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12月, 2019の投稿を表示しています

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クウネルと花さかにいさんのこと

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馥郁たる天然の要請に耳を傾ける人。たとえ木訥であっても、草花の芳しき日々を感じ取りながら、精一杯に生きるということ――。そんな人柄を思わせる花人・杉謙太郎氏のことを知ったのは、雑誌『ku:nel』(クウネル)であった。15年前に読んだ誌面での印象があまりにも強烈で、私にとっては、今でも忘れられない“出合い”となっている。
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 マガジンハウスの雑誌『ku:nel』2005.3.1号に、杉謙太郎さんが登場する。誌面の見出しは、「福岡県・吉井町の花さかにいさん。野の花は、羽根にふれるように」。以下、見出し横の付記を引用しておく。 《杉謙太郎さん、29歳。バラ農家の長男として生まれ、でも農薬と肥料で作られたバラにはどうしても惹かれず、華道教室の門を叩き、師を求めてヨーロッパに渡った。迷いながら悩みながら、自分だけの花を探し続ける杉さんが帰る日、気づく日を、裏山の花たちは静かにじっと待っていた》 (『ku:nel』2005.3.1号より引用)
 誌面の中では、家業のバラ栽培での農薬云々の話が、まず強烈に心に残った。――両親はバラ栽培で生計を立てている。杉さんは、高校卒業後に家業を手伝った。40度を超えるビニールハウスでの“農薬散布”が、最も辛かったと語る。大きなハウスの中で半日かけて、毒性の高い農薬を噴射して何度も往復するという。その真意について、杉さんはこう述べていた。 《肥料と農薬で大量生産されたうちのバラはぶくぶくして、“モノ”みたいでした。どっかの酔っぱらいのおじさんが、どっかのスナックのおネエさんに、かすみ草で水増ししてプレゼントするんだろうなあ、と思うとやりきれなかったですね。このバラに食わせてもらっておいて、バチ当たりモンなのですが……》 (『ku:nel』2005.3.1号より引用)
 その後、花のデザインコンペで数々の賞をとり、仕事が殺到。花の教室を開けば、生徒が100人以上に増えたという。そうした矢継ぎ早の仕事で稼いだものの、杉さんは、心身を消耗して自律神経失調症になってしまったのだった。  それからヨーロッパに行き、造園について学ぶ。とある伯爵の、邸宅の庭に咲いていた野バラに、胸が震えた。ビニールハウスのバラとは違う、生命力に溢れたバラだったからだ。そうして地元の吉井町に戻った後、自然に咲いている花たちの、ありのままの姿の美しさに気づく。竹細工職人の…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈十〉

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シリーズとなっている「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」の第10回目。前回は、私淑するmas氏の幻のウェブサイト「中国茶のオルタナティブ」から「茶」の発音の誤読の歴史についてと、中国茶の青茶「白芽奇蘭」(はくがきらん)についての思索であったが、今回登場する中国茶は、「白毫銀針」(はくごうぎんしん)。mas氏がかつてウェブで記した「中国茶のオルタナティブ」の中からコラムをピックアップし、その中国茶についても、深々とした醍醐味を味わってみたいと思う。
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 mas氏が2000年から2001年にかけて綴っていたウェブサイトのコラム「中国茶のオルタナティブ」の第8番目に、「新たなる価値観の創造、みたてるということ」(2000年3月投稿)というのがあった。茶の湯には、道具を“見立てる”という形式美があるという。以下、mas氏の文章を書き出してみる。 《「見立てる」とは、本来ある特定の用途のために作られた容器を全く別な用途に利用するということです。利休が好んだといわれる井戸茶碗、あれなんかはもともと朝鮮半島の庶民のご飯茶碗であったと言われていますし、水指つまり、水をストックする容器、これの名品にオランダのデルフト窯か何かのたばこ入れを「見立てた」ものがありますね。  つまり、自分で作ったものでなくとも、「見立てる」という行為だけで従来の枠組みを一瞬にしてぐらつかせてしまうような価値観が創造されるのです。「道具を使う」という行為だけでそれだけ過激な結果が生まれる。これはもうある意味コンセプチュアルアートなのではないか、なんてインチキ臭いことを言いたくなるほど、先人達の選択は軽やかなのですね》 (mas氏「中国茶のオルタナティブ」より引用)
《「見立てる」という行為だけで従来の枠組みを一瞬にしてぐらつかせてしまうような価値観が創造される》という文章に、私は、眼が覚めるような心地良い爽快感を味わう。  ここで出てくる「井戸茶碗」とは、高麗茶碗(朝鮮茶碗)の一種のことで、室町時代以後、茶人に珍重された茶碗を指し、侘び茶碗とも称されている。淡い卵色(枇杷色)の釉薬がかかっていて、形や質感は実に豊かで独創的である。  ゆえに、器の雰囲気として井戸茶碗は、現代人にすこぶる好まれる“無印良品”的な素朴然とした色と形の日用品の趣とは、真逆と言っていいだろう。焼き物の“焼き”というのは、常に人…

小学館の学習雑誌の思い出と未来へのファンタジー

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団塊ジュニアの世代にとって、少年少女だった80年代前半は、様々な意味合いで特別な思いに駆られる時代であったと思われる。LSIゲームの普及、自前でプログラミングが可能なパーソナル・コンピュータが大流行し、子どもたちの遊びのスタイルが劇的に変化した時代。“子どもは外で遊べ”――という大人からの強い要求との衝突、及びその葛藤が、その頃の子どもたちの悩みの種となっていたはずだ。  まず何より、子どもの数が多かった。  ということで言うなれば、確かに、日常的につるんで仲良しになる仲間も多かったのだ。Wikipediaの記述によると、団塊ジュニアは、1971年から1974年までに生まれた世代を指し、73年生まれが210万人と最多であり、それ以前の“団塊の世代”の1949年生まれの270万人よりは、少し少ないとあった。
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 今の若い人達に、その頃子どもだった団塊ジュニアの、学校と家庭における日常的な情景を想像してもらうことは、決して容易いことではないのかも知れない。  現代のように、手持ちの通信端末で無言でSNSに明け暮れることもなく、自転車を乗りまわした子どもたちが町中の至る所に溢れ、賑やかに声を上げてはしゃぎ、ほとんど空き地のような場所で好きなように遊び、立ち入り禁止の場所を見つけると、むしろ喜んで入り込んで探検を試みた。  見つけてくるものと言えば、壊れたラジカセであったり、ヌードの艶めかしいカレンダーであったり、エロ本であったり、束になって棄てられていた聖書であったり。あるいはそうでないとしても、地域に点々と存在していた小さなショップ(雑貨商)に入り浸り、ちょっとしたお菓子を買い食いしながら、子ども同士のコミュニケーションを楽しんでいたのが日課であったし、それ以外の楽しみがあるわけがなかった。  テレビの中の王様は野球にプロレスにドリフの全員集合。高木ブーがいかりや長介にビンタされてゲラゲラ笑っていた頃。はて、女の子はどうだったのだろう。どんなテレビを楽しんで見ていたのだろうか。ともかく、テレビの中はテレビの中。自分達は自分達。そういう常識で外で遊び回っていたのが常であったし、今の時代と大きく異なるのは、その頃の子どもたちには、大人がまったく介在しない子どもだけの秘密の時間が毎日あった、ということである。
 団塊ジュニアにおける、子どもたちが仲間と落ち合うための唯…