スキップしてメイン コンテンツに移動

☞最新の投稿

伴田良輔の「震える盆栽」再考

作家でありセクシュアル・アートの評論家でもある、伴田良輔氏の様々な文筆作品に目を通す機会が多かった私は、その最初に出合ったショート・ショート作品「震える盆栽」の妖しげで奇怪なる感動が今でも忘れられない。それはもう、かれこれ27年も前のことになるのだった。  この「震える盆栽」については、当ブログ「『震える盆栽』を読んだ頃」(2011年2月)で書いた。いずれにしても27年前の“異形の出合い”がなければ、その後私はセクシュアル・アートへの造詣を深めることは無理であったろう。敢えてもう一度、この作品について深く掘り下げてみたくなった。あの時の、邂逅のエピソードからあらためて綴っていくことにする。
§
 「震える盆栽」を初めて知った(初めて出合った)のは、90年代初め。私はその頃上野の専門学校に通っており、まだ20歳になったばかりの時である。  ある日、授業の合間に学校を抜け出て、入谷方面へと散歩に出掛けた。交差点近くの所に来て、小さな書店を見つけたのだった。暇つぶしにこれ幸い、とその店に駆け込んだのだけれど、今となっては、その場所も、店の名前もまったく憶えていない。――ちなみに後年、鬼子母神(真源寺)のある入谷におもむいて、この書店をしらみつぶしに探したことがあったが、見つからなかった。既に閉店していた可能性もある。  私は、ありとあらゆる理由を考えた末に、結局、あの書店はもともと狐なるものが経営していて、ある日忽然と消えてしまったのだ、と信じて已まない。そういえば店主は、細い目をしていたような――。
 閑話休題。さて、その書店に入ったはいいが、真っ昼間で他のお客は誰も居なかったのだった。だから店内はしーんと静まりかえっていた。この狭い空間に、店主と私二人きり。何かUSENのBGMくらいかけておいて欲しい…。雰囲気としてはとても堪えられそうになかった。そう思ってしまったのは、なんとも若気の至りであった。
 若気の至りほど感覚的に懐かしいものはない。今の私なら、そういう小さな商店に足を踏み入れて、場の悪い空気にさらされたとしても、何ら平気。何のためらいもなく居続けるに違いない。え、客は私ひとりですが、なにかそれが問題でも?――。店主に話しかけられようが何だろうが、ずっと居座り続けるに違いない。尤も、長い時間読みたくなるくらい面白い本がそこにあれば、の話だが。  年を取…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈七〉

【これは私の所有物。mas氏に倣って入手したLEICA IIIc】
 2019年、ついに“ライカ・ウイルス”感染――。昨年はデジカメのLEICA X2(レンズはELMARIT 24mm F2.8)を買ってしまったけれど、症状はやや沈静化していたのだった。それが突然、今年になって猛威をふるったのは、mas氏の幻のウェブサイトのせいである。10年以上前に抹消されていたと思われていたサイトは、実はそうではなく、ネット上にひっそりと生存し、眠り続けていたことを知った。ついこのあいだ私は、それを発見してつい有頂天になった。
 気がつけば、“ライカ・ウイルス”の恐るべき脅威の餌食となっていた。もう手遅れであった。私の目の前には今、ぽつねんとその主人が、座り込んでいるではないか。そう、去年とは別人様のライカ――バルナックのIIIcである。

§

【mas氏のウェブサイトから「ライカ片手の新宿」】
 前回お伝えしたmas氏の幻のウェブサイト[msbcsnb]に紐付けされたリンク先から、今回は「ライカ片手の新宿」(2000年)を紹介してみよう。私はこのテクストと彼が撮影した写真4カットを、確か2004年頃に何度も眺めていたのだった。30代の頃である。あれから14年の歳月を経て、忘却の彼方に追いやられていた「ライカ片手の新宿」の随筆を、あらためて精読してみた。

