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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈八〉

前回はmas氏のライカと新宿の話。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」のシリーズは数えると今回で8回目である。これは私自身の、カメラと写真を軸とした“素行”を紐解く重要な鍵としての(「茶」の精神と絡めたりして)、過去に読み耽ったウェブサイトにまつわる“回想録抄記”となっている。  いま私は、自主制作映画というスタンスで、“ちっちゃな映画”(タイトルは『アヒルの狂想曲』)を本気で創り始めているのだけれど、その“ちっちゃな映画”的なものをかつて創ろうとしていたのが、サブカルで私淑するmas氏だったのだ。私は彼の影響を(ウェブとサブカルの側面で)多大に受けている。mas氏は90年代末頃、アメリカの写真家デュアン・マイケルズ(ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals)に感化され、自身のカメラで撮影した散歩写真を掻き集め、一つのフォト・ストーリー作品を創ろうとしていたのだった。タイトルは、「My Last Pictures」であった。
 いま、“ちっちゃな映画”を創り始めた矢先、私はmas氏のウェブサイトをあらためて思い出す。そこにはサブカルへの深い愛着があった。彼は2000年代初め、自身のホームページ上のアーティクルにその映画創りの話を持ち込んで、読み人であった私にある種の熱量を注ぎ込んだのである。カメラとレンズと、そのアクセサリーを満遍なく揃えること。たっぷりと落ち着いた風情で世界を見わたし、その風景に己の足で大きく踏み出すこと。人生の最大の《余興》であり得るのが、映画ではないかということ――。
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 とても残念なことに、「My Last Pictures」のフォト・ストーリーのテクストも、そのウェブサイト自体も、今は現存していない(ただし、テクストは私個人がアーカイヴしてある)。それでも今年、彼の別のサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)がWWWのサーバー上に残っているのを発見して、今のところそれは、誰でも見ることができるようになっている(いずれ消えてしまう可能性がある)。更新は10年以上前を最後に途絶えてしまっているが、mas氏がそこに残した、旅行記や家族を写した写真、花などのフォト・ギャラリーとなっており、2000年代に作成したウェブサイトの一端を垣間見ることができ…

ぐだぐだと、寺山修司と新宿風月堂の話

【福島菊次郎の写真集より60年代の新宿風月堂】
 新宿…シンジュク…Shinjuku――と、かの時代の新宿に思いを馳せてみる。1960年代から70年代にかけての新宿。その頃私はまだ生まれていなかったから、1980年代以前の新宿の空気を知らないし、あまり話にも聞かなかった。知らなかった頃の昭和の新宿が、たまらなく知りたくなる。当面はまず、机上の空想でその頃の新宿という街を読み解いていくしかない。

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 机の上に資料を並べた。グラスに琥珀色の酒を注ぎ、その薫香を味わいながら、新宿の、今よりももっと“図太かった”街の様子を、大雑把に想像してみる。地下階段から這い出た東口付近の通りの、歩く人々の交差とネオンの夜景。どこまでも世相が反映する人々の服装、化粧、身につける装飾品。そして今でこそ、大事そうに片手に抱えるケータイからSNSに夢中になる人々のうつろな眼差しというものは、あの頃には、まったくなかった。そのことは、逆に不可思議な想像と映るかも知れない。思う存分、そんな昔の新宿の街を、心にしみるまで想像してみた――。
 昭和の新宿への懐古的空想は、まるで古びて黒ずんだ幻燈機の放つ、妖しい光のように淡く切ない。ゆらめく光が幻影を作り出し、幻影と幻影とが交錯し、《記憶》の襞を刺戟する。
 新宿という街は、どこか人々の《記憶》を曖昧にしてしまう負の力がある。特有の後ろめたさが、心の裏側にこびりついて失うことがない。私がかつて、学生時代に街を歩いて目撃した新宿の所々には、60年代から70年代にかけての新宿の幻影なるものが、二重写しのようになって残存していたように思われる。この時既に、私が見た街の記憶は、事実と虚構の境界線をゆらゆらと行き来するような曖昧なものであった。

