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伴田良輔の「震える盆栽」再考

作家でありセクシュアル・アートの評論家でもある、伴田良輔氏の様々な文筆作品に目を通す機会が多かった私は、その最初に出合ったショート・ショート作品「震える盆栽」の妖しげで奇怪なる感動が今でも忘れられない。それはもう、かれこれ27年も前のことになるのだった。  この「震える盆栽」については、当ブログ「『震える盆栽』を読んだ頃」(2011年2月)で書いた。いずれにしても27年前の“異形の出合い”がなければ、その後私はセクシュアル・アートへの造詣を深めることは無理であったろう。敢えてもう一度、この作品について深く掘り下げてみたくなった。あの時の、邂逅のエピソードからあらためて綴っていくことにする。
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 「震える盆栽」を初めて知った(初めて出合った)のは、90年代初め。私はその頃上野の専門学校に通っており、まだ20歳になったばかりの時である。  ある日、授業の合間に学校を抜け出て、入谷方面へと散歩に出掛けた。交差点近くの所に来て、小さな書店を見つけたのだった。暇つぶしにこれ幸い、とその店に駆け込んだのだけれど、今となっては、その場所も、店の名前もまったく憶えていない。――ちなみに後年、鬼子母神(真源寺)のある入谷におもむいて、この書店をしらみつぶしに探したことがあったが、見つからなかった。既に閉店していた可能性もある。  私は、ありとあらゆる理由を考えた末に、結局、あの書店はもともと狐なるものが経営していて、ある日忽然と消えてしまったのだ、と信じて已まない。そういえば店主は、細い目をしていたような――。
 閑話休題。さて、その書店に入ったはいいが、真っ昼間で他のお客は誰も居なかったのだった。だから店内はしーんと静まりかえっていた。この狭い空間に、店主と私二人きり。何かUSENのBGMくらいかけておいて欲しい…。雰囲気としてはとても堪えられそうになかった。そう思ってしまったのは、なんとも若気の至りであった。
 若気の至りほど感覚的に懐かしいものはない。今の私なら、そういう小さな商店に足を踏み入れて、場の悪い空気にさらされたとしても、何ら平気。何のためらいもなく居続けるに違いない。え、客は私ひとりですが、なにかそれが問題でも?――。店主に話しかけられようが何だろうが、ずっと居座り続けるに違いない。尤も、長い時間読みたくなるくらい面白い本がそこにあれば、の話だが。  年を取…

五味彬の『Yellows MEN Tokyo 1995』

【当時は衝撃的だった“YELLOWS”の男性版】
 写真家・五味彬氏の90年代の集大成であるヌード写真集=“YELLOWS”シリーズを何度か過去に取り上げてきた当ブログにおいて、その“YELLOWS”のなんたるかを断続的に振り返っていこうという試みが、2016年9月の「写真集『nude of J.』」を境にぱったりと途絶えてしまっていたことを深く反省する。もっとこれに食い付いて継続的に追い込むべきであった。
 当ブログにおける始まりは、2012年8月の「YELLOWSという裸体」である。今回取り上げるのは、そのシリーズのうちの一つ『Yellows MEN Tokyo 1995』(風雅書房)で、これは、男性モデル26人の全裸を真っ向からとらえたメイル・ヌード写真集である。
 実を言うとこの本については、個人的に2017年の春頃に取り上げるつもりで用意していた。実際、本をスチル撮りしたこれらの画像は、その頃撮られたものだ。ところが、まったく別の事由が重なってしまい、取り上げることを忘れて、この本のこともすっかり失念してしまっていた。尚、“YELLOWS”シリーズに関する考察も不完全なままであった。なので、ようやく今、再び狼煙を上げる。90年代に大流行したあの“YELLOWS”シリーズの気炎を。こうして今、邂逅の機会を得た次第である。
 本は、私の手元にある。手に取ったのは、およそ3年ぶりである。これを最初に見開いたのは、もう20年近く前のことだ。あらためてこの本を開いてみると、とても懐かしい気がする。私にとっては、少し大袈裟になるが、90年代のlegacyである。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズの中で、最も入手が難しい稀少本と称されている『Yellows MEN Tokyo 1995』について、私なりの意趣で紐解いていきたい。

