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伴田良輔の「震える盆栽」再考

作家でありセクシュアル・アートの評論家でもある、伴田良輔氏の様々な文筆作品に目を通す機会が多かった私は、その最初に出合ったショート・ショート作品「震える盆栽」の妖しげで奇怪なる感動が今でも忘れられない。それはもう、かれこれ27年も前のことになるのだった。  この「震える盆栽」については、当ブログ「『震える盆栽』を読んだ頃」(2011年2月)で書いた。いずれにしても27年前の“異形の出合い”がなければ、その後私はセクシュアル・アートへの造詣を深めることは無理であったろう。敢えてもう一度、この作品について深く掘り下げてみたくなった。あの時の、邂逅のエピソードからあらためて綴っていくことにする。
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 「震える盆栽」を初めて知った(初めて出合った)のは、90年代初め。私はその頃上野の専門学校に通っており、まだ20歳になったばかりの時である。  ある日、授業の合間に学校を抜け出て、入谷方面へと散歩に出掛けた。交差点近くの所に来て、小さな書店を見つけたのだった。暇つぶしにこれ幸い、とその店に駆け込んだのだけれど、今となっては、その場所も、店の名前もまったく憶えていない。――ちなみに後年、鬼子母神(真源寺)のある入谷におもむいて、この書店をしらみつぶしに探したことがあったが、見つからなかった。既に閉店していた可能性もある。  私は、ありとあらゆる理由を考えた末に、結局、あの書店はもともと狐なるものが経営していて、ある日忽然と消えてしまったのだ、と信じて已まない。そういえば店主は、細い目をしていたような――。
 閑話休題。さて、その書店に入ったはいいが、真っ昼間で他のお客は誰も居なかったのだった。だから店内はしーんと静まりかえっていた。この狭い空間に、店主と私二人きり。何かUSENのBGMくらいかけておいて欲しい…。雰囲気としてはとても堪えられそうになかった。そう思ってしまったのは、なんとも若気の至りであった。
 若気の至りほど感覚的に懐かしいものはない。今の私なら、そういう小さな商店に足を踏み入れて、場の悪い空気にさらされたとしても、何ら平気。何のためらいもなく居続けるに違いない。え、客は私ひとりですが、なにかそれが問題でも?――。店主に話しかけられようが何だろうが、ずっと居座り続けるに違いない。尤も、長い時間読みたくなるくらい面白い本がそこにあれば、の話だが。  年を取…

ぐだぐだと、寺山修司と新宿風月堂の話

【福島菊次郎の写真集より60年代の新宿風月堂】
 新宿…シンジュク…Shinjuku――と、かの時代の新宿に思いを馳せてみる。1960年代から70年代にかけての新宿。その頃私はまだ生まれていなかったから、1980年代以前の新宿の空気を知らないし、あまり話にも聞かなかった。知らなかった頃の昭和の新宿が、たまらなく知りたくなる。当面はまず、机上の空想でその頃の新宿という街を読み解いていくしかない。

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 机の上に資料を並べた。グラスに琥珀色の酒を注ぎ、その薫香を味わいながら、新宿の、今よりももっと“図太かった”街の様子を、大雑把に想像してみる。地下階段から這い出た東口付近の通りの、歩く人々の交差とネオンの夜景。どこまでも世相が反映する人々の服装、化粧、身につける装飾品。そして今でこそ、大事そうに片手に抱えるケータイからSNSに夢中になる人々のうつろな眼差しというものは、あの頃には、まったくなかった。そのことは、逆に不可思議な想像と映るかも知れない。思う存分、そんな昔の新宿の街を、心にしみるまで想像してみた――。
 昭和の新宿への懐古的空想は、まるで古びて黒ずんだ幻燈機の放つ、妖しい光のように淡く切ない。ゆらめく光が幻影を作り出し、幻影と幻影とが交錯し、《記憶》の襞を刺戟する。
 新宿という街は、どこか人々の《記憶》を曖昧にしてしまう負の力がある。特有の後ろめたさが、心の裏側にこびりついて失うことがない。私がかつて、学生時代に街を歩いて目撃した新宿の所々には、60年代から70年代にかけての新宿の幻影なるものが、二重写しのようになって残存していたように思われる。この時既に、私が見た街の記憶は、事実と虚構の境界線をゆらゆらと行き来するような曖昧なものであった。