《二十世紀がそろそろ終わるので感傷的に過去の思い出に浸ろうというわけではもちろんないし、これらの写真を不特定多数の人に見て貰いたいというわけでもない。ずっと新宿という街が好きだった、それなのに何故か写真を撮ったことはほとんどなかった、ただそれだけのことだ。
 学生時代、この街は僕にとってジャズそのものだった。中学時代に填ったジャズだけど、高校になって、生音とかレコードを聴きにこの街に来るようになった。紀伊国屋裏のピットイン、ジェイ、ニューダグ、ナルシス。二十歳を過ぎてゴールデン街という存在を知った。シラムレン。そのころ、大陸系マフィアがどうのこうの、なんて騒がれ始めた頃で、風林会館前の横町にあるばるぼらの前で中国人が青龍刀で殺されたりした。ジャズと深くかかわり始めると、世の中全てのものが「ジャズ」か「ジャズでないもの」になってしまう。そして、新宿はまぎれもなく「ジャズ」だった。
 あれから十年も経っていないのに、僕の好きな新宿はポツポツと消えていってしまっている。その消えつつある僕の好きな新宿をカメラ片手にめぐるのが今、無性に楽しい》
《left to right
 summaron 35mmF3.5/serenar 28mmF3.5/russar 20mmF5.6/summicron 35mmF2
+ Leica IIIc sharkskin》
(ウェブサイト[msbcsnb]「ライカ片手の新宿」より引用)

 これほどの短文の中にも、サブカルの熱っぽさが充満し、どれほどか分からない若者特有の幻覚と幻影と焦燥と、そして衝動的痕跡の入り混じった不可思議な体験とが絡み合い、私の胸の内にいくばくかの痛ましい刹那が突き当てられていく思いがした。敢えて言い切ってしまえば、mas氏はその頃、若者らしく、《孤独》だったのである。《孤独》さを衝動的に紛らわすもの、神経を高ぶらせてくれるもの、それがジャズであった。

 十代における学校教育というものを考えてみれば、誰しも分かるだろう。学校という組織の、その“従順”なる全体主義の空域においては、決してジャズは鳴ってはくれない。“従順”な集団から外野へ、一歩抜け出た者すなわちそのひとりの孤独な者の心にこそ響くのが、ジャズである。ひとりの人間の魂の中にだけ、ジャズがうごめく。たっぷりとした《時間》が経過し、生存の痛苦を帯びながら、それは沈殿していく。底に溜まった澱が静かに舞い上がる時、孤独がよろめくのだ。つまりジャズとは、哲学的に言えば他者と共鳴することが不可能なジャンルであり、ある意味《孤独》で不合理、かつ恐ろしい音楽なのである。

§

【ダイキャストのボディ。レンジファインダー部】
 20歳を過ぎてゴールデン街――。《大陸系マフィア》《ばるぼらの前で中国人が青龍刀で》――というのは新宿で起きた“青龍刀事件”。それは1994年の夏に起きた中国マフィア絡みの殺人事件のことかと思われるが、実際にこの事件で“青龍刀”は使われていないらしい。包丁もしくはサバイバル・ナイフ。しかし、この事案の象徴と言うべきものが、“青龍刀”ではあった。
 mas氏の思い出話が、この事件に触れていることによって、それが90年代の照影であることが分かった。とは言いつつその内実、80年代のただならぬ深い香りが漂っている。
 私はその頃、mas氏とほぼ同じ20代前半であった。まだ、ジャズに惹かれてはいなかった。私にとっての新宿とは、いつの時代を切り取ったとしても、「演劇の街」だったのである。高校時代の同級生ら二人と、某劇団の舞台を観に行き、歌舞伎町のビルの料理店で夜食を愉しんだのはさて、いつであったか――。悄然とした印象のない記憶であり、よく思い出せない。新宿という街は、人々の記憶を軽々しく消していく趣がある。

