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プディング妄想そしてプリン三昧

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芸能人の不倫ほど、食えないものはない。見苦しく、おぞましく、その非難の惨状を取り繕うのに必死な当事者は、家庭人としての体裁と社会への扉があっけなく閉じられようとする瞬間に、己の貧相と終始向き合わざるを得なくなる。  そうした人間の醜さゆえに不倫という。またそれが、仰々しくも侘びの沙汰――出会ってしまったが為の逃れられぬ恋慕――の身の上に生じた不倫であれば、どこか文学的で暗がりの野良猫の徘徊にも似た悲哀が感じられ、人間は所詮善人ではなく、そうした愚かな過誤を一生のうちにふと一度か二度、犯しかねないものである――という諸説入り乱れる含蓄と啓蒙に富んだ、近世の西洋人の警句のたぐいを思い返したりして、例えばまた、そういう調子の映画(堀川弘通監督の映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』)を観たりして、人生の破滅的な断罪やら教訓を反面教師的に心に打ち付けることができるのだけれど、その不倫の現場が――とあるビルディングの地下駐車場の“多目的トイレ”となると――あまりに異様な、とても文学的と称するわけにはいかなくなるのである。
 ここでいう文学とは、純文学のことである。つまり、“多目的”=multi-purposeの意味を履き違えた異形の不倫というよりは、単にお互いが、“もよおして遊ぶ”キュートなフェティシズムの乱遊に興じていたに過ぎなかったのではなかったか。この性癖には、近世のインテリジェンスな西洋人も、言葉を失って頭を抱えてしまうであろう。
 不倫。あちらこちらの小学生がついつい、学校でこんな不謹慎な話題を持ち出しかねなかった。「あのさ、多目的トイレでフリンって、結局、トイレで何すんの?」――。彼らは思春期の余りある好奇心をたえずくすぐられている。性欲の快楽に関する疑問に、半ば騒然とする心持ちを抑えつつも、おもむろに図書室へ行って、厳かに古びた国語辞書を手に取るに違いないのであった。また知性ある女子は、そんな男子の興味本位な話題にはつゆほども関心を示さないふりをしつつ、家に帰ってから、その漠然としたモヤモヤ感を払拭しなければならなかった。その最適な所作として、自身の勉強机の隅に置かれた国語辞書(誕生日に買ってもらったりしたことを思い出しつつ)を、開くであろう。――フリン。そこにははっきりとこう記されているのだ。 《既婚者が、別の相手と性的関係を結ぶこと。【類】密通・姦通・…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈五〉

【私淑するmas氏のウェブ「中国茶のオルタナティブ」】
 「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」。このお題目のシリーズは、どうやら今後も続きそうな気配。不定期で綴っていきたい。
 前回は、中国茶の「武夷肉桂」(ぶいにっけい)を嗜み、mas氏の曾祖父の話を書いた。煎茶を追い求める明治生まれの遠州男の話であった。大袈裟に言えば、お茶はアジアが誇る画期的な飲み物である。おお、excellent! その時の気分によって、好んでお茶を飲むのがいい。
§

 例えば紅茶もお茶の種の一つである。
 ついこの前、ペットボトルの「午後の紅茶」を思いがけず飲んだ。これが妙に美味しかった。紅茶は約1年半もご無沙汰していたのだけれど、束の間の休息を心から和ませてくれた。ほんの少し、紅茶について調べてみた。辞典では以下のような記述になっている。

《チャの若葉を摘み取って、萎凋 (いちょう)・揉捻(じゅうねん)・発酵・乾燥させて作った茶。煎汁は澄んだ赤茶色になる。一七世紀に中国茶が西洋に伝わり広まった。インド・スリランカが主産地。日本には明治以降伝わった》
(三省堂『大辞林』第三版より引用)

 日頃飲み慣れているコーヒーと、ちょっとしたお気楽のための中国茶。それに紅茶。そうだ、これからも事ある毎に紅茶を飲むことにしようではないか。この発酵した茶葉の、明るく快活なる味わいは、何たるものぞ――。私は紅茶という独特な香味の、ふくよかな快楽を、すっかり忘れかけていたのである。そういえばいつだったか、若い友人に、「紅茶花伝」のロイヤルミルクティーが美味いのだということを教えられたことがあった。それを思い出したから、今度気儘に買って飲んでみよう。
 寒空が続くこの冬の午後を過ごすのには、ぽくぽくと温かな紅茶を一服するのが、いちばんいいかも知れない。それもカジュアルな雰囲気を持続したまま――。茶というものを疎かにせず、それを嗜む心を養いたいと願う。飲み物として、奥が深くて、心強いから。尤もこれは、紳士淑女の基本的心得なのだろう。肝に銘じなければならぬ。