【混沌・雑然とした雰囲気の新宿】
 新宿は、闊達とした街である。時代の変化を感じさせない文化的スケールがある。どういうわけだか今、私は、新宿という街を愛してしまっている。繰り返し繰り返し、そのことを追想している。
 確かに中学生の頃は、新宿という街の猥雑さに憧れた。国籍を問わず多種多様な恰好をした大人達が、主体性もなく街をさまよっていることに憧れた。が、街への憧れと愛着はさほど長くは続かなかった。いま再び、新宿という街について思いを馳せてみると、やはり少年時代に見た新宿の、あの大人びた、どこか汚らわしくそれでいて少し寂びて枯れた心持ちの、なんとも言えないざわざわとした雰囲気が、たまらなく脳裏に甦ってくるのである。
 きっと、mas氏のせいなのだろう。あの街の猥雑さとラジカルな側面に心惹かれてとうとうと語っていたmas氏に洗脳されてしまったのに違いない。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈七〉」では、私淑するmas氏の新宿“ゴールデン街”の話に及んで、写真とカメラ、ジャズについて少々論じた。このサブカルの流れを与しなければならない。だから今、新宿という街に対して非常に濃い思いを馳せている。

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【新宿風月堂の店内。クラシック音楽が流れていた】
 言わずもがな、寺山修司の世界観に染まってしまった――。ここから抜け出せる自信がない。ならば、どっぷりと浸かるしかないようだ。こうして机の上に広げてしまった60年代から70年代にかけての新宿界隈に関する資料を読み漁っているうち、浅川マキと寺山修司の世界にぶち当たってしまったら、とことんそれに付き合うまでなのである。諦めて、映画を観ればいい。
 つい先日、寺山修司の1971年監督作品である映画『書を捨てよ町へ出よう』(人力飛行機プロ、日本アート・ギルド・シアター)のブルーレイ版を観た。原作は、彼の著書『書を捨てよ、町へ出よう』――。
 私が演劇活動にのめり込んでいた20代の頃、演劇を志す者として、〈シェイクスピアと寺山修司だけは避けて通れ〉というのが座右の銘だった。役者がシェイクスピアもしくは寺山修司の毒気にかぶれだしたら、たちまちその毒が体内を駆け巡り、解毒できなくなる。しかもその毒沼から抜けきれずに溺死するであろうことは明白だったのだ。言わば、シェイクスピア・ワールドの“シェイクスピア俳優”となり、寺山修司ワールドの“寺山修司俳優”になるという、ある種間の抜けた結末として、判で押したような同根の俳優人らが増殖されるのがオチであった。
 しかしながら歳を追うと、その毒気なるものを身体の方が欲してくるのであった。愚かな誘惑である。サソリの毒にでも噛まれてみたいとも思う。いや、寺山修司は47歳で亡くなったのだから、その享年の峠を越えようとしている私にとっては、毒は毒とならない。毒が体内に入り込んでも、あっけなく中和されてしまう気がするのだ。
 ならば、存分に毒沼に浸かるがよい。寺山修司ワールドの乗り物料金はすべてわしが全額負担いたしますよん、と、あの世の窓から寺山修司が顔をこちらに出して笑っているではないか。それは悪戯っ子のような低い声であったにせよ、悪意はまるで感じられないのである。

【文化人の善き住処でもあった風月堂】
 映画『書を捨てよ町へ出よう』と限りなく同名に近い原作『書を捨てよ、町へ出よう』とは、原作の映画化という関係にはなっていない。それぞれ別物ととらえていい。しかしながら原作も映画も、一貫した寺山修司の信念はど真ん中を通っている。すなわち「大きなタマを持て」ということである。原作ではノーマン・メイラーとアーサー・ミラーの言わば“タマ”の話が出てくるが、この意味を知りたければ、どちらか片方でも鑑賞すべきだ。“タマ”は大きい方がいい――。
 ちなみに、私が所有している角川文庫の『書を捨てよ、町へ出よう』の装幀は、緑色のベタ塗りの平成22年改版なのだけれど、この淡い緑色がまた、私が愛するアイルランドの《三位一体》を示す三つ葉のクローバーの色とも競合する。偶然の成り行きながら、気風が同調するかのようで、私の信念もそういう意味では、馬鹿の一つ覚えの風情として一貫している。