 30代になり、mas氏の、ライカなどのクラシック・カメラの“毒抜き”ページといった、これらのサイトを眺めるようになってからは、縁あって新宿を何度も訪れるようになった、にもかかわらず、私にはあまり、《僕の好きな新宿はポツポツと消えていってしまっている》というような感傷たるものは、起き得なかった。むろん、写真を撮ることもかつてしなかった。新宿という街の変幻――その煩瑣な風俗の行き交いを、子細までにとらえるだけの鋭敏な触覚が、どこか麻痺してしまっていたようである。いやむしろ、正直に述べれば、私自身が新宿の記憶を消したかった、のかも知れない。いずれにせよ、私にはジャズという風が、遅く吹いた――。

【いずれここに、露出計を付けたいという欲望…】
 mas氏は20世紀が終わろうとしていた頃、その半ば郷愁を胸に抱き、カメラのレンズを新宿の歌舞伎町界隈に向けた。ボディはLEICA IIIc。レンズは同じライカのズマロンやズミクロン、それからキャノンのセレナーだったりする。
 ちなみに補足しておくと、このカメラIIIcは、1940年から51年にかけて、約14万台も製造された最盛期のバルナック型ライカである。それまで板金加工だったボディが堅牢で精密なダイキャスト(アルミニウム合金や亜鉛合金を溶かして作る鋳造法)に初めて改良されたモデルであった。連動距離計とスロー・シャッターを備えているから貪欲なまでに、実務型である。第二次大戦中、最も需要のあったカメラと言っていい。
 ともかく、こういったカメラを片手に持って街に繰り出す、という一連の所作の感覚というのは、現在のスマートフォンの“カメラ機能”で街を撮るのとは、まったく違う次元の話なのである。クラシック・カメラは“カメラ機能”ではなく、《機構》なのである。人間がその《機構》を扱う時、まっとうな所作として、artisanにならなければならないのだ。たとえ、子供であっても女性であっても――。カメラとの格闘は、つまりカメラを持って街へ繰り出すということは、少々の重圧感を伴った集中力のいる作業なのである。それを思った時、あのIIIcの、“鮫肌”ヴァージョンの古びたカメラが、新宿の街をふわり彷徨ったことを私は想像すると、たまらなくノスタルジックで幾分、ルポルタージュぽいと思った。いいカメラである。

§

 「ライカ片手の新宿」に読み耽ってから連夜、酒でどろんとした身体をなんとか睡魔から救い出さんとするばかりに、ジャズらしきものをCDで聴いた。
 「13日の金曜日のブルース」は、かつて新宿三丁目に存在した映画館アートシアター新宿文化の地下、アンダーグラウンド蝎座でのライヴ録音(1968年12月)であり、歌うは浅川マキ《あの人の置いてった シャツを 洗って干してる 私の馬鹿》の歌詞が、女の不問なる情愛をふくよかにさせてくれる。ライヴ録音の空気感があの頃の新宿の臭気を漂わせているかのようで、その臭気がフリーズドライされていることに心が躍る。
 浅川マキのほかは、マイルス・デイヴィス。マイルスの『We Want Miles』。これは1981年の、ボストンとニューヨーク、そして新宿でのライヴ・レコーディング盤なのだが、詳しくはいずれ別稿に移そう。ともかく新宿は、mas氏がいい表現で述べているように、街そのものがジャズなのである。

