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五味彬の『Yellows MEN Tokyo 1995』

写真家・五味彬氏の90年代の集大成であるヌード写真集=“YELLOWS”シリーズを何度か過去に取り上げてきた当ブログにおいて、その“YELLOWS”のなんたるかを断続的に振り返っていこうという試みが、2016年9月の「写真集『nude of J.』」を境にぱったりと途絶えてしまっていたことを深く反省する。もっとこれに食い付いて継続的に追い込むべきであった。  当ブログにおける始まりは、2012年8月の「YELLOWSという裸体」である。今回取り上げるのは、そのシリーズのうちの一つ『Yellows MEN Tokyo 1995』(風雅書房)で、これは、男性モデル26人の全裸を真っ向からとらえたメイル・ヌード写真集である。  実を言うとこの本については、個人的に2017年の春頃に取り上げるつもりで用意していた。実際、本をスチル撮りしたこれらの画像は、その頃撮られたものだ。ところが、まったく別の事由が重なってしまい、取り上げることを忘れて、この本のこともすっかり失念してしまっていた。尚、“YELLOWS”シリーズに関する考察も不完全なままであった。なので、ようやく今、再び狼煙を上げる。90年代に大流行したあの“YELLOWS”シリーズの気炎を。こうして今、邂逅の機会を得た次第である。  本は、私の手元にある。手に取ったのは、およそ3年ぶりである。これを最初に見開いたのは、もう20年近く前のことだ。あらためてこの本を開いてみると、とても懐かしい気がする。私にとっては、少し大袈裟になるが、90年代のlegacyである。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズの中で、最も入手が難しい稀少本と称されている『Yellows MEN Tokyo 1995』について、私なりの意趣で紐解いていきたい。
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 1995年に出版された五味氏のヌード写真集『Yellows MEN Tokyo 1995』のシューティング・データをつまみ取る。撮影スタジオは都内のバナナプランテーション(現・権之助坂スタジオ)。撮影日は1994年3月23日~25日。カメラはMamiya 645。  Mamiya 645は中判の一眼レフカメラで、おそらく使用したフィルムは、コダック(日本ではブローニーフィルムと呼んでいたりする)かと思われる。他の“YELLOWS”シリーズでは、当時最先端だったデジカメ(Kodak …

さようならヨーカドー

【イトーヨーカドーのゲームコーナーのモグラ叩き】
 かなり思い出の詰まった“ローカル”な話――。去る2月17日、わが地元の市民に長年愛されてきた総合スーパー「イトーヨーカドー古河店」(茨城県古河市雷電町)が惜しまれて閉店。知り合いに聞けば、閉店日当日は駐車場がほぼすべて満車。多くの人が詰めかけて大盛況であったという。
 実は昨年中の早い時期に、“古河のイトーヨーカドーが来年、閉店になる”という話を知人から聞いていた。閉店という言葉にある種の驚きはあったものの、ああ、いよいよヨーカドーもそうなるのかという深い溜息に近い気持ちであった。以前より、実際に店内で買い物をしていてもなんとなく客足が薄まっているように感じられたし、どこか活気に乏しいところがあった。しかも市内にはいくつかの大型スーパーがあって、そちらに客を取られている感は否めなかった。〈ここにきて閉店はやむを得ない〉という消沈。
 そうして今年の1月、茨城新聞の9日付の記事の見出しで「ヨーカドー古河店閉店へ 2月17日、売り上げ低迷」と出る。
《JR古河駅近くの中核的な商業施設として長年親しまれてきたが、近年の売り上げ低迷などを理由に撤退が決まった。同ホールディングスの担当者は「お客さまのニーズの変化に対応できなくなってしまった」と説明した》
(2019年1月9日付茨城新聞より引用)

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【パチンコに夢中になる幼少の私】
 あれよあれよと日々の生活の忙しさにかまけて、気づけば明日が閉店日なのだと気づいた時はもう遅かった。個人的に店舗を訪れる機会を完全に喪ってしまったのだった。今年はせめて一度だけ最後に訪れようと思っていたにもかかわらず。もう一度あそこで、あの店であれを買おう。その念願を果たせないまま、閉店の日が過ぎてしまった。クローズである。やるせない無念さが込み上げてくる――。

 地元に「イトーヨーカドー古河店」ができたのは、42年前の1976年(昭和51年)5月である。私はまだ4歳だった。
 あの頃、売り場面積の広い大型の総合スーパーなんていうものは他になくて、ヨーカドーのオープン直後、日曜日になるとそこへ家族5人で買い物に出掛けるのが、お決まりの休日イベントであった。買い物をした後に店内のレストラン街で昼食をゆっくりと楽しむ。私はもちろん、泣く子も黙る王道のお子様ランチ。ぽっくりとお山になったチャーハンの頂に日本の国旗。ピーピー鳴る笛が付いていて、黒っぽいカラメルのソースがたっぷりとかかったプディングには真っ白な生クリームがひと玉。これは一番最後に食べる。まるで天下を取ったような気分になったね。うんうん。それがヨーカドーでの我が家の過ごし方であった。