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【ヒッピーやフーテン族がたむろしていた風月堂】
 ともあれ、まだまだ寺山修司のパラレルワールドを無為に広げたくない。ここでは抑制し、映画の話は別稿に譲るとする。その彼がかつて好きで通いまくったという名曲喫茶(あるいはパーラーと称すべきか)「新宿風月堂」(しんじゅくふうげつどう)について書いてみたいのである。
 Wikipediaで「新宿風月堂」を調べてみた。
 風月堂は、1946年(昭和21年)に新宿区角筈(現三丁目、ビックロのあたり)に開業した、とある。ちょっとこの説明だけではぶっきらぼうに思われる。場所を丁寧に書くと、こうなる。JR新宿駅東口を出て、アルタのある新宿通りを東へと歩いていき、ビックロを越えた新宿三丁目西の路地を右に曲がる。そうして、喫茶らんぷるの向かいの新宿シアターモリエールのあたりが、かつての風月堂――。この界隈には昔、東映の任侠映画で人気を博した“新宿昭和館”という映画館があった(2002年に閉館)。今はK’s Cinemaとなっている。新宿の街のこまかい箇所はいつまた変わるかも知れないという不確定要素が絶えずあるから、人々の心の内の、あの店は今どうなっているのか? あそこにはどんな店があったか? といった街の世俗的な関心度は、決して薄まることがない。

【何故これほどまでに福島菊次郎は風月堂にこだわったのか】
 ともかく、風月堂は名曲喫茶だった。
 創業当時すなわち昭和21年の終戦直後は、音源自体が貴重だったクラシックのレコードをかけ、そのクラシック音楽を目当てに客足が伸び、評判を博したのだという。レコードの所有者、そしてまた絵画コレクターでもあった資産家横山五郎がオーナーの風月堂は、別の側面ではアート・ギャラリーであったらしい。Wikipediaには、盛況だった頃の風月堂に訪れた錚錚たる著名人が列挙されていたので、引用しておく。
《滝口修造、白石かずこ、天本英世、三枝成章、三國連太郎、ビートたけし、野坂昭如、五木寛之、岡本太郎、栗田勇、岸田今日子、長沢節、朝倉摂、谷川俊太郎、唐十郎、安藤忠雄、寺山修司、若松孝二、高田渡、蛭子能収》
(Wikipedia「風月堂(東京都新宿区)」より引用)

 文化人が多く訪れた風月堂の、在りし日を照射した写真は、なかなか見つけるのが困難である。反体制の社会派で知られた写真家福島菊次郎の写真集『戦後の若者たち Part II リブとふうてん』(三一書房・1981年初版)には、1960年代以降の風月堂の、若者達の賑やかな会話さえ聞こえてきそうな雰囲気、もうもうと燻らせる紫煙、つんとくるアルコールの臭い、まるで幻覚剤がそのあたりに転がっていそうなイメージの写真が多く掲載されており、そうした若者達の、あの時代特有の、体臭でむせかえる雑駁とした風月堂の店内の様子が、モノクロームの写真の中に押し込められていて秀逸である。写真集自体、今となっては入手が難しい稀本となってしまっている。いずれにせよ、当時の風月堂を知る貴重な資料である。

【風月堂で時間をつぶす若者達】
 写真集の小題の、「風月堂紳士録」を取り上げ、当時の店内の様子を見ていきたい。
 これを写した福島氏も、実は風月堂の常連客であった。当初はクラシック音楽で優雅なひとときを過ごせていたこの店も、《六五年頃になると風月堂の客すじは急に変った》という。異様なほど、騒々しくなったのである。福島氏は店内の客達の雑談のノイズから、耳に止まった横文字らしき言葉を抽出してメモを取った。
《ヌーベルバーグ、イッピーラジカル、ビートニック、コミューン、サイケデリック、アングラポップ、アンダーグラウンド。人名ではヘミングウェイ、サルトル、トインビー、ソルジェニツィン、高橋和巳、唐十郎、寺山修司》
(福島菊次郎『戦後の若者たち Part II リブとふうてん』より引用)

 ここでは“ビートニック”と記してあるが、私も50年代以降のビートニク(beatnik)の洗礼のなんたるかを知りたくて、近頃ウィリアム・バロウズの小説『裸のランチ』(The Naked Lunch)に手を伸ばした。ある種の心地良い凄まじさが感じられる。これをもし、今の若者が手に取って読んだとしたら、なかなか思いがけぬ感受に苛まれるのではないか。
 むしろこれを読むと、みんな“作家”稼業で飯が食いたくなる。腐っていく得体の知れない人生、すなわちそのカンヅメの中身は自分自身である。まったくもって自分自身の身体が腐り始めるのに絶えられなくなったならば、恐怖で家にこもって居られなくなるだろう。そして外に飛び出したくなる。外に飛び出し、作家になろうじゃないか(ここのところは寺山修司の“書を捨てよ、町へ出よう”とまったく同じ主旨)という逆説的心理。
 ビートニクの小説でむず痒くなった頭を落ち着かせるためには、悪友を連れて新宿の風月堂に駆け込むのがいちばん――と思った若者は多かったかも知れない。その行動性はまことに理に叶っている。健全である。ヒッピーやフーテンとなって猛烈に他人と会話をしたくなる時代だった、のである。

