投稿

3月, 2019の投稿を表示しています

☞最新の投稿

早熟だったブルージン・ピエロ

イメージ
35年前の、私の中学生時代の回想――演劇部の部長に仄かな恋心を抱き、さだまさしの「軽井沢ホテル」を聴きながら、夢うつつの日々を送っていた――ことは以前書いた(「さだまさしの『軽井沢ホテル』」参照)。小学4年生の時、既に《失恋》という暗澹たる想念の災いを子供ながらに経験して、それから3年が過ぎようとしていた中学1年の夏の、演劇部での仄かな恋心というのは、総じて早熟な恋模様の、いわゆる中学生らしからぬ――あるいはまさにこれこそが悶々とした思春期の中学生らしさか――《破廉恥な領域》の行き来を意味していたのである。  演劇部の部長(3年生)が意外なほど、大人びて色気づいていたせいもあった。「軽井沢ホテル」とはまた別のかたちで、曲の中の主人公に自分を見立て、夢の中を彷徨っていた月日――それが稲垣潤一の歌う「ブルージン・ピエロ」であった。
§
 1985年の夏。その頃の私の嗜好の営みは、深まりつつある夜の時間帯の、ラジオを聴くことであった。ラジオを聴き、初めて稲垣潤一の粘っこい、粘着質のある歌声を発見して、心が揺さぶられたのである。レコード・ショップに駆け込んで7インチのシングルを買うという行動に移ったのは、「軽井沢ホテル」とまったく同様だ。ただし、濃厚だったのは彼の声質だけではなかった。この「ブルージン・ピエロ」の独特のメロディと歌詞の、その大人の恋の沙汰の印象が、あまりにも何か、まるで暗がりの中の不明瞭な色彩を示唆しているかのようで、言わば《破廉恥な領域》の気分を刺戟したのである。五分刈りの頭部が一人の少年の羞恥心の、そのすべてを記号化していた中学1年生の自己の内面では、それがまだ充分には咀嚼できずに、消化不良を起こしていたのだった。そうして次第に、自身の恋沙汰の象徴からこの曲は除外されていった。 《下手なジョークで 君の気をひこうと 必死な ブルージン・ピエロ 下手なダンスで 君を離さないと ささやく ブルージン・ピエロ 君の気持ちはもう 決っていたのに 僕だけ 知らない》 《あの時 君は大人で そして優しくて バカだな 僕はそのまま 愛を信じてた 今でも 今でも 僕は ブルージン・ピエロ》 (稲垣潤一「ブルージン・ピエロ」より引用)
 歌詞にしても、また全体の曲の雰囲気からしても、「ブルージン・ピエロ」の熱気と予感めいた破局というものは、中学生の心にはあまりにも理不尽に早すぎた。イントロはエロテ…