 その年の冬、あるいは翌年になってからのまだ寒い頃。どういうわけか父がフィルム・カメラ(オリンパスのTRIP 35)を持参して、ヨーカドー内で遊ぶ我々家族をスナップ撮影したことがあった。室内でよく露出がもったもんだ。あんまりブレてない。その時のカラー写真が、古いアルバムの中に残っていたのである。

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【昭和51年か52年。ヨーカドーの屋上駐車場にて】
 ここに、それらの写真を再現してみた――。
 今回、当時のプリントをアルバムから剥がして個別にデジタル・スキャンしようと思ったのだけれど、もう42年か43年も前の古いアルバムであるため、写真がシートにしっかり粘着してしまっていて剥がすことができなかった。したがってアルバムに貼られたそのままの状態でデジタル・カメラを使って撮影した。個々のプリントの赤みを帯びて劣化していた色彩は、デジタル処理によって適当なカラー補正をおこない、撮影した当時の本来の色調を画像上に復原してみた。
 ヨーカドーの屋上駐車場にて撮影された写真を見る。被写体となっているのは、まだ幼い4歳の私。それから、鼠色の毛皮を着た母と黒いコート姿の姉の3人(撮影者は父)。屋上の様子はなんとも古臭いというか、殺風景。どれもこれも車の車体が古いせいもあり、完璧なくらいに昭和らしさを醸し出している。まさにこれが、ありのままのショウワのフォトグラフ。
 軒並み、日曜日ともなると駐車場は日中ほとんど満車となって、屋上に上がって空いたスペースを探すのに父はいつも苦労していた。それくらい当時のヨーカドーは大盛況だったということ。しかしそれにしても、ヨーカドーのこんな殺風景な駐車場で寒いのに記念写真撮るっていうのは、どういう心持ちだったのか。よほど特別な興奮があったのか。出来たばかりの総合スーパーが、ほとんど遊園地と変わりない娯楽施設であったことを窺わせる確たる証拠写真である。

【騒々しかったゲームコーナー】
 他の写真はすべて、2階にあったゲーム・コーナーで撮られたショット。子どもと大人が異常なほどひしめきあい、ルーズにそれぞれのゲームに夢中になっている様子。写真では伝わらないけれど、現場は相当、うるさかったね。

 幼い私が好きだったゲームは、モグラ叩きとピンボール。モグラ叩きは腹が立って飛び出るモグラを横殴りしていたっけ。モグラがぶっ壊れる上から叩けおいおい。ピンボールはスタートレックとかSFチックなビジュアルの騒々しい機械だった。白人美女がボインのビジュアルもあったような。鉄球を打ち出すと速度を上げてあちこちにぶち当たり、高々とサウンドを響かせてスコアが上がっていく。ピンボールは何台も横並びになっていたため、ともかく隣同士でやかましかった。大人が夢中になってやりまくるマシン。
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【ピンボールに群がる大人達】
 思い出話は尽きない。
 1階の食品売り場に連なるレストラン街では、“ポッポ”というショップのソフトクリームだとかお好み焼きを持ち帰って食べたのが本当に美味かった。屋上の車に戻ってソフトクリームを食べ始めたら溶け出して、車を汚した思い出とか、焼きたてのチーズパンが香ばしくて大好きだったこととか、書店で本を立ち読みしたり、2階のレコード店でえらく長い時間をかけてレコード盤を探し続けたりとか、そういう光景は忘れないね。今となってはレアもののボードゲーム「シークレットポリス」(バンダイ)を小学生の時にたった千円で買ったのもヨーカドー。
 90年代(20代の頃)になって欲しいCDを収集するのによく行ったのもヨーカドー内のCDショップ。ノートなどの文房具を買うのもヨーカドーだった。そういえば夏になると、ヨーカドーの2階はなんとなく夏休み気分の海っぽいレジャーの雰囲気が漂って、夏ヴァージョンに模様替えされた開放的なマリンブルーの透明感に染まっていたのを思い出す。屋外の別棟にマクドナルドが出来た時など、みんな興奮してたね。レストラン街に連なったマックの前で青少年がごろごろとたむろしていたっけ。首には金のネックレス、腕にはでかいロレックス風の時計。煙草を吹かしていたから青少年じゃなかったか。まあ、それも忘れられない光景。

