答欄に書き込んだ私のシャープペンシルの字体は細く、薄く、貧弱で覚束ない。
 「清光館哀史」の授業の要旨は2点であった。一つは「“嬥歌(かがい)”とは何か」であり、もう一つは「共同体が守ってきた“生の形式”について」である。
 本来、「随想」の授業であるから、教科書の“学習の手引き”にあるように、筆者(柳田)の6年前の旅の思い出の部分と、再訪の記録の部分とを理解し、大段落に分けられたそれらを読み比べ、それぞれの箇所の印象に残った点を挙げたり、また筆者が総じて何を言おうとしているのか、を考察するのが授業の目的であろうかと思われる。しかし、実際の授業では、その時の国語担当の先生はむしろ、そうした「随想」の構造の理解力よりも、柳田がまさに旅をしている目的、彼が探ろう、触れようとしている細部に至るまで深く踏み込んで、上述の2点の要旨を充分に掴むことを生徒に要求したのであった。であるからこそ結果的に、授業を受けた私などは、柳田国男という人と「清光館哀史」のある種幽玄とした世界の土壺にはまってしまったわけであって、それこそ、民俗学の範疇に一歩踏み込んだ感覚ではなかったか。

【ドリルの裏面の“歌垣”を示したマンガ】
 授業でおこなったドリルの詰問で、一つ例を挙げてみる。こういうのがあった。
《次の文について、後の問に答えよ。
なにャとやーれ
なにャとなされのう
ああ、やっぱり私の想像していたごとく、古くから伝わっているあの歌を、この浜でも盆の月夜になるごとに、歌いつつ踊っていたのであった

 問一、裏面のマンガを参考にして、歌の意味を具体的に説明せよ》

 そのドリルの裏面には学習資料として、おそらく小学館か集英社から既刊されていた、マンガ“日本の歴史”から一部複写したと思われるページが印刷されており、盆踊りで女達が歌っていた歌の本質を分かりやすく説明しようとしていたのではないか。その複写されたマンガでは、いくつかのムラの村人が集い、相互の男女が手を結び愛し合う、という様が描かれていた。『古事記』に出てくる歌垣(うたがき)である。個別の村人の男女が集うことで親族間の血縁結婚を防ぎ、互いのムラの発展と繁栄を要諦とした祭りであり、「性の解放」の祭りでもあった。
 《なにャとやーれ なにャとなされのう》の歌の意味は、柳田が文中に示しているとおり、《何なりともせよかし、どうなりとなさるがよい》であり、私はその通り解答して先生から赤丸をもらっている。しかし私はその時想像してみたのだが、小山内の盆踊りでは女が歌い、男を求める求婚の歌であり、なおかつその歌が即座の「性の解放」の意志表示に直結していたと考えると、この時代にして随分乱暴で凄まじく、主体的に女性が歌い乞うているのではなくて、男が女に強引に歌わせているだけではないか、とも感じられ、果たしてそれが若い男女の自由な、フリー・セックスのたぐいだったかどうか、むしろそれとはずいぶん程遠い実態だったのではないかという想像が、なかなか消えなかったのである。
 柳田は筑波山の「嬥歌」を例にとり、そこには男女の快楽だけではない日々の生活・生存の痛苦、災厄、親族の別離、将来への不安が表裏一体で潜んでいることを文中に示唆している。ただしこのうちには「女の悲しみ」を窺わせる表現がなかなか見えないのも確かで、柳田国男がその視点なり思いなりをどれほどの度量で持ち得ていたかどうか、ここからは判然としない。

§

【先生がおこなった授業を書き留めた私の自筆】
 映像でしか事実を読み取れなくなってしまった我々現代人は、その旧時代の説話をどう事実として認め合うべきであろうか。『定本柳田國男集』(筑摩書房)の第二巻に収められている『雪國の春』の「清光館哀史」の前には、「濱の月夜」という紀行文があり、私はこれを読んだ。ここに(いわゆる6年前の)小山内の盆踊りの様子が、ある程度生々しく綴られている。敢えて言うなれば、そこにはなんら映像はないのである。証拠となる映像はない。何を信じ、何を読み解くかである。
 「濱の月夜」は『雪國の春』のうちにまとめられた「豆手帖から」という随筆集にあって、「豆手帖」は大正9年8月より、東京朝日新聞夕刊に連載されている。ちなみに「清光館哀史」は大正15年9月、『文藝春秋』に掲載。