【混沌・雑然とした雰囲気の新宿】
 新宿は、闊達とした街である。時代の変化を感じさせない文化的スケールがある。どういうわけだか今、私は、新宿という街を愛してしまっている。繰り返し繰り返し、そのことを追想している。
 確かに中学生の頃は、新宿という街の猥雑さに憧れた。国籍を問わず多種多様な恰好をした大人達が、主体性もなく街をさまよっていることに憧れた。が、街への憧れと愛着はさほど長くは続かなかった。いま再び、新宿という街について思いを馳せてみると、やはり少年時代に見た新宿の、あの大人びた、どこか汚らわしくそれでいて少し寂びて枯れた心持ちの、なんとも言えないざわざわとした雰囲気が、たまらなく脳裏に甦ってくるのである。
 きっと、mas氏のせいなのだろう。あの街の猥雑さとラジカルな側面に心惹かれてとうとうと語っていたmas氏に洗脳されてしまったのに違いない。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈七〉」では、私淑するmas氏の新宿“ゴールデン街”の話に及んで、写真とカメラ、ジャズについて少々論じた。このサブカルの流れを与しなければならない。だから今、新宿という街に対して非常に濃い思いを馳せている。

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【新宿風月堂の店内。クラシック音楽が流れていた】
 言わずもがな、寺山修司の世界観に染まってしまった――。ここから抜け出せる自信がない。ならば、どっぷりと浸かるしかないようだ。こうして机の上に広げてしまった60年代から70年代にかけての新宿界隈に関する資料を読み漁っているうち、浅川マキと寺山修司の世界にぶち当たってしまったら、とことんそれに付き合うまでなのである。諦めて、映画を観ればいい。
 つい先日、寺山修司の1971年監督作品である映画『書を捨てよ町へ出よう』(人力飛行機プロ、日本アート・ギルド・シアター)のブルーレイ版を観た。原作は、彼の著書『書を捨てよ、町へ出よう』――。
 私が演劇活動にのめり込んでいた20代の頃、演劇を志す者として、〈シェイクスピアと寺山修司だけは避けて通れ〉というのが座右の銘だった。役者がシェイクスピアもしくは寺山修司の毒気にかぶれだしたら、たちまちその毒が体内を駆け巡り、解毒できなくなる。しかもその毒沼から抜けきれずに溺死するであろうことは明白だったのだ。言わば、シェイクスピア・ワールドの“シェイクスピア俳優”となり、寺山修司ワールドの“寺山修司俳優”になるという、ある種間の抜けた結末として、判で押したような同根の俳優人らが増殖されるのがオチであった。
 しかしながら歳を追うと、その毒気なるものを身体の方が欲してくるのであった。愚かな誘惑である。サソリの毒にでも噛まれてみたいとも思う。いや、寺山修司は47歳で亡くなったのだから、その享年の峠を越えようとしている私にとっては、毒は毒とならない。毒が体内に入り込んでも、あっけなく中和されてしまう気がするのだ。
 ならば、存分に毒沼に浸かるがよい。寺山修司ワールドの乗り物料金はすべてわしが全額負担いたしますよん、と、あの世の窓から寺山修司が顔をこちらに出して笑っているではないか。それは悪戯っ子のような低い声であったにせよ、悪意はまるで感じられないのである。

【文化人の善き住処でもあった風月堂】
 映画『書を捨てよ町へ出よう』と限りなく同名に近い原作『書を捨てよ、町へ出よう』とは、原作の映画化という関係にはなっていない。それぞれ別物ととらえていい。しかしながら原作も映画も、一貫した寺山修司の信念はど真ん中を通っている。すなわち「大きなタマを持て」ということである。原作ではノーマン・メイラーとアーサー・ミラーの言わば“タマ”の話が出てくるが、この意味を知りたければ、どちらか片方でも鑑賞すべきだ。“タマ”は大きい方がいい――。
 ちなみに、私が所有している角川文庫の『書を捨てよ、町へ出よう』の装幀は、緑色のベタ塗りの平成22年改版なのだけれど、この淡い緑色がまた、私が愛するアイルランドの《三位一体》を示す三つ葉のクローバーの色とも競合する。偶然の成り行きながら、気風が同調するかのようで、私の信念もそういう意味では、馬鹿の一つ覚えの風情として一貫している。