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 1995年に出版された五味氏のヌード写真集『Yellows MEN Tokyo 1995』のシューティング・データをつまみ取る。撮影スタジオは都内のバナナプランテーション(現・権之助坂スタジオ)。撮影日は1994年3月23日~25日。カメラはMamiya 645。
 Mamiya 645は中判の一眼レフカメラで、おそらく使用したフィルムは、コダック(日本ではブローニーフィルムと呼んでいたりする)かと思われる。他の“YELLOWS”シリーズでは、当時最先端だったデジカメ(Kodak DCS3)が撮影で使用され、フィルムのような現像工程を施さずにダイレクトに撮像を抽出できる点で大いに画期的であったが、いかんせんまだ、画質が粗すぎ、写真集の品質をかなり損なっていた面があった。それに対してこの『Yellows MEN Tokyo 1995』は、従来のフィルムカメラを使用したため、写真の品質がたいへん良い。フィルムの優れた特性が画面に顕れている。
 以下、本の帯のテクスト広告を引用する。

《YELLOWS MEN
撮影・五味彬
男だって脱ぎたい
女だって見たい
フツーのオトコたちのカラダ。
会社員からダンサーまで、男性26人のヌード》
(五味彬『Yellows MEN Tokyo 1995』帯より引用)

 本の最初のページは、“INDEX”となっていて、男性26人の顔写真(モノクロ)、身長、体重、座高、バスト、ウエスト、ヒップの寸法、足のサイズ、血液型、職業、出身地が記されている。ある意味において彼らは、五味氏の“YELLOWS”の評判を聞いて集まった“collaborators”という言い方はできよう。出身地や職業は千差万別であり、その顔の個性に関しても、ベースとなるアウトラインは人それぞれである。こうした顔写真と経歴を眺めているだけで、多方いろいろと想起させられるものがあった。

 例えば、「日本人の顔」というものをこのように並べて参照したうえで、その造形の民族的な特徴とはいったい何であろうかという第一の想起。
 古代より地球上のあちこちに派生した無数のそれぞれの民族。顔の造形の同根または差異といった見地で、「日本人の顔」とはいったい――といった思考の入口に行き着くと、それに対する知識が、まるで基礎すら持ち得ていないことに気づかされるのだった。私はこれまで、ほとんどそういった観点で、“日本人とは何ぞや”という民俗学以前の民族学というところに、関心が及ばなかったのである。何の脈略もなく、浮ついた想像だけに頼って、つい「民族」とか「遺伝」といった言葉を口走り、そのロマンティシズムに駆られていただけかも知れないと悟った。

 人がある生活環境下で、日々、必然的に周回しながら暮らし、その時々の心理や身体的感覚の影響を受けながら、無意識に顔の神経だとか筋肉だとか皮膚、すなわちその人の「表情」というものが現出されていると仮定すれば、その環境下における心理的作用というのは、とても重要な脳内のプロセスだということになる。顔の造形の基礎には、やはり民族的遺伝とか家系的遺伝といった要素があるに違いないが、頭髪スタイル(かなり個人の嗜好要素が強い?)といった箇所にまで想像が及ぶと、果たして本来の民族的遺伝における顔の造形の差異などといったことが、客観的に判断できる程度まで表出しているのかどうか、疑わしいではないかとも思うのだ。
 ここに載せられた26人の男性らは、「日本人らしい日本人」と言っても差し支えないはずだが、何が日本人らしい顔なのかという根拠については、少なくとも私はよく理解できていない。しかし一見するだけで、彼らは日本人であるとおおまかに認識できる私の脳内は、いったいその顔をどう判断して見きわめているのか、ということなのである。ここがよく分からない。
 ともかく、彼ら26人の男性は、たいへん鋭くカメラのレンズを見つめ、こうして眺めている私の顔を、逆に眺められているようにさえ感じる。何か言いたそうなのだ。だが、私には、まだその答えを見つけることができないのであった。

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 もう少し顔の話を続けよう。
 写真は、シャッターを押したその「一瞬」を切り取るものである。だから、写真が現存する限りにおいては、その「一瞬」の時間に静止したまま、鑑賞者は被写体を眺め続けることになる。ここにおける彼ら26人は、ずっとその表情を変えたりしないし、年も取らない。これは動画であってもほぼ同じ解釈になり、動画の場合はその切り出す「一瞬」が写真よりも少し長くなるだけのことであって、記録された間の時間を超えて、顔や形状が変わったりはしない。これは記録物に与えられた真理であり、宿命であり、人間的には因果である。