寺山修司―三分三十秒の賭博とアスファルト・ジャングル

イメージ
今年に入って、寺山修司の文筆と映像の世界にどっぷりと浸かり始めた。この世界の、至る所から漂う臭気とは、いったい何か――。それは決して花の香りでも、柑橘系の香りでも、ない。乾いた土に雨が降り始めた時のあの匂い。授業参観が終わった後の、教室にしつこく残った母親達の安っぽい化粧品の匂い。あるいは鉄サビに指をこすりつけてしまった時の憤怒の匂い…。いや、そういうのではない。いずれも当て嵌まらない特殊な何かの匂いが、この世界から漂ってくるのは、確かなのである。  彼の著書『書を捨てよ、町へ出よう』(角川文庫)を読んだのだった。貪り読んだと言っていい。当ブログ「ぐだぐだと、寺山修司と新宿風月堂の話」で触れたように、私が所有している角川文庫のそれの、平成22年改版の本の装幀は、淡い緑色をしていてまったく目に付きやすい。そしてこの装幀カバーの裏面には、こう書かれている。 《平均化された人生を諦めとともに生き、骨の髄まで慣習の虜となってしまう前に、まずはすぐさま荷物をまとめ家を出よ、実行あるのみ――。人生に逃げ場はない。覚悟を決め、想像力を働かせよ。眠っている血はいつか、目をさます。家出の方法、ハイティーン詩集、競馬、ヤクザになる方法、自殺学入門。時代とともに駆け抜けた天才アジテーターによる、日常からの「冒険」のすすめをまとめた、クールな挑発の書!》 (角川文庫『書を捨てよ、町へ出よう』装幀より引用)
 この本は、光を失った《影》の空間において、たちまち黒みを帯びた濃い緑色に変貌する。緑色の特性というのは不思議なもので、明るい緑色は純真無垢な《少年性》をふるった明朗なる象徴となり、暗く深めの緑色は落ち着きを払った大人達の、“重い沈痛のうろたえ”を微かに含んだ《静寂》の象徴となって視覚にうったえる。アイルランドの三つ葉のクローバーには、“重い沈痛のうろたえ”が背後に潜んでいることを忘れてはならない。  むしろこうした緑色の変幻は、寺山修司という人の人格の、あるいは作家としての品格と言い換えてもいい、その両端の根源を表しているかのようでもあり、これ自体が寺山の象徴のアイテムとなっている。まことに優れた装幀である。私はこの本を手に取るのがやや恐ろしく感じる。寺山の世界とは、心地良い視覚的色彩のハレーションでありながら、単純には《猛毒》の根源であって、なおかつ蛾や蝶の「鱗粉」に触れた時のよ…

WHITNEY―卒業式の日のハーレー

イメージ
高校時代の卒業式の日の話――。それはもう28年も前の話であって、何ら他者から共感を得られるとはこれっぽっちも思っていないけれど、今、どういうわけだか、そのつまらない話を書いてみたくなったのである。本当にありきたりな、どうでもいい話なのだけれど――。

§
 私の母校は茨城県内の工業高校である。ありがちではあるが、女子生徒は極端に少ない。私のクラスには一人もいなかった。その手の逆説的な思い出話はこれ以上、ここでは書かないことにしたい。  母校のホームページを閲覧してみると、3月の行事予定のテクストに、《3/1 卒業式》と記されてあった。これがまた随分飾り気のないシンプルな行事予定のページであった。この高校の卒業式は、案外早いのだ。机の引き出しを開き、高校時代に付けていた日記帳を開いて確認したところ、やはりと言うべきかどうか、その日は「1991年3月2日土曜日」となっていた。
 あの日の記憶は比較的鮮明で、雨は降っておらず、多少風が冷たかった。晴れだったか曇りだったかのどちらか。なんとなく畏まった気持ちで校内の駐輪場に自転車を置き、普段は気にも留めない制服の乱れを正した後、校舎の玄関口に向かうと、そこに電気科の30代そこそこのK先生が神妙な面持ちで立っていて、卒業生ら生徒達を迎え入れてくれていた。心細い感じの弱い音声で私は、「おはようございます」と挨拶をした。K先生は軽く頷いてそれだけだった。この単純な所作のうちに、〈この日がここへ向かう最後の日なのだ…。K先生ともこれでお別れだ…〉という思いが高校生らしく熱く込み上げてきた。
 教室に入ってからの情景は、日記にこうある。
《教室に入ると、やはりいつもと変わりないように思えるけども、それでもどこか違うような空気が少しばかりあったと感じました》――何かそわそわした雰囲気。幾分、何気ない会話が詰まり、わざと明るく取り繕ったりするようなこともあって、式典の前のこの教室の中は、一人一人寂しさを隠してそれを他人に悟られない、言わば気取った空気があったのかも知れなかった。私が書き残した日記の言葉の羅列はあまりにも幼く、いま読んでもどきりとして戸惑ってしまうのだが、それらの言葉は何らひねくれていないし、素直なのである。
 体育館にておこなわれた卒業式典は、それなりに粛々とした厳かな雰囲気のある、静かなものであった。特に印象に残ってい…