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【ヒッピーやフーテン族がたむろしていた風月堂】
 ともあれ、まだまだ寺山修司のパラレルワールドを無為に広げたくない。ここでは抑制し、映画の話は別稿に譲るとする。その彼がかつて好きで通いまくったという名曲喫茶(あるいはパーラーと称すべきか)「新宿風月堂」(しんじゅくふうげつどう)について書いてみたいのである。
 Wikipediaで「新宿風月堂」を調べてみた。
 風月堂は、1946年(昭和21年)に新宿区角筈(現三丁目、ビックロのあたり)に開業した、とある。ちょっとこの説明だけではぶっきらぼうに思われる。場所を丁寧に書くと、こうなる。JR新宿駅東口を出て、アルタのある新宿通りを東へと歩いていき、ビックロを越えた新宿三丁目西の路地を右に曲がる。そうして、喫茶らんぷるの向かいの新宿シアターモリエールのあたりが、かつての風月堂――。この界隈には昔、東映の任侠映画で人気を博した“新宿昭和館”という映画館があった(2002年に閉館)。今はK’s Cinemaとなっている。新宿の街のこまかい箇所はいつまた変わるかも知れないという不確定要素が絶えずあるから、人々の心の内の、あの店は今どうなっているのか? あそこにはどんな店があったか? といった街の世俗的な関心度は、決して薄まることがない。

【何故これほどまでに福島菊次郎は風月堂にこだわったのか】
 ともかく、風月堂は名曲喫茶だった。
 創業当時すなわち昭和21年の終戦直後は、音源自体が貴重だったクラシックのレコードをかけ、そのクラシック音楽を目当てに客足が伸び、評判を博したのだという。レコードの所有者、そしてまた絵画コレクターでもあった資産家横山五郎がオーナーの風月堂は、別の側面ではアート・ギャラリーであったらしい。Wikipediaには、盛況だった頃の風月堂に訪れた錚錚たる著名人が列挙されていたので、引用しておく。
《滝口修造、白石かずこ、天本英世、三枝成章、三國連太郎、ビートたけし、野坂昭如、五木寛之、岡本太郎、栗田勇、岸田今日子、長沢節、朝倉摂、谷川俊太郎、唐十郎、安藤忠雄、寺山修司、若松孝二、高田渡、蛭子能収》
(Wikipedia「風月堂(東京都新宿区)」より引用)

 文化人が多く訪れた風月堂の、在りし日を照射した写真は、なかなか見つけるのが困難である。反体制の社会派で知られた写真家福島菊次郎の写真集『戦後の若者たち Part II リブとふうてん』(三一書房・1981年初版)には、1960年代以降の風月堂の、若者達の賑やかな会話さえ聞こえてきそうな雰囲気、もうもうと燻らせる紫煙、つんとくるアルコールの臭い、まるで幻覚剤がそのあたりに転がっていそうなイメージの写真が多く掲載されており、そうした若者達の、あの時代特有の、体臭でむせかえる雑駁とした風月堂の店内の様子が、モノクロームの写真の中に押し込められていて秀逸である。写真集自体、今となっては入手が難しい稀本となってしまっている。いずれにせよ、当時の風月堂を知る貴重な資料である。

【風月堂で時間をつぶす若者達】
 写真集の小題の、「風月堂紳士録」を取り上げ、当時の店内の様子を見ていきたい。
 これを写した福島氏も、実は風月堂の常連客であった。当初はクラシック音楽で優雅なひとときを過ごせていたこの店も、《六五年頃になると風月堂の客すじは急に変った》という。異様なほど、騒々しくなったのである。福島氏は店内の客達の雑談のノイズから、耳に止まった横文字らしき言葉を抽出してメモを取った。
《ヌーベルバーグ、イッピーラジカル、ビートニック、コミューン、サイケデリック、アングラポップ、アンダーグラウンド。人名ではヘミングウェイ、サルトル、トインビー、ソルジェニツィン、高橋和巳、唐十郎、寺山修司》
(福島菊次郎『戦後の若者たち Part II リブとふうてん』より引用)

 ここでは“ビートニック”と記してあるが、私も50年代以降のビートニク(beatnik)の洗礼のなんたるかを知りたくて、近頃ウィリアム・バロウズの小説『裸のランチ』(The Naked Lunch)に手を伸ばした。ある種の心地良い凄まじさが感じられる。これをもし、今の若者が手に取って読んだとしたら、なかなか思いがけぬ感受に苛まれるのではないか。
 むしろこれを読むと、みんな“作家”稼業で飯が食いたくなる。腐っていく得体の知れない人生、すなわちそのカンヅメの中身は自分自身である。まったくもって自分自身の身体が腐り始めるのに絶えられなくなったならば、恐怖で家にこもって居られなくなるだろう。そして外に飛び出したくなる。外に飛び出し、作家になろうじゃないか(ここのところは寺山修司の“書を捨てよ、町へ出よう”とまったく同じ主旨)という逆説的心理。
 ビートニクの小説でむず痒くなった頭を落ち着かせるためには、悪友を連れて新宿の風月堂に駆け込むのがいちばん――と思った若者は多かったかも知れない。その行動性はまことに理に叶っている。健全である。ヒッピーやフーテンとなって猛烈に他人と会話をしたくなる時代だった、のである。