 もし仮に、彼らの「24年後」の顔を、同様に撮影し、写真として切り取ったとしよう。「24年後」つまり2019年の今だ。言わずもがな、想像すれば分かるように、26人の表情の「24年後」の変化は劇的であり、その写真集にある表情とは、まったく別人の様相となるに違いない。
 記録と記録のあいだに実相として立ち振る舞う現実的な「24年」という時間の進行。細胞の成長がピークに達し、その後は退行すなわち「老化」していく生物学的現象が人体に加味される。誰しも多かれ少なかれ「老化」による肉体の変化は避けられるものではない。故に人は、そのことにいくばくかの憂いの念を覚える。顔は「老化」に対する憂いを刻み込んで、それを顕著に浮き彫りにしてしまうものなのである。

 しかしながら、顔というものは、逆に歳を追うごとに着飾っていく性質があるだろう。若い頃はなんとなく無表情に近かった表情が、社会的な経験に揉まれて、意識的に「表情コミュニケーション」を学習して着飾るようになるのではないか。人の意識は徐々に「老化」を見せまいとしていくだろうから、歳を追うごとに表情で着飾るのである。それは生物学的な「老化」とは逆行する形で、意識によって「老化」を妨げようとする働きかと思われる。したがって、「24年後」の彼ら26人の表情は、もっと豊かな笑みを含んだ柔らかな表情になっていると、私は勝手に想像するのである。

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【秀和円奴さんの顔と全身】
 人は視覚において顔を第一に認識するであろう。相手の顔の表情を読み取り、コミュニケーションを図る。誤解を恐れずに言うと、顔で物事を判断するのである。つまり人は、言語と顔の表情を手段とするコミュニケーション媒体であり、言わば「情報交換をする生き物」なのだ。このことは、人類生存のための持続可能性の肉体的限界として、当然の帰結と言える。
 コミュニケーションに必要な身体的機能が顔と上半身につかさどり、運動と生理と生殖のために必要な下半身は、コミュニケーション手段としてはあくまで小さく、補助的な役割に過ぎないのだから、視覚においてはそれを認識しなくてもよいとされる。
 原初の人類は工夫を凝らしたのだった。下半身は黒子として覆い隠し、認識を削ぎ落とす。「着衣」というルールである。人類はずっとこれまで、この厳格なルールを採用し続けてきた。自己の生殖活動を一旦は疎外しておくことができ、かつ社会活動に集中するための「着衣」というルールは、人類が発明した最初の文明開化だったに違いない。

 そうした私の拙い知識による想像では、顔と下半身(生殖器)の分離こそが、人類の社会活動を飛躍的に進歩させた大きな要因であったという、言わば生物進化のロマンティシズムに浸ることになるのだが、その結果、人類の進化において、セックスの対象である女性の裸が、視覚として途方もないほど、情動の刺激材料となる機能的副産物を生み出したように思えるのだ。
 五味氏の“YELLOWS”シリーズにおける作品スタンス、すなわち「人の顔とヌードの標本化」は、近代の芸術的指向に脅かされない形で実に謙虚に、剥き出しになった人の身体に対する視覚と認識の問題を、じゅうぶん想起させてくれていることを忘れてはならない。

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【秀和円奴さんの全裸正面と背面】
 翻って、男性のヌードも、同じ定義である。1995年の『Yellows MEN Tokyo 1995』は、あの頃の日本において、確かに女性のヌード写真集を見るのとは違う反応――ぎょぎょっとした嫌悪感――で迎えられた面があった。一般に、ヌード写真集本の多くの購買者である男性からは、あの『Yellows MEN Tokyo 1995』について、〈男の裸など見たくない〉という表向きの反応が多かった。
 むろん、客観的に世界を見わたせば、紆余曲折はあれど、欧米ではとっくの昔に、男性ヌードは市民権を得ている。絵画に登場する老若男女のヌードを例に出すまでもなく、写真の分野で老若男女のヌードはしごく当たり前のように存在する(ヌードは森羅万象の自然の一部でもあるからだ)。
 女性のピュービック・ヘア露出のヌードで一世を風靡した、80年年代から90年代初頭にかけての日本人の反応こそが、そもそもまだ性を破廉恥とみる偏見の塊の渦中にあり、芸術性の高いヌード・フォトグラフィーの視野への了見の狭さを物語る事象なのであった。しかも、依然として、90年代の日本ではまだまだ、男性ヌードは色物として扱われていた。
 ちなみに、それ以前の日本では、ピュービック・ヘアも男性ヌードもアングラ、すなわち地下の暗渠領域のカテゴリーであった。90年代になり、芸能人のスターやアイドルが服を脱ぎ、陰毛を晒し、ようやくそれらのヌード・フォトグラフィーが、森羅万象の自然の一部として認知され、「可視化の肯定」が広まった。さもこれは、ヌードの有り様が暗渠ではない青空の見える世間の縁側で語られるようになっただけの話である。

 1991年に篠山紀信の写真集『water fruit 篠山紀信+樋口可南子 accidents 1』でいわゆる“ヘアヌード”が解禁(写真でモデルが陰毛を晒しても事実上、わいせつ罪ではおとがめなしになった)された後、わんさかとその手の写真集が発売されて圧倒的なブームとなり、すぐに篠山氏は本木雅弘のヌードを撮って男性ヌードの裾野を一般に広めた。あれは確かに画期的な写真集であった。
 そして国内におけるヌード・フォトグラフィーの主流は間違いなく“ヘアヌード”と称された陰毛のチラ見せ一辺倒となり、芸術性が高くないものも含めて、メディアはそれを大々的に取り上げ、ブームを誇張した。あの頃は、ビジネス・チャンスとして“ヘア”の見せ合い競争を熾烈にしていたのだった。

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【秀和円奴さんの全裸左側面と右側面】
 ヘアを含めた見せ方の芸術的水準は、この頃、まだ過渡期であったと言わざるを得ない。以前までは「見せてはいけない」ものを、今度は「見せてもいい」ことになったのだから、その場合の撮り方として、作画の術はおのずと変わる。『Yellows MEN Tokyo 1995』はシリーズの方向性に倣い、「人の顔とヌードの標本化」のスタンスのままであった。つまり、男性モデルが全裸で佇立しているだけの写真である。
 この本の“INDEX”の次に、京都大学理学部助教授・理学博士であった片山一道氏の論説「裸のメッセージ―男性ヌード写真によせて」がある。個人的な見解を述べた一文をまず引用する。

《私の目の前に並ぶのは、ほとんどポーズらしきポーズをとらない壮年前期の年頃の男性の全裸写真であるが、実のところ、心ときめくようなプラスの情動は何ひとつ起こらない。むしろ、おどろおどろしきものをチラリ見るときの気後れが先立つ。どうも男性ヌードというもの、尋常ではないようだ。ようやく最近になって市民権を獲得しつつある女性ヘアーヌードと比べて、どこか趣が違う、いわば隠花植物と顕花植物の違いであろうか》
(『Yellows MEN Tokyo 1995』片山一道「裸のメッセージ―男性ヌード写真によせて」より引用)

 片山氏の個人的な見解を代弁すると、女性ヌードには華があり、男性ヌードには華がないということ、男性ヌードは情動の対象にならない、ということであるが、佇立しているだけの不気味さというのがどうしてもそこにあって、「標本化」という趣旨に沿った裸体の表層が、まるで情欲の引き金にならないという点では、“YELLOWS”シリーズ全般に言えることではないかと思われる。また、片山氏は、「男女の陰毛」と「男性のペニス」についての見解も述べていて興味深い。

《平均的には密度も太さも男性のそれには及ばないが、女性の陰毛も相当なものである。おそらくは、両性の“遺伝的なつながり”ということで説明できるだろう。人間の体毛は、どちらかの性に特有な遺伝形質、つまり限性遺伝形質ではない。だから、男性の陰毛が濃くなるように進化すれば、その程度に差はあれ、女性でも濃くなる方に向かったはずだ。その点、クジャクの尾羽やライオンのたてがみとは異なる。
 それでは男性は、いったい誰に向かってペニスを誇示する必要があっただろうか。おそらく性交の相手たる女性に対してではなく、異性や社会的な地位をめぐる競争相手の同性に対してであろう。つまり人間の歴史において、大きなペニス、正確には大きく立派に見えるペニスは、他の男性を威嚇し、地位を誇示するのに何らかの役割を果してきたのであろう。この点では、人間の男性のペニスはクジャクの尾羽やライオンのたてがみと変わらない》
(『Yellows MEN Tokyo 1995』片山一道「裸のメッセージ―男性ヌード写真によせて」より引用)

【秀和円奴さんの全裸背面と正面】
 この本の男性ヌードには、性器にモザイクがかかってしまっている。したがって、片山氏の一説を実際に目視してみて体現することができない――。
 1995年の本という時代を考えると、ヌードに対する規制がまだすべて解かれていない点でやむを得ない面はある。しかし、これは大きなマイナス要因ではないか。この点で既に他のシリーズと(他の女性ヌードと)同等に比較できない齟齬が生じてしまったとも言える。モザイク(=表現規制)がかかったのは、この本の趣旨が、決して芸術点が低いわけではないにせよ、「性器は露骨である」とみられた証である。そもそも身体表現として人の顔を写真に記録する行為自体が、露骨な表現であるのにもかかわらず――だ。

 “YELLOWS”シリーズの女性ヌードの「標本化」は、ほぼ完璧であった(無毛に対するモザイクがまったくなかったわけではない)。が、対照的に男性ヌードの方は、一律モザイク加工という不可抗力によって、完全無欠な「標本化」には至らなかった。
 五味氏は編纂においてベストを尽くしたと思われる。が、たいへん残念である。今からでも遅くはない。この作品を、無修正版としてリイシューする努力をすべきなのだ。作品は完遂してこそ真の作品である。私なりに総合的に判断して、それだけの価値が、この本にはあると思った。

コメント

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

魯迅の『藤野先生』

先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。
 「藤野先生の『頓挫のある口調』について」。  三宝氏は『藤野先生』(魯迅『朝花夕拾』所収)で、魯迅が綴った先生の“口調”にまつわる表現――頓挫のある口調――の翻訳について鋭く言及している。頓挫のある口調とは、いかなる口調であるのかと。  さて、と思い、私は高校時代の筑摩書房の国語教科書を開いた。残念ながらその教科書には魯迅の『藤野先生』は収録されていなかった。書棚を探して皮肉にもそれを見つけたのは、同じ筑摩の『筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫)である。ここに収録されていた『藤野先生』は竹内好訳で、『世界文学大系』第62巻(筑摩書房)に拠っている。私はこの竹内氏の訳版によって、三宝氏が言及する部分を見つけることができた。
 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。  『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。  読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。  私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じで…

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中野重治の「歌」

高校3年時の国語教科書を開く。筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』。この教科書については、当ブログ「教科書のこと」でも触れており、先日はこの教科書で知った評論家・唐木順三についても書いた。誰しも文学的出発点(文学に目覚めたという意味の)という経験譚はあるようだが、私にとっては、1990年に学んだこの筑摩の、高校国語教科書がどうやらその出発点と言い切っていいのではないかと思われる。  以前もこの教科書から、高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」について掘り下げたことがあるが、この教科書の「現代詩」の章題ページには、高村光太郎の彫刻作品である「腕」のモノクロ写真が掲載されていて、それが異様に迫るものがあり、光沢して白く見える指先から心に突き刺さるものを感じてはいた。ここで括られた「現代詩」は萩原朔太郎の「竹」「中学の校庭」で始まり、高村の「ぼろぼろな駝鳥」、そして中野重治の「歌」、金子光晴の「富士」、山本太郎の「生まれた子に」で閉じられる。どれもこれも、生命をもったことば達の狂った叫び声がきこえてくるかのようで、ひ弱な高校3年生であった私にとっては、鋭く、痛く、他の小説や随筆のように容易に読み砕くことができなかったのである。
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 その中で最も身体に堪えたのが、中野重治の「歌」であった。第一の《おまえは歌うな》のことばの滑り出しは、あまりにも衝撃過ぎた。  これはこの筑摩の国語教科書全体にも言えることだけれど、すべてがことばとして痛いのである。心がひりひりと痛くなるような作品を敢えて撰修し、ずけずけと入り込んで高校生の悠長な精神を揺さぶりかけるような仕掛けが、あちこちにひしめいていた。そんな痛い筑摩の国語教科書の中で、「現代詩」における中野重治の詩は、あまりにも痛かった。以下、部分的に引用する。
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 高校を卒業しておよそ6年後、講談社から発売されたビジュアル本『日録20世紀』の[1970 昭和45年]を買って読んだことがある。小説家・三島由紀夫の割腹自殺事件、大阪万博、よど号ハイジャック、ビートルズ解散、沖縄からの集団就職、チッソ株主総会などが主だった時事内容で、“ディスカバージャパン”というコピーが流行った年でもあった。そう、藤圭子さんの「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしたのも昭和45年だ。
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