 ところで私の目の前にあるダイキャスト・ボディの主人――IIIcには、(私淑するmas氏に倣い)LマウントのCanon SERENAR 50mm F1.9を付けてみることにしよう。果たしてこれでうまくいくのかどうか。この話もまたいずれ、別稿ということで――。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
 「藤野先生の『頓挫のある口調』について」。  三宝氏は『藤野先生』(魯迅『朝花夕拾』所収)で、魯迅が綴った先生の“口調”にまつわる表現――頓挫のある口調――の翻訳について鋭く言及している。頓挫のある口調とは、いかなる口調であるのかと。  さて、と思い、私は高校時代の筑摩書房の国語教科書を開いた。残念ながらその教科書には魯迅の『藤野先生』は収録されていなかった。書棚を探して皮肉にもそれを見つけたのは、同じ筑摩の『筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫)である。ここに収録されていた『藤野先生』は竹内好訳で、『世界文学大系』第62巻(筑摩書房)に拠っている。私はこの竹内氏の訳版によって、三宝氏が言及する部分を見つけることができた。
 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。  『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。  読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。  私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じで…

伴田良輔の「震える盆栽」再考

作家でありセクシュアル・アートの評論家でもある、伴田良輔氏の様々な文筆作品に目を通す機会が多かった私は、その最初に出合ったショート・ショート作品「震える盆栽」の妖しげで奇怪なる感動が今でも忘れられない。それはもう、かれこれ27年も前のことになるのだった。  この「震える盆栽」については、当ブログ「『震える盆栽』を読んだ頃」(2011年2月)で書いた。いずれにしても27年前の“異形の出合い”がなければ、その後私はセクシュアル・アートへの造詣を深めることは無理であったろう。敢えてもう一度、この作品について深く掘り下げてみたくなった。あの時の、邂逅のエピソードからあらためて綴っていくことにする。
§
 「震える盆栽」を初めて知った(初めて出合った)のは、90年代初め。私はその頃上野の専門学校に通っており、まだ20歳になったばかりの時である。  ある日、授業の合間に学校を抜け出て、入谷方面へと散歩に出掛けた。交差点近くの所に来て、小さな書店を見つけたのだった。暇つぶしにこれ幸い、とその店に駆け込んだのだけれど、今となっては、その場所も、店の名前もまったく憶えていない。――ちなみに後年、鬼子母神(真源寺)のある入谷におもむいて、この書店をしらみつぶしに探したことがあったが、見つからなかった。既に閉店していた可能性もある。  私は、ありとあらゆる理由を考えた末に、結局、あの書店はもともと狐なるものが経営していて、ある日忽然と消えてしまったのだ、と信じて已まない。そういえば店主は、細い目をしていたような――。
 閑話休題。さて、その書店に入ったはいいが、真っ昼間で他のお客は誰も居なかったのだった。だから店内はしーんと静まりかえっていた。この狭い空間に、店主と私二人きり。何かUSENのBGMくらいかけておいて欲しい…。雰囲気としてはとても堪えられそうになかった。そう思ってしまったのは、なんとも若気の至りであった。
 若気の至りほど感覚的に懐かしいものはない。今の私なら、そういう小さな商店に足を踏み入れて、場の悪い空気にさらされたとしても、何ら平気。何のためらいもなく居続けるに違いない。え、客は私ひとりですが、なにかそれが問題でも?――。店主に話しかけられようが何だろうが、ずっと居座り続けるに違いない。尤も、長い時間読みたくなるくらい面白い本がそこにあれば、の話だが。  年を取…