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【時代を象徴し、思索の場でもあった風月堂】
 風月堂は、1973年8月をもって閉店した。風月堂が背負わされた役割はこの時代に終わったのだった。戦後の復興期からビートニク、ヒッピー、フーテンといった文化に良くも悪くも煽られ、そのあらゆる功罪の重荷を背負わされて自家中毒となった。だから、風月堂の歴史はあっけなく短かったのだ。本来的に、人々の憩いの場である喫茶は、世俗の感覚の浮き沈みに諍うことができない。今、渋谷の街がその重荷を背負わされている感がなくもない。1970年代初頭、そうした世俗の潮流の、新古の切れ目が訪れたのだった。

 唐組の唐十郎(当時は状況劇場)も風月堂の常連客であった。
《もう毎日行ってました。客にはアレン・ギンズバーグの詩集なんか抱えたフーテン族の詩人が多くてね。あのころの新宿には映画関係者がたくさんいたので、その人たちに自分の顔を売ろうという目的もありました。劇作家の竹内健さんを介して麿赤兒に初めて会ったのも風月堂です。初期の状況劇場には、風月堂で集めたメンバーが多かった》
(都市出版『東京人』2005年7月号より引用)

【外国人が女性をくどく場でもあった風月堂】
 この雑誌の同号には、「『あの時代』とは何だったのか 大きな安定の中の小さな反乱。」と題した随筆で御厨貴氏が、1970年前後の時代論を述べていて、思わず納得させられた。
《七〇年前後に青春を送った団塊の世代と、それ以降の世代で決定的に違うのは、後の世代には共通の思想、経験というものがない。団塊の世代が経験した学生反乱が、世代という言葉が当て嵌まる最後の共有体験ではないだろうか。安田講堂の紛争が終わった時に、世代の共通体験はなくなったのです。団塊の世代が今でもわりと団結力があるのは、共通体験があるからで、それ以後の世代にはほとんどありません。安田講堂以降の三十年余は、そういう意味で切れ目がまったくない。その上に皆バーチャルになってしまった》
(都市出版『東京人』2005年7月号より引用)

 何か、言いようのない思いが込み上げてくる。新宿の街をあてどもなくさまよってみたい、とも思う。そこにはまだ、昭和の強烈な何かが、残っているかも知れないのである。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
 「藤野先生の『頓挫のある口調』について」。  三宝氏は『藤野先生』(魯迅『朝花夕拾』所収)で、魯迅が綴った先生の“口調”にまつわる表現――頓挫のある口調――の翻訳について鋭く言及している。頓挫のある口調とは、いかなる口調であるのかと。  さて、と思い、私は高校時代の筑摩書房の国語教科書を開いた。残念ながらその教科書には魯迅の『藤野先生』は収録されていなかった。書棚を探して皮肉にもそれを見つけたのは、同じ筑摩の『筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫)である。ここに収録されていた『藤野先生』は竹内好訳で、『世界文学大系』第62巻(筑摩書房)に拠っている。私はこの竹内氏の訳版によって、三宝氏が言及する部分を見つけることができた。
 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。  『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。  読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。  私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じで…

伴田良輔の「震える盆栽」再考

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 閑話休題。さて、その書店に入ったはいいが、真っ昼間で他のお客は誰も居なかったのだった。だから店内はしーんと静まりかえっていた。この狭い空間に、店主と私二人きり。何かUSENのBGMくらいかけておいて欲しい…。雰囲気としてはとても堪えられそうになかった。そう思ってしまったのは、なんとも若気の至りであった。
 若気の至りほど感覚的に懐かしいものはない。今の私なら、そういう小さな商店に足を踏み入れて、場の悪い空気にさらされたとしても、何ら平気。何のためらいもなく居続けるに違いない。え、客は私ひとりですが、なにかそれが問題でも?――。店主に話しかけられようが何だろうが、ずっと居座り続けるに違いない。尤も、長い時間読みたくなるくらい面白い本がそこにあれば、の話だが。  年を取…