 大正から昭和の時代へと移りゆく国家の時世の只中、ある意味米粒のような存在であった柳田国男は、ひたすら農道を越え、村を越え、東北の世俗や風習、悲喜交々の因果応報を切実な現実感としてうたいあげた。そうして激動の昭和が終わり平成となったばかりの頃、18歳足らずの私(それこそ米粒以下の私)は「清光館哀史」を読み、微量ながら柳田の精神の心の内を感じ取ることができたのかも知れない。
 彼の示した「しょんがえ」の響きは、私が初めて読んだ頃には、もはや遠い時代の風雪のように感じられた。――気がつけば、もうまもなく、平成も終わりを告げる。しかしながら、清光館の「没落」とその地域の風習の憂いというのは、今の時代にも尚いっそう際立ち、同様にして人々の生存の苦しさと憂いを伝えるであろう。時代の変容の途上にありつつ、等価の悲劇が今まさにあちこちで数多くうごめいていることを、想像して已まないのである。

コメント

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…

拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
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 そこは東京・葛飾区の幼稚園。昭和50年に撮られた写真。私とあまり変わらない年頃の子供達が節分の日であろうか、画用紙に鬼の画を描いて切り取って、自慢げに整列した「鬼のお面」の記念写真。
 右側の背景の下駄箱の上の窓ガラスに、中岡俊哉先生が指摘する“霊体”が写っている。中岡先生の説明では、この霊体は園児に関係のある女性、なのだそうだが、私の眼には髭を生やした近所のおじさんにしか見えなかった。
 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

中野重治の「歌」

高校3年時の国語教科書を開く。筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』。この教科書については、当ブログ「教科書のこと」でも触れており、先日はこの教科書で知った評論家・唐木順三についても書いた。誰しも文学的出発点(文学に目覚めたという意味の)という経験譚はあるようだが、私にとっては、1990年に学んだこの筑摩の、高校国語教科書がどうやらその出発点と言い切っていいのではないかと思われる。  以前もこの教科書から、高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」について掘り下げたことがあるが、この教科書の「現代詩」の章題ページには、高村光太郎の彫刻作品である「腕」のモノクロ写真が掲載されていて、それが異様に迫るものがあり、光沢して白く見える指先から心に突き刺さるものを感じてはいた。ここで括られた「現代詩」は萩原朔太郎の「竹」「中学の校庭」で始まり、高村の「ぼろぼろな駝鳥」、そして中野重治の「歌」、金子光晴の「富士」、山本太郎の「生まれた子に」で閉じられる。どれもこれも、生命をもったことば達の狂った叫び声がきこえてくるかのようで、ひ弱な高校3年生であった私にとっては、鋭く、痛く、他の小説や随筆のように容易に読み砕くことができなかったのである。
§
 その中で最も身体に堪えたのが、中野重治の「歌」であった。第一の《おまえは歌うな》のことばの滑り出しは、あまりにも衝撃過ぎた。  これはこの筑摩の国語教科書全体にも言えることだけれど、すべてがことばとして痛いのである。心がひりひりと痛くなるような作品を敢えて撰修し、ずけずけと入り込んで高校生の悠長な精神を揺さぶりかけるような仕掛けが、あちこちにひしめいていた。そんな痛い筑摩の国語教科書の中で、「現代詩」における中野重治の詩は、あまりにも痛かった。以下、部分的に引用する。
《おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな》 《風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな》 とことばをたたみ掛けたうえで、 《すべての風情を擯斥せよ》  と一徹に恫喝し、 《胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え》  だとか、 《喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ》 《それらの歌々を 行く行く人びとの胸郭にたたきこめ》 (筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』に準じて引用)
 と、盛んに煽動されておしまいまでを読むのに、あるいはそれを声に出して読むのに、どれほどの勇気がいったことか…