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2月, 2019の投稿を表示しています

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寺山修司が語る音楽とエロス

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【1983年刊、サントリー音楽叢書③『エロス in Music』】  個人的にここしばらく文学や演劇に関しては、寺山修司に着目し、その周縁の人々や作品に没頭していたいと思った。ごく最近知り得たのは、寺山修司がエロス(肉欲から通ずる愛。性愛)について述べた言説である。寺山と民族音楽の造詣が深い小泉文夫とが、“対談”という形式で、音楽に係るエロスについてのディスカッションを編纂した、ある書籍の企画があった。1983年刊のサントリー音楽叢書③『エロス in Music』(サントリー音楽財団・TBSブリタニカ)である。  はじめにざっくりと、この本のシリーズ――サントリー音楽叢書――について解説しておく。1982年1月に、最初のサントリー音楽叢書①『オペラ 新しい舞台空間の創造』が刊行された。この本の主なトピックスとしては、ドナルド・キーン、山田洋次、大木正興らによる鼎談「オペラへの招待」や、坂東玉三郎と畑中良輔による対談「オペラVS.歌舞伎」など。同年7月には、第2弾となるサントリー音楽叢書②『1919~1938 音楽沸騰』が出る。2つの世界大戦に挟まれた時代の現代音楽をテーマとし、武満徹、諸井誠、山口昌男らによる鼎談「もうひとつの音楽を求めて」、柴田南雄と高階秀爾の対談「現代への投影」といった内容が盛り込まれている。  ところで詳しい経緯は分からないが、いくら調べてみても、1983年刊のサントリー音楽叢書③以降のシリーズは、見当たらないのである。どうもこのシリーズは、わずか2年の間のたった3冊の出版で打ち切りとなったようだ。  この事情を当て推量するならば、3冊目の『エロス in Music』の内容が、当時にしてはあまりにも、強烈かつ斬新すぎたのではないか――。しかし、その内容が決して的外れなものではなく、かなりエロスの本質に踏み込んだ、音楽との係わり合いについて多様な論客を結集した内容であったことは、言うまでもない。ちなみにこの本の表紙の画は、池田満寿夫氏の作品である。本中にも池田満寿夫と佐藤陽子の二人が、「音楽・絵画・エロス」と題し、随筆を寄稿している。 【本の巻頭を飾る対談「エロス in Music」の寺山修司】 ➽寺山修司とは何者か  では、サントリー音楽叢書③『エロス in Music』における寺山修司と小泉文夫の対談――“音楽の中のエロス”――に話を絞ろう。

ガラス板の中の青年―「郷愁と彼方の非線形」

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【昨年入手した古い写真乾板。そのデジタル画像変換の試み】  これ以上はないと思われる百科事典たる荘厳な体裁その情趣。なおかつほとんどヴィンテージと言っていい古めかしい『世界大百科事典』(平凡社、1965年初版)で「写真」をひいてみた。まことにたいへんな長文であった。  冒頭のトピックは、「写真術の発明と発達」となっていて、1727年ドイツの医師シュルツェ(John Heinrich Schulze)が炭酸石灰と硝酸銀などの原料を用い、ガラス瓶の中に透過された光によって黒紙の模様を現出させた実験の内容から論述が始まっている。それから、フランスのダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre)の話へと続き、湿板写真の発明云々の後、ようやく乾板とフィルムについての論述となる。これらの学術的内容は、興味を示す者にとっては実に博学的な、そうでない者にとってはちんぷんかんぷんな言葉の羅列であり、写真の発明と原理についての硬質とも言える文体の科学的論法こそ、『世界大百科事典』に似つかわしい格調高い風情なのであった。  それはそうと、私がここで述べようとしているのは、写真乾板についてである。写真乾板の発明は、1871年イギリスのマドックス(Rechard Leach Maddox)による。ゼラチンの溶液に臭化銀を作ってガラス板に塗布し乾かしたものを用い、湿式ではほとんど不可能であった動体撮影が、乾板では可能となった。そうして感光乳剤を塗布していたガラス板の素材が、やがて感光性フィルムに置き換わって技術的進歩を遂げた、その恩恵をめいっぱい授かった20世紀末までが、フィルム現像方式の全盛期であり、以後、ピクセル画によるデジタル・カメラが主流となってその役目が終わる。ここから話を写真乾板に戻す――。 【小さな箱に貼られたイルフォード乾板の説明文】  私が今回おこなった実験的試みは、古びた写真乾板のデジタル画像変換(デジタル・スキャニング)である。故あって、というか自身の音楽制作( 「郷愁と彼方の非線形」 )に関連し、そのモチーフの画像を得るためにこうした試みをおこなったわけだが、写真乾板のデジタル画像変換は、既に経験として別の乾板で2年前にもおこなったことがある(当ブログ 「乾板写真―家族の肖像〈1〉」 参照)。  ガラス板

