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家庭の医学―新赤本のこと

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昭和50年代初め、私がまだ幼少だった頃、団地住まい(当ブログ「ボクの団地生活」参照)の部屋の片隅で、真っ赤に染まった分厚い本を開いて眺めるのが、私は好きであった。それは、『保健同人 家庭の医学』(保健同人社)という本である。これを通称、“新赤本”と呼ぶ。ネットで情報を共有するのが当たり前になった21世紀の今日においても、各家庭に一冊、この手の医学書が書棚に据え置かれている世帯は、決して少なくないのではないか。  ――昭和50年代初めというと、たいへん古い話で恐縮である。その頃、女性アイドルグループのキャンディーズ(伊藤蘭、藤村美樹、田中好子)の全盛期であり、テレビなど各メディアで大人気・大賑わいだった彼らが、突然解散発表をするのが昭和52年の夏。翌年の春に東京の後楽園球場にて、いわゆる伝説の“ファイナル・コンサート”をおこない、お別れするのだが、まさにその頃、キャンディーズを映していたブラウン管の隣に、我が家ではどういうわけか、分厚く重たい百科辞典が数種、書棚に鎮座していたのだ(当ブログ「新しい造形と美術」参照)。それらに連ねて“新赤本”がそこに、置いてあったわけである。
 もちろん、幼少だったから、字が読めるわけではなかった。“新赤本”を開くと、あらゆるところに図表やイラストがあり、モノクロの写真が掲載されていた。私は主に、視覚に飛び込んでくるそれらを眺めて楽しんでいたのだった。写真などは特に、医学書の特性として省くことのできない、少々グロテスクな被写体が刺戟的だったりするのだけれど、それ以外にも、書籍としての体裁の部分において、例えばレイアウトの軽妙さであったり、色彩の調子がちょっと心理的に心地良かったり、そういう部分でも視覚に飛び込んでくるディテールの情報として、大いに楽しんでいた――ということになる。  こうした体験が結局、幼少期の感覚的な体験の記憶となって、大人になっても忘れられずに残っていて、ごく最近、それが懐かしくなってこの本を古書店から買い求めてしまい、再びあの体験を復号する喜びを味わえたのだった。いったい“新赤本”=『保健同人 家庭の医学』とは、どのような本だったのか、紐解いてみたい。
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 1954年(昭和29年)に日本で初めて“人間ドック”という検診システムが開発され、その後徐々に、この画期的な新しい検診システムが一般に浸透していった功績が、最も有名…

寺山修司―三分三十秒の賭博とアスファルト・ジャングル

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今年に入って、寺山修司の文筆と映像の世界にどっぷりと浸かり始めた。この世界の、至る所から漂う臭気とは、いったい何か――。それは決して花の香りでも、柑橘系の香りでも、ない。乾いた土に雨が降り始めた時のあの匂い。授業参観が終わった後の、教室にしつこく残った母親達の安っぽい化粧品の匂い。あるいは鉄サビに指をこすりつけてしまった時の憤怒の匂い…。いや、そういうのではない。いずれも当て嵌まらない特殊な何かの匂いが、この世界から漂ってくるのは、確かなのである。  彼の著書『書を捨てよ、町へ出よう』(角川文庫)を読んだのだった。貪り読んだと言っていい。当ブログ「ぐだぐだと、寺山修司と新宿風月堂の話」で触れたように、私が所有している角川文庫のそれの、平成22年改版の本の装幀は、淡い緑色をしていてまったく目に付きやすい。そしてこの装幀カバーの裏面には、こう書かれている。 《平均化された人生を諦めとともに生き、骨の髄まで慣習の虜となってしまう前に、まずはすぐさま荷物をまとめ家を出よ、実行あるのみ――。人生に逃げ場はない。覚悟を決め、想像力を働かせよ。眠っている血はいつか、目をさます。家出の方法、ハイティーン詩集、競馬、ヤクザになる方法、自殺学入門。時代とともに駆け抜けた天才アジテーターによる、日常からの「冒険」のすすめをまとめた、クールな挑発の書!》 (角川文庫『書を捨てよ、町へ出よう』装幀より引用)
 この本は、光を失った《影》の空間において、たちまち黒みを帯びた濃い緑色に変貌する。緑色の特性というのは不思議なもので、明るい緑色は純真無垢な《少年性》をふるった明朗なる象徴となり、暗く深めの緑色は落ち着きを払った大人達の、“重い沈痛のうろたえ”を微かに含んだ《静寂》の象徴となって視覚にうったえる。アイルランドの三つ葉のクローバーには、“重い沈痛のうろたえ”が背後に潜んでいることを忘れてはならない。  むしろこうした緑色の変幻は、寺山修司という人の人格の、あるいは作家としての品格と言い換えてもいい、その両端の根源を表しているかのようでもあり、これ自体が寺山の象徴のアイテムとなっている。まことに優れた装幀である。私はこの本を手に取るのがやや恐ろしく感じる。寺山の世界とは、心地良い視覚的色彩のハレーションでありながら、単純には《猛毒》の根源であって、なおかつ蛾や蝶の「鱗粉」に触れた時のよ…

WHITNEY―卒業式の日のハーレー

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高校時代の卒業式の日の話――。それはもう28年も前の話であって、何ら他者から共感を得られるとはこれっぽっちも思っていないけれど、今、どういうわけだか、そのつまらない話を書いてみたくなったのである。本当にありきたりな、どうでもいい話なのだけれど――。

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 私の母校は茨城県内の工業高校である。ありがちではあるが、女子生徒は極端に少ない。私のクラスには一人もいなかった。その手の逆説的な思い出話はこれ以上、ここでは書かないことにしたい。  母校のホームページを閲覧してみると、3月の行事予定のテクストに、《3/1 卒業式》と記されてあった。これがまた随分飾り気のないシンプルな行事予定のページであった。この高校の卒業式は、案外早いのだ。机の引き出しを開き、高校時代に付けていた日記帳を開いて確認したところ、やはりと言うべきかどうか、その日は「1991年3月2日土曜日」となっていた。
 あの日の記憶は比較的鮮明で、雨は降っておらず、多少風が冷たかった。晴れだったか曇りだったかのどちらか。なんとなく畏まった気持ちで校内の駐輪場に自転車を置き、普段は気にも留めない制服の乱れを正した後、校舎の玄関口に向かうと、そこに電気科の30代そこそこのK先生が神妙な面持ちで立っていて、卒業生ら生徒達を迎え入れてくれていた。心細い感じの弱い音声で私は、「おはようございます」と挨拶をした。K先生は軽く頷いてそれだけだった。この単純な所作のうちに、〈この日がここへ向かう最後の日なのだ…。K先生ともこれでお別れだ…〉という思いが高校生らしく熱く込み上げてきた。
 教室に入ってからの情景は、日記にこうある。
《教室に入ると、やはりいつもと変わりないように思えるけども、それでもどこか違うような空気が少しばかりあったと感じました》――何かそわそわした雰囲気。幾分、何気ない会話が詰まり、わざと明るく取り繕ったりするようなこともあって、式典の前のこの教室の中は、一人一人寂しさを隠してそれを他人に悟られない、言わば気取った空気があったのかも知れなかった。私が書き残した日記の言葉の羅列はあまりにも幼く、いま読んでもどきりとして戸惑ってしまうのだが、それらの言葉は何らひねくれていないし、素直なのである。
 体育館にておこなわれた卒業式典は、それなりに粛々とした厳かな雰囲気のある、静かなものであった。特に印象に残ってい…