 ところで、言葉の話。
 英米では、単にtea(ティー)と言うと、紅茶を指すのだそうだ。煎茶の場合はGreen Teaと言い、紅茶をあらたまって言うとなると、Black Teaである。“茶を入れる”は、make teaなのだが、小学館の『ランダムハウス英和大辞典』(第2版)によると、wet the teaともあった。ウェット・ザ・ティーというのは、なかなか可愛らしく小洒落た表現である。これを雰囲気として日本語に訳す術がない。
 いずれにせよ、この場合のteaというのは、やはり基本的には紅茶を指す。ランダムハウスのteaの項目には他にも、teaedやtea’d、teadといった口語らしき語が載っており、ふくよかに茶を飲む文化の、カジュアルらしさが窺える。決して特別な飲み物ではなく、人々に寄り添った、かつ、言葉としてもごくごく軽い、ティーという響きの「無垢なる可愛らしさ」が感じられる。

 私淑するmas氏の「中国茶のオルタナティブ」には、茶の発音について言及した題目があった。「『茶』をどのように発音するか。誤読の歴史。」(2000年3月)。何度も言うように、このサイトのテクストは、既にウェブ上にはない。したがって以下、全文を引用する。

《中国では、チャー、インドではチャイ、日本では、チャ/サ、イギリスでは、ティー Tea、フランスではテ The、ブラジルではシャー cha。
 もちろん、いずれも語源は同じ、中国人が「茶」を発音した音。
 しかし、発音した中国人はどこの地方で、何世紀だったのか? その音をアルファベット表記した者の母国語は? そして、そのアルファベット表記をさらに違う母国語を持つ者が読み、その音をアルファベット表記したらどうなったのか? そんな誤読の歴史の中で似てるけど違う表記/発音が生まれた。
 そして、飲み方についてもしかり。ミルクを入れてみたり、バターを入れてみたり、石臼で挽いてみたり、焙煎してみたり、そんな誤読の歴史の中で茶であることは変わりのないのに様々なスタイルが生まれた。
 初めてミルクティーを作った人なんかはかなり変人だったと思う。それとも、すごく猫舌で手元にあった冷えた牛乳を入れてみたとか、そんなもんだったのかな。あ、あれはチャイの変形版か。インドだと水より牛乳か。。。
 そういえば、香港あたりのファミレスふう大衆食堂に入ると、コーヒーと紅茶のハーフ・アンド・ハーフとか、レモンコーヒーとか、そういうおもしろ飲み物があるね。あのチャレンジ精神は素晴らしいと思う。あと、韓国のコッピ(あえてコッピ、Coffeeね)はインスタントコーヒー粉末を麦茶で割ったりするんでしょ? それにインドのコーヒーはやはりインスタントコーヒーをチャイで割ったものなんでしょ? ある意味、フレイバー・ティーと言えないこともない。おもしろいね》

 伝える発音と表記の、おそらく何らかの事情の兼ね合いで、長い歴史の中、チャであったりティーであったり、テであったりと変異してしまった茶という言葉。mas氏の、実に面白い観点である。
 料理にしろ飲み物にしろ、いろいろな素材を加えて混ぜ合わせる(加熱したり発酵させたりする)文化であるから、古今東西に様々な茶という飲料の飲み方の(混ぜ方の)変形があることに驚く。逆に言えば、変幻自在な飲み物であり、それが親しまれる、好まれる理由でもあった。だから茶は貿易の要諦としての必需品となった。
 それぞれの国民や民族の文化を培養するための潤滑油となり、人々の間にひとときの安楽の休息感が生まれた。それが茶の本質である。魂の根底の、逃れることのできない苛烈な生存苦に対し、茶は、生きることの多少の、しのぎを削る救世主となった。こんなような話を、私は岡倉天心の本で学んだ、ように思う。

 数千年来、親しまれてきた茶については、人類の発明と言うよりはむしろ、神の営為による“善き計らい”のようにさえ思われ、文化人類学の観点で言うと、人間は、茶によって救われた。
 むろん、酒もそれに相応しい。が、酒とは違った意味での存在、すなわちその軽みの外套に敬意を表し、優雅なひとときを全人類に与えてくれた茶に対しては、私はこう思うのだけれど、この意見に賛同できる地球上の多くの市民の胸の内から、何かしらの栄誉ある勲章を捧げたいものである。

 次回はこちら。

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