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【時代を象徴し、思索の場でもあった風月堂】
 風月堂は、1973年8月をもって閉店した。風月堂が背負わされた役割はこの時代に終わったのだった。戦後の復興期からビートニク、ヒッピー、フーテンといった文化に良くも悪くも煽られ、そのあらゆる功罪の重荷を背負わされて自家中毒となった。だから、風月堂の歴史はあっけなく短かったのだ。本来的に、人々の憩いの場である喫茶は、世俗の感覚の浮き沈みに諍うことができない。今、渋谷の街がその重荷を背負わされている感がなくもない。1970年代初頭、そうした世俗の潮流の、新古の切れ目が訪れたのだった。

 唐組の唐十郎(当時は状況劇場)も風月堂の常連客であった。
《もう毎日行ってました。客にはアレン・ギンズバーグの詩集なんか抱えたフーテン族の詩人が多くてね。あのころの新宿には映画関係者がたくさんいたので、その人たちに自分の顔を売ろうという目的もありました。劇作家の竹内健さんを介して麿赤兒に初めて会ったのも風月堂です。初期の状況劇場には、風月堂で集めたメンバーが多かった》
(都市出版『東京人』2005年7月号より引用)

【外国人が女性をくどく場でもあった風月堂】
 この雑誌の同号には、「『あの時代』とは何だったのか 大きな安定の中の小さな反乱。」と題した随筆で御厨貴氏が、1970年前後の時代論を述べていて、思わず納得させられた。
《七〇年前後に青春を送った団塊の世代と、それ以降の世代で決定的に違うのは、後の世代には共通の思想、経験というものがない。団塊の世代が経験した学生反乱が、世代という言葉が当て嵌まる最後の共有体験ではないだろうか。安田講堂の紛争が終わった時に、世代の共通体験はなくなったのです。団塊の世代が今でもわりと団結力があるのは、共通体験があるからで、それ以後の世代にはほとんどありません。安田講堂以降の三十年余は、そういう意味で切れ目がまったくない。その上に皆バーチャルになってしまった》
(都市出版『東京人』2005年7月号より引用)

 何か、言いようのない思いが込み上げてくる。新宿の街をあてどもなくさまよってみたい、とも思う。そこにはまだ、昭和の強烈な何かが、残っているかも知れないのである。

コメント

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

高校で学んだ「清光館哀史」

高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。  「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。  そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。
 子供を連れて汽車の旅を続けていた柳田が、子供に《今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ》と訊かれ、別に悪いわけではないけれども、九戸の小山内の清光館は小さくて黒かったね――と答えるこの随筆の最初の文章が印象的で、教科書には、“当時の小山内周辺”という岩手県九戸郡の地図まで付記されており、神妙な親子の汽車の旅の小景が目に浮かぶようである。しかも紀行への敬慕の度合いが日増しに――少なくとも今、28年という重みで――自己の内心に跳ね返りながら増幅してくる不思議な随筆である。「清光館哀史」をあらためて読み返す意義は、確かにあったのだ。この心持ちの正体は、いったい何であろうか。
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 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。
 平成2年(1990年)、そのうちの春であったか夏であったか、あるいは秋であったかは思い出せないが、工業高校の3年生だった私は、国…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
 「藤野先生の『頓挫のある口調』について」。  三宝氏は『藤野先生』(魯迅『朝花夕拾』所収)で、魯迅が綴った先生の“口調”にまつわる表現――頓挫のある口調――の翻訳について鋭く言及している。頓挫のある口調とは、いかなる口調であるのかと。  さて、と思い、私は高校時代の筑摩書房の国語教科書を開いた。残念ながらその教科書には魯迅の『藤野先生』は収録されていなかった。書棚を探して皮肉にもそれを見つけたのは、同じ筑摩の『筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫)である。ここに収録されていた『藤野先生』は竹内好訳で、『世界文学大系』第62巻(筑摩書房)に拠っている。私はこの竹内氏の訳版によって、三宝氏が言及する部分を見つけることができた。
 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。  『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。  読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。  私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じで…

We Are The World―伝説のレコーディング

私がレコーディングというものに真剣に興味を持ったのは、中学生の時だ。その頃、USA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」のビデオを観た。今思えば不思議な巡り合わせである。極端な話、このビデオを観ていなかったならば、音楽などやっていなかったかも知れない。
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 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ…