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4月, 2019の投稿を表示しています

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五味彬の『Yellows MEN Tokyo 1995』

写真家・五味彬氏の90年代の集大成であるヌード写真集=“YELLOWS”シリーズを何度か過去に取り上げてきた当ブログにおいて、その“YELLOWS”のなんたるかを断続的に振り返っていこうという試みが、2016年9月の「写真集『nude of J.』」を境にぱったりと途絶えてしまっていたことを深く反省する。もっとこれに食い付いて継続的に追い込むべきであった。  当ブログにおける始まりは、2012年8月の「YELLOWSという裸体」である。今回取り上げるのは、そのシリーズのうちの一つ『Yellows MEN Tokyo 1995』(風雅書房)で、これは、男性モデル26人の全裸を真っ向からとらえたメイル・ヌード写真集である。  実を言うとこの本については、個人的に2017年の春頃に取り上げるつもりで用意していた。実際、本をスチル撮りしたこれらの画像は、その頃撮られたものだ。ところが、まったく別の事由が重なってしまい、取り上げることを忘れて、この本のこともすっかり失念してしまっていた。尚、“YELLOWS”シリーズに関する考察も不完全なままであった。なので、ようやく今、再び狼煙を上げる。90年代に大流行したあの“YELLOWS”シリーズの気炎を。こうして今、邂逅の機会を得た次第である。  本は、私の手元にある。手に取ったのは、およそ3年ぶりである。これを最初に見開いたのは、もう20年近く前のことだ。あらためてこの本を開いてみると、とても懐かしい気がする。私にとっては、少し大袈裟になるが、90年代のlegacyである。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズの中で、最も入手が難しい稀少本と称されている『Yellows MEN Tokyo 1995』について、私なりの意趣で紐解いていきたい。
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 1995年に出版された五味氏のヌード写真集『Yellows MEN Tokyo 1995』のシューティング・データをつまみ取る。撮影スタジオは都内のバナナプランテーション(現・権之助坂スタジオ)。撮影日は1994年3月23日~25日。カメラはMamiya 645。  Mamiya 645は中判の一眼レフカメラで、おそらく使用したフィルムは、コダック(日本ではブローニーフィルムと呼んでいたりする)かと思われる。他の“YELLOWS”シリーズでは、当時最先端だったデジカメ(Kodak …

『洋酒天国』と世界の酒盛り

最近、“モフモフ”という擬態語=オノマトペが流行っているようだ。某テレビ番組のタイトルにも使われたりしていた。一昔前ならフカフカと言ったもの、あるいはモコモコと言ったものをもっと可愛らしく表現したのが、“モフモフ”ということらしい。それで、あくまでこれは個人的な意見であるが、先月から(いや、もっと以前から…)私が断続的に飲んでいるアイルランドの黒スタウトのビール=ギネス(Guinness)の舌触りというのは、これまでフカフカでもモコモコでも言語表現しきれなかったのに、今まさに“モフモフ”というオノマトペに出合ったとなれば、このビールに対してこの表現が一番相応しいではないか、声を出して言いたいのである。〈モフモフ! ギネス! モフモフ! ギネス!〉。世界中で流行って欲しいのでございます。
 ということでお酒の話題から、ヨーテンの話題へ推移しようと狡猾に策略したのだけれど、今回はそのアイリッシュではなく、おフランスなのである。フランスと言えばワイン、日本語で古風に言うと葡萄酒――。ワインは普段、私はあまり飲む機会をこしらえていなかった。ただし今、南仏「レゾルム ド カンブラス」のカベルネ・ソーヴィニヨンを美味しくいただいている。まあ、この話題はまた後にしよう。何はともあれヨーテンへ、いざ、出発進行――。
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 壽屋PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第6号は、昭和31年9月発行。表紙はお馴染み、坂根進氏のペーパークラフト。冊子の扉を開くと、柳原良平氏のちょっと官能的なイラストがあって、《水は外に 酒は内に 女は床に!…》と古代ローマ、ペトロニウスの「トリマルキオの饗宴」の箴言の引用テクスト(原文を読んでいないから詳しくは不明)。「トリマルキオの饗宴」は青柳正規氏の解説でいい本が出ているようだ。関心があるので、後でそれを買って読もうと思っている次第である。  昭和31年の世俗を一つ挙げてみる。千葉の公団稲毛住宅初入居、というのが当時のニュースになったらしい。入居者は、“関東団地族”と称されてはしゃいだらしいとか。団地(正式名は日本住宅公団地)という俗称は、昨今あまり世間で飛び交わなくなってきたが、私も幼少の頃、“団地族”の一員であった(当ブログ「ボクの団地生活」参照)。
 昭和の団地暮らしというのは独特なもので、ほぼ同程度の所得層が集う、基本的には和やかな雰囲気の半集団…

映画『幻魔大戦』―愛と新宿とポカリのパースペクティヴ

17歳の高校生の主人公・東丈(あずまじょう)が、新宿の街の場末でポカリスエットの缶を蹴る――。取るに足らないシーンのようでいて、どういうわけだか私は、それを見て〈これはただ事ではない映画だ〉と感じた。むろん、そこにいたる前のシークェンスも、ただ事ではない不穏な《予兆》を想起させてはいたが、自身の過去の記憶をめぐり、その理由が次第に判明していくのだった――。
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 映画『幻魔大戦』を観た。1983年公開の角川映画。キャラクター・デザインを務めた大友克洋の作画に魅了される。冒頭のシークェンスでトランシルバニア王国の第一王女プリンセス・ルナが登場する。彼女はテレパシストの16歳の少女――ということになっている。16歳の少女…。16歳というまだあどけないはずの面影は、そこからは微塵も感じられない。  さらに後々、東丈が登場する。彼もまた、どう見ても17歳の高校生男子には見えない。おでこが広い。おでこが広いということは、髪が薄いということである。実に東洋人的な面持ちであり、その無表情に押し込めた感受性の乏しい気怠さが重く感じられ、直ちに悪者を懲らしめてくれるような漲る正義感は、彼のこのおでこの広さからは想像できず、その性格のひ弱さに心が打ちのめされてしまっているようで、街から一歩も出そうにない。ちなみに彼は、高校の野球部のレギュラーから外されてしまい、只々そのことに屈伏し、世の中の沙汰に服従しようとしているだけであった。
 しかしながら不思議なことに、東丈には恋人がいた。彼の恋人とされる沢川淳子は、不思議な魅力を持った女性である。その魅力の根源がいったいなんだかよく分からないという魅力である。目つきがきりりとしている。考えてみれば彼女も同じ高校生なのだ。まったくそうは見えない。あまりに大人びてしまって、将来咲き乱れるであろう可憐な花の蕾――花咲く前夜という予期する期待感はまるでなく、もはや咲いた花びらの一片は散らんばかりの、詫び寂すぎた様相である。すべてが熟れすぎてしまっているこの呈は、いったいなんだろうか、と思った。  不気味な大人達のようでもある、大友克洋の描くこの世界の有り様は、私が認識している地球物理とは違うアングルで進行しているとしか、言いようがない。1年の月日は、ここでは彼らを5歳も年を取らせているかのようである。少なくとも彼ら高校生らの、ごく当たり前の純然…