中野重治の「歌」

高校3年時の国語教科書を開く。筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』。この教科書については、当ブログ「教科書のこと」でも触れており、先日はこの教科書で知った評論家・唐木順三についても書いた。誰しも文学的出発点(文学に目覚めたという意味の)という経験譚はあるようだが、私にとっては、1990年に学んだこの筑摩の、高校国語教科書がどうやらその出発点と言い切っていいのではないかと思われる。  以前もこの教科書から、高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」について掘り下げたことがあるが、この教科書の「現代詩」の章題ページには、高村光太郎の彫刻作品である「腕」のモノクロ写真が掲載されていて、それが異様に迫るものがあり、光沢して白く見える指先から心に突き刺さるものを感じてはいた。ここで括られた「現代詩」は萩原朔太郎の「竹」「中学の校庭」で始まり、高村の「ぼろぼろな駝鳥」、そして中野重治の「歌」、金子光晴の「富士」、山本太郎の「生まれた子に」で閉じられる。どれもこれも、生命をもったことば達の狂った叫び声がきこえてくるかのようで、ひ弱な高校3年生であった私にとっては、鋭く、痛く、他の小説や随筆のように容易に読み砕くことができなかったのである。
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 その中で最も身体に堪えたのが、中野重治の「歌」であった。第一の《おまえは歌うな》のことばの滑り出しは、あまりにも衝撃過ぎた。  これはこの筑摩の国語教科書全体にも言えることだけれど、すべてがことばとして痛いのである。心がひりひりと痛くなるような作品を敢えて撰修し、ずけずけと入り込んで高校生の悠長な精神を揺さぶりかけるような仕掛けが、あちこちにひしめいていた。そんな痛い筑摩の国語教科書の中で、「現代詩」における中野重治の詩は、あまりにも痛かった。以下、部分的に引用する。
《おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな》 《風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな》 とことばをたたみ掛けたうえで、 《すべての風情を擯斥せよ》  と一徹に恫喝し、 《胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え》  だとか、 《喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ》 《それらの歌々を 行く行く人びとの胸郭にたたきこめ》 (筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』に準じて引用)
 と、盛んに煽動されておしまいまでを読むのに、あるいはそれを声に出して読むのに、どれほどの勇気がいったことか…

イッピーの女

72年生まれの私にとって、“1970年”という年は未知なる憧憬度の濃い年である。

 大阪万博のあった年――というのは幼い頃からだいぶ擦り込まれていて、高校時代の数学の先生からは、それとは裏腹に、“よど号ハイジャック事件”の話を何度も聞かされていた。どうしてそんな古い話を? と先生に対して冷笑に近い疑念を抱いたものだが、その頃にしてはまだ19年ほど前の事件なのだから、先生からすれば記憶が鮮明なのは当然だったのだ。
 高校を卒業しておよそ6年後、講談社から発売されたビジュアル本『日録20世紀』の[1970 昭和45年]を買って読んだことがある。小説家・三島由紀夫の割腹自殺事件、大阪万博、よど号ハイジャック、ビートルズ解散、沖縄からの集団就職、チッソ株主総会などが主だった時事内容で、“ディスカバージャパン”というコピーが流行った年でもあった。そう、藤圭子さんの「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしたのも昭和45年だ。
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 その『日録20世紀』を読んでいて、度肝を抜かれた写真に出くわしたことをよく憶えている。  鰐淵晴子さんのヌードフォトである。「美女倶楽部」というコーナーで伴田良輔氏が選んだフォトとなっている。
《ニューヨークのウォール街で屋外撮影された、女優・鰐淵晴子の大胆なヌード、「イッピー・ガール・イッピー」。広角レンズを用いた斬新なアングルと若く凛々しいモデルの肉体は、大きな反響を呼んだ。撮影、タッド若松》 (『日録20世紀』[1970 昭和45年]「美女倶楽部」より引用)
 鰐淵さんの、竹のように柔らかくしなやかな肉体美と対照的に、ウォール街のゴツゴツとした男性的な石壁のビルが印象的で、肉体の「白さ」と背景の「黒」との対比も素晴らしいと思った。黒々と硬いアスファルトに座している鰐淵さんの視線の鋭さは、彼女自身の若さの象徴と相まって、当時のアメリカの、女性解放運動の矛先をも感じさせる。それはすなわち、彼女の高い意識の表れでもあったのだろう。
 最近になってこの写真を思い出し、タッド・若松氏の古い写真集『イッピー・ガール・イッピー』(平凡社)を入手することができた。あの写真の他に一体どんなカットがあるのか、非常に興味があったのだ。
 ところが、あのカットの写真自体が、その古い写真集に収録されていなかった。私は驚いた。  確かに、ウォール街での屋外撮影のカットは、あ…