中野重治の「歌」

高校3年時の国語教科書を開く。筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』。この教科書については、当ブログ「教科書のこと」でも触れており、先日はこの教科書で知った評論家・唐木順三についても書いた。誰しも文学的出発点(文学に目覚めたという意味の)という経験譚はあるようだが、私にとっては、1990年に学んだこの筑摩の、高校国語教科書がどうやらその出発点と言い切っていいのではないかと思われる。  以前もこの教科書から、高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」について掘り下げたことがあるが、この教科書の「現代詩」の章題ページには、高村光太郎の彫刻作品である「腕」のモノクロ写真が掲載されていて、それが異様に迫るものがあり、光沢して白く見える指先から心に突き刺さるものを感じてはいた。ここで括られた「現代詩」は萩原朔太郎の「竹」「中学の校庭」で始まり、高村の「ぼろぼろな駝鳥」、そして中野重治の「歌」、金子光晴の「富士」、山本太郎の「生まれた子に」で閉じられる。どれもこれも、生命をもったことば達の狂った叫び声がきこえてくるかのようで、ひ弱な高校3年生であった私にとっては、鋭く、痛く、他の小説や随筆のように容易に読み砕くことができなかったのである。
§
 その中で最も身体に堪えたのが、中野重治の「歌」であった。第一の《おまえは歌うな》のことばの滑り出しは、あまりにも衝撃過ぎた。  これはこの筑摩の国語教科書全体にも言えることだけれど、すべてがことばとして痛いのである。心がひりひりと痛くなるような作品を敢えて撰修し、ずけずけと入り込んで高校生の悠長な精神を揺さぶりかけるような仕掛けが、あちこちにひしめいていた。そんな痛い筑摩の国語教科書の中で、「現代詩」における中野重治の詩は、あまりにも痛かった。以下、部分的に引用する。
《おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな》 《風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな》 とことばをたたみ掛けたうえで、 《すべての風情を擯斥せよ》  と一徹に恫喝し、 《胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え》  だとか、 《喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ》 《それらの歌々を 行く行く人びとの胸郭にたたきこめ》 (筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』に準じて引用)
 と、盛んに煽動されておしまいまでを読むのに、あるいはそれを声に出して読むのに、どれほどの勇気がいったことか…

イッピーの女

72年生まれの私にとって、“1970年”という年は未知なる憧憬度の濃い年である。

 大阪万博のあった年――というのは幼い頃からだいぶ擦り込まれていて、高校時代の数学の先生からは、それとは裏腹に、“よど号ハイジャック事件”の話を何度も聞かされていた。どうしてそんな古い話を? と先生に対して冷笑に近い疑念を抱いたものだが、その頃にしてはまだ19年ほど前の事件なのだから、先生からすれば記憶が鮮明なのは当然だったのだ。
 高校を卒業しておよそ6年後、講談社から発売されたビジュアル本『日録20世紀』の[1970 昭和45年]を買って読んだことがある。小説家・三島由紀夫の割腹自殺事件、大阪万博、よど号ハイジャック、ビートルズ解散、沖縄からの集団就職、チッソ株主総会などが主だった時事内容で、“ディスカバージャパン”というコピーが流行った年でもあった。そう、藤圭子さんの「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしたのも昭和45年だ。
*
 その『日録20世紀』を読んでいて、度肝を抜かれた写真に出くわしたことをよく憶えている。  鰐淵晴子さんのヌードフォトである。「美女倶楽部」というコーナーで伴田良輔氏が選んだフォトとなっている。
《ニューヨークのウォール街で屋外撮影された、女優・鰐淵晴子の大胆なヌード、「イッピー・ガール・イッピー」。広角レンズを用いた斬新なアングルと若く凛々しいモデルの肉体は、大きな反響を呼んだ。撮影、タッド若松》 (『日録20世紀』[1970 昭和45年]「美女倶楽部」より引用)
 鰐淵さんの、竹のように柔らかくしなやかな肉体美と対照的に、ウォール街のゴツゴツとした男性的な石壁のビルが印象的で、肉体の「白さ」と背景の「黒」との対比も素晴らしいと思った。黒々と硬いアスファルトに座している鰐淵さんの視線の鋭さは、彼女自身の若さの象徴と相まって、当時のアメリカの、女性解放運動の矛先をも感じさせる。それはすなわち、彼女の高い意識の表れでもあったのだろう。
 最近になってこの写真を思い出し、タッド・若松氏の古い写真集『イッピー・ガール・イッピー』(平凡社)を入手することができた。あの写真の他に一体どんなカットがあるのか、非常に興味があったのだ。
 ところが、あのカットの写真自体が、その古い写真集に収録されていなかった。私は驚いた。  確かに、ウォール街での屋外撮影のカットは、あ…