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早熟だったブルージン・ピエロ

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35年前の、私の中学生時代の回想――演劇部の部長に仄かな恋心を抱き、さだまさしの「軽井沢ホテル」を聴きながら、夢うつつの日々を送っていた――ことは以前書いた(「さだまさしの『軽井沢ホテル』」参照)。小学4年生の時、既に《失恋》という暗澹たる想念の災いを子供ながらに経験して、それから3年が過ぎようとしていた中学1年の夏の、演劇部での仄かな恋心というのは、総じて早熟な恋模様の、いわゆる中学生らしからぬ――あるいはまさにこれこそが悶々とした思春期の中学生らしさか――《破廉恥な領域》の行き来を意味していたのである。  演劇部の部長(3年生)が意外なほど、大人びて色気づいていたせいもあった。「軽井沢ホテル」とはまた別のかたちで、曲の中の主人公に自分を見立て、夢の中を彷徨っていた月日――それが稲垣潤一の歌う「ブルージン・ピエロ」であった。
§
 1985年の夏。その頃の私の嗜好の営みは、深まりつつある夜の時間帯の、ラジオを聴くことであった。ラジオを聴き、初めて稲垣潤一の粘っこい、粘着質のある歌声を発見して、心が揺さぶられたのである。レコード・ショップに駆け込んで7インチのシングルを買うという行動に移ったのは、「軽井沢ホテル」とまったく同様だ。ただし、濃厚だったのは彼の声質だけではなかった。この「ブルージン・ピエロ」の独特のメロディと歌詞の、その大人の恋の沙汰の印象が、あまりにも何か、まるで暗がりの中の不明瞭な色彩を示唆しているかのようで、言わば《破廉恥な領域》の気分を刺戟したのである。五分刈りの頭部が一人の少年の羞恥心の、そのすべてを記号化していた中学1年生の自己の内面では、それがまだ充分には咀嚼できずに、消化不良を起こしていたのだった。そうして次第に、自身の恋沙汰の象徴からこの曲は除外されていった。 《下手なジョークで 君の気をひこうと 必死な ブルージン・ピエロ 下手なダンスで 君を離さないと ささやく ブルージン・ピエロ 君の気持ちはもう 決っていたのに 僕だけ 知らない》 《あの時 君は大人で そして優しくて バカだな 僕はそのまま 愛を信じてた 今でも 今でも 僕は ブルージン・ピエロ》 (稲垣潤一「ブルージン・ピエロ」より引用)
 歌詞にしても、また全体の曲の雰囲気からしても、「ブルージン・ピエロ」の熱気と予感めいた破局というものは、中学生の心にはあまりにも理不尽に早すぎた。イントロはエロテ…

早熟だったブルージン・ピエロ

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35年前の、私の中学生時代の回想――演劇部の部長に仄かな恋心を抱き、さだまさしの「軽井沢ホテル」を聴きながら、夢うつつの日々を送っていた――ことは以前書いた(「さだまさしの『軽井沢ホテル』」参照)。小学4年生の時、既に《失恋》という暗澹たる想念の災いを子供ながらに経験して、それから3年が過ぎようとしていた中学1年の夏の、演劇部での仄かな恋心というのは、総じて早熟な恋模様の、いわゆる中学生らしからぬ――あるいはまさにこれこそが悶々とした思春期の中学生らしさか――《破廉恥な領域》の行き来を意味していたのである。  演劇部の部長(3年生)が意外なほど、大人びて色気づいていたせいもあった。「軽井沢ホテル」とはまた別のかたちで、曲の中の主人公に自分を見立て、夢の中を彷徨っていた月日――それが稲垣潤一の歌う「ブルージン・ピエロ」であった。
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 1985年の夏。その頃の私の嗜好の営みは、深まりつつある夜の時