 たまに買う靴下や下着を選んで買うのもヨーカドーだったね。でもそのうち、ユニクロのショップが市内にオープンしてしまって、もっと近所に総合スーパーが出来てからは、めっきりヨーカドーに足を運ばなくなっちゃった。この20年、ヨーカドーを訪れた回数は数えるほどだったと思う。
 おっと、書き忘れるところだった。中学生の頃、多感な思春期だったので、好きな女の子との相性が気になりだし、コンピューターの星占いマシンに夢中になったこともあった。レシートみたいな紙がひょろひょろプリントアウトして出てくる宇宙っぽい占いマシン。金運、恋愛運、そんなのに一喜一憂して、わざわざそれをやるためにヨーカドーにやって来て汗を掻き、友達に見つからないようにこっそり帰ったりとかね。これぞ、青春。アオハル。

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【随分とマニアックなゲームに勤しむ私】
 思い出は消えて無くならない。あの大きな店舗が別の何かに変わってしまうのが、少々寂しいし、切ない。いや、猛烈に切ないのである。だからといってどうすることもできない、いわゆる時代の変容というものに、浅くも深くもノスタルジーを通り越して、感傷的になる。なんてことだい。
 あの頃ゲームコーナーにうじゃうじゃ居たジャラジャラ財布を抱えたあの人たちは、いったいどこへ行っちまったんだ? ガンダムのメダルゲームで黄昏れていた僕。うん、そうだ、音声が“ガ・ン・ダ・ム~”ってどう聴いてもLSIだったよね。声が男だか女だか分からないんだ。あのゲームで昇天したよね。確かに。うんうん。
 そんな馬鹿げたことを今更ながら想像するのだけれど、やっぱり、時代というのは二度と戻ってこないのである。幼少の頃のヨーカドー、小学生の頃のヨーカドー、中学生の頃の切なくてどうしようもないヨーカドー。それぞれの面影が、ちらちらと現れる。自分にとって詩的な場所だった、あそこは――。

【いつまで遊んでいるんだ、おい】
 こんな気持ちになるとは、思わなかった。冷静ではいられない。馬鹿みたいなくらいに。思い出の詰まったお店が消えるというのは、こんなに切ないことか。誰にも伝わらなくてもかまいやしない。思い出なんてそんなものなのだ。他人にとっては笑い話。
 さようなら、ヨーカドー。わが愛しのヨーカドーって言いたいね。いや、それは本当は、大の大人がちょっと口に出せない恥ずかしい文句だけれど、心の中でそう呟くしかない。40年以上もの長い間だよ。40年だよ。すごいことだね。本当にどうもありがとう。ありがとう。もう一度言いたい、ありがとう。そしてさようなら。

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高校で学んだ「清光館哀史」

高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。  「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。  そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。
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 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。
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魯迅の『藤野先生』

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

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 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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中野重治の「歌」

高校3年時の国語教科書を開く。筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』。この教科書については、当ブログ「教科書のこと」でも触れており、先日はこの教科書で知った評論家・唐木順三についても書いた。誰しも文学的出発点(文学に目覚めたという意味の)という経験譚はあるようだが、私にとっては、1990年に学んだこの筑摩の、高校国語教科書がどうやらその出発点と言い切っていいのではないかと思われる。  以前もこの教科書から、高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」について掘り下げたことがあるが、この教科書の「現代詩」の章題ページには、高村光太郎の彫刻作品である「腕」のモノクロ写真が掲載されていて、それが異様に迫るものがあり、光沢して白く見える指先から心に突き刺さるものを感じてはいた。ここで括られた「現代詩」は萩原朔太郎の「竹」「中学の校庭」で始まり、高村の「ぼろぼろな駝鳥」、そして中野重治の「歌」、金子光晴の「富士」、山本太郎の「生まれた子に」で閉じられる。どれもこれも、生命をもったことば達の狂った叫び声がきこえてくるかのようで、ひ弱な高校3年生であった私にとっては、鋭く、痛く、他の小説や随筆のように容易に読み砕くことができなかったのである。
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 その中で最も身体に堪えたのが、中野重治の「歌」であった。第一の《おまえは歌うな》のことばの滑り出しは、あまりにも衝撃過ぎた。  これはこの筑摩の国語教科書全体にも言えることだけれど、すべてがことばとして痛いのである。心がひりひりと痛くなるような作品を敢えて撰修し、ずけずけと入り込んで高校生の悠長な精神を揺さぶりかけるような仕掛けが、あちこちにひしめいていた。そんな痛い筑摩の国語教科書の中で、「現代詩」における中野重治の詩は、あまりにも痛かった。以下、部分的に引用する。
《おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな》 《風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな》 とことばをたたみ掛けたうえで、 《すべての風情を擯斥せよ》  と一徹に恫喝し、 《胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え》  だとか、 《喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ》 《それらの歌々を 行く行く人びとの胸郭にたたきこめ》 (筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』に準じて引用)
 と、盛んに煽動されておしまいまでを読むのに、あるいはそれを声に出して読むのに、どれほどの勇気がいったことか…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…