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4月, 2019の投稿を表示しています

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消えゆく写真

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【FUJIFILM X-T3で試し撮り。被写体はLEICA IIIc】  元日の午後、手持ちのカメラ(FUJIFILM X-T3、レンズはFUJINON XF18-55mm F2.8-4.0 R LM OIS)でアンティークと化したLEICA IIIc(レンズはCanon SERENAR 50mm F1.9)を被写体に試し撮りをおこなった。ここ数日間続いた日本海側の寒波の煽りで、関東地方は異常なほど冷え込み、ただただ日光が神々しく、温かく、優しさをも醸し出しているかのようで、直接光と間接光に包まれたアンティークの被写体は何か、その機械的な佇まいの中に、微睡んでいるようにも見えた。  しかし一方で、いずれ消えゆくかも知れないアンティークの宿命の儚さもまた、写真という風雅の物悲しさを表している。《所有》とは、実に悲しげな行為なのである。ともあれ、個人的なクラシック・カメラの思い出は尽きることがない。私の記憶は、およそ20年前のウェブへといざなわれる――。 ➤写真とカメラを教示したmas氏  20年前のインターネットがきわめて遠い事象となりつつある、コロナ禍を経た時代の流れ。世相流行の移ろいはともかく、社会生活全般の隔世を感じるのは、私だけであろうか。今こうしてブログに文章を書いていることも、自身のウェブサイトをいくつか構築し、音楽や映像や写真などのポートフォリオを細々と展開しているのも、およそ20年前より私淑していた、mas氏のウェブサイトをお手本にしたものなのである。インターネットとのかかわり方、その作法や流儀について、詫び寂の何たるかまでも教示されたように思える。  20年前、彼に倣ってクラシック・カメラ遍歴(別の鋭い言い方では「クラシック・カメラ・ウイルス」とも言う)にどっぷりと浸かり、写真とカメラによる悦楽の日々を送っていたあの頃が、ひどく懐かしい。  mas氏に関しては、昨年の 「思い出のmas氏―池袋のお馬さん」 やそれ以前に多くテクストを書き連ねているので、ここでは詳しく書かない。  今はネット上に現存していない、彼の旧ウェブサイト[mas camera classica]では、洒脱な文章でカメラや写真についてとくと語られていて、その内容に私も感心したのだった。一部をコピーしてテクストファイルとして記録していたのもとうに忘れ、それをPCのハードディスク内か

『洋酒天国』と世界の酒盛り

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【『洋酒天国』第6号】  最近、“モフモフ”という擬態語=オノマトペが流行っているようだ。某テレビ番組のタイトルにも使われたりしていた。一昔前ならフカフカと言ったもの、あるいはモコモコと言ったものをもっと可愛らしく表現したのが、“モフモフ”ということらしい。それで、あくまでこれは個人的な意見であるが、先月から(いや、もっと以前から…)私が断続的に飲んでいるアイルランドの黒スタウトのビール=ギネス(Guinness)の舌触りというのは、これまでフカフカでもモコモコでも言語表現しきれなかったのに、今まさに“モフモフ”というオノマトペに出合ったとなれば、このビールに対してこの表現が一番相応しいではないか、声を出して言いたいのである。〈モフモフ! ギネス! モフモフ! ギネス!〉。世界中で流行って欲しいのでございます。  ということでお酒の話題から、ヨーテンの話題へ推移しようと狡猾に策略したのだけれど、今回はそのアイリッシュではなく、おフランスなのである。フランスと言えばワイン、日本語で古風に言うと葡萄酒――。ワインは普段、私はあまり飲む機会をこしらえていなかった。ただし今、南仏「レゾルム ド カンブラス」のカベルネ・ソーヴィニヨンを美味しくいただいている。まあ、この話題はまた後にしよう。何はともあれヨーテンへ、いざ、出発進行――。 §  壽屋PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第6号は、昭和31年9月発行。表紙はお馴染み、坂根進氏のペーパークラフト。冊子の扉を開くと、柳原良平氏のちょっと官能的なイラストがあって、 《水は外に 酒は内に 女は床に!…》 と古代ローマ、ペトロニウスの「トリマルキオの饗宴」の箴言の引用テクスト(原文を読んでいないから詳しくは不明)。「トリマルキオの饗宴」は青柳正規氏の解説でいい本が出ているようだ。関心があるので、後でそれを買って読もうと思っている次第である。  昭和31年の世俗を一つ挙げてみる。千葉の公団稲毛住宅初入居、というのが当時のニュースになったらしい。入居者は、“関東団地族”と称されてはしゃいだらしいとか。団地(正式名は日本住宅公団地)という俗称は、昨今あまり世間で飛び交わなくなってきたが、私も幼少の頃、“団地族”の一員であった(当ブログ 「ボクの団地生活」 参照)。  昭和の団地暮らしという

映画『幻魔大戦』―愛と新宿とポカリのパースペクティヴ

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【映画『幻魔大戦』のDVD】  17歳の高校生の主人公・東丈(あずまじょう)が、新宿の街の場末でポカリスエットの缶を蹴る――。取るに足らないシーンのようでいて、どういうわけだか私は、それを見て〈これはただ事ではない映画だ〉と感じた。むろん、そこにいたる前のシークェンスも、ただ事ではない不穏な《予兆》を想起させてはいたが、自身の過去の記憶をめぐり、その理由が次第に判明していくのだった――。 §  映画『幻魔大戦』を観た。1983年公開の角川映画。キャラクター・デザインを務めた大友克洋の作画に魅了される。冒頭のシークェンスでトランシルバニア王国の第一王女プリンセス・ルナが登場する。彼女はテレパシストの16歳の少女――ということになっている。16歳の少女…。16歳というまだあどけないはずの面影は、そこからは微塵も感じられない。  さらに後々、東丈が登場する。彼もまた、どう見ても17歳の高校生男子には見えない。おでこが広い。おでこが広いということは、髪が薄いということである。実に東洋人的な面持ちであり、その無表情に押し込めた感受性の乏しい気怠さが重く感じられ、直ちに悪者を懲らしめてくれるような漲る正義感は、彼のこのおでこの広さからは想像できず、その性格のひ弱さに心が打ちのめされてしまっているようで、街から一歩も出そうにない。ちなみに彼は、高校の野球部のレギュラーから外されてしまい、只々そのことに屈伏し、世の中の沙汰に服従しようとしているだけであった。  しかしながら不思議なことに、東丈には恋人がいた。彼の恋人とされる沢川淳子は、不思議な魅力を持った女性である。その魅力の根源がいったいなんだかよく分からないという魅力である。目つきがきりりとしている。考えてみれば彼女も同じ高校生なのだ。まったくそうは見えない。あまりに大人びてしまって、将来咲き乱れるであろう可憐な花の蕾――花咲く前夜という予期する期待感はまるでなく、もはや咲いた花びらの一片は散らんばかりの、詫び寂すぎた様相である。すべてが熟れすぎてしまっているこの呈は、いったいなんだろうか、と思った。  不気味な大人達のようでもある、大友克洋の描くこの世界の有り様は、私が認識している地球物理とは違うアングルで進行しているとしか、言いようがない。1年の月日は、ここでは彼らを5歳も年を取

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