さようならヨーカドー

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【イトーヨーカドーのゲームコーナーのモグラ叩き】  かなり思い出の詰まった“ローカル”な話――。去る2月17日、わが地元の市民に長年愛されてきた総合スーパー「イトーヨーカドー古河店」(茨城県古河市雷電町)が惜しまれて閉店。知り合いに聞けば、閉店日当日は駐車場がほぼすべて満車。多くの人が詰めかけて大盛況であったという。  実は昨年中の早い時期に、“古河のイトーヨーカドーが来年、閉店になる”という話を知人から聞いていた。閉店という言葉にある種の驚きはあったものの、ああ、いよいよヨーカドーもそうなるのかという深い溜息に近い気持ちであった。以前より、実際に店内で買い物をしていてもなんとなく客足が薄まっているように感じられたし、どこか活気に乏しいところがあった。しかも市内にはいくつかの大型スーパーがあって、そちらに客を取られている感は否めなかった。〈ここにきて閉店はやむを得ない〉という消沈。  そうして今年の1月、茨城新聞の9日付の記事の見出しで「ヨーカドー古河店閉店へ 2月17日、売り上げ低迷」と出る。 《JR古河駅近くの中核的な商業施設として長年親しまれてきたが、近年の売り上げ低迷などを理由に撤退が決まった。同ホールディングスの担当者は「お客さまのニーズの変化に対応できなくなってしまった」と説明した》 (2019年1月9日付茨城新聞より引用) § 【パチンコに夢中になる幼少の私】  あれよあれよと日々の生活の忙しさにかまけて、気づけば明日が閉店日なのだと気づいた時はもう遅かった。個人的に店舗を訪れる機会を完全に喪ってしまったのだった。今年はせめて一度だけ最後に訪れようと思っていたにもかかわらず。もう一度あそこで、あの店であれを買おう。その念願を果たせないまま、閉店の日が過ぎてしまった。クローズである。やるせない無念さが込み上げてくる――。  地元に「イトーヨーカドー古河店」ができたのは、42年前の1976年(昭和51年)5月である。私はまだ4歳だった。  あの頃、売り場面積の広い大型の総合スーパーなんていうものは他になくて、ヨーカドーのオープン直後、日曜日になるとそこへ家族5人で買い物に出掛けるのが、お決まりの休日イベントであった。買い物をした後に店内のレストラン街で昼食をゆっくりと楽しむ。私はもちろん、泣く子も黙る王

ぐだぐだと、寺山修司と新宿風月堂の話

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【福島菊次郎の写真集より60年代の新宿風月堂】  新宿…シンジュク…Shinjuku――と、かの時代の新宿に思いを馳せてみる。1960年代から70年代にかけての新宿。その頃私はまだ生まれていなかったから、1980年代以前の新宿の空気を知らないし、あまり話にも聞かなかった。知らなかった頃の昭和の新宿が、たまらなく知りたくなる。当面はまず、机上の空想でその頃の新宿という街を読み解いていくしかない。 §  机の上に資料を並べた。グラスに琥珀色の酒を注ぎ、その薫香を味わいながら、新宿の、今よりももっと“図太かった”街の様子を、大雑把に想像してみる。地下階段から這い出た東口付近の通りの、歩く人々の交差とネオンの夜景。どこまでも世相が反映する人々の服装、化粧、身につける装飾品。そして今でこそ、大事そうに片手に抱えるケータイからSNSに夢中になる人々のうつろな眼差しというものは、あの頃には、まったくなかった。そのことは、逆に不可思議な想像と映るかも知れない。思う存分、そんな昔の新宿の街を、心にしみるまで想像してみた――。  昭和の新宿への懐古的空想は、まるで古びて黒ずんだ幻燈機の放つ、妖しい光のように淡く切ない。ゆらめく光が幻影を作り出し、幻影と幻影とが交錯し、《記憶》の襞を刺戟する。  新宿という街は、どこか人々の《記憶》を曖昧にしてしまう負の力がある。特有の後ろめたさが、心の裏側にこびりついて失うことがない。私がかつて、学生時代に街を歩いて目撃した新宿の所々には、60年代から70年代にかけての新宿の幻影なるものが、二重写しのようになって残存していたように思われる。この時既に、私が見た街の記憶は、事実と虚構の境界線をゆらゆらと行き来するような曖昧なものであった。 【混沌・雑然とした雰囲気の新宿】  新宿は、闊達とした街である。時代の変化を感じさせない文化的スケールがある。どういうわけだか今、私は、新宿という街を愛してしまっている。繰り返し繰り返し、そのことを追想している。  確かに中学生の頃は、新宿という街の猥雑さに憧れた。国籍を問わず多種多様な恰好をした大人達が、主体性もなく街をさまよっていることに憧れた。が、街への憧れと愛着はさほど長くは続かなかった。いま再び、新宿という街について思いを馳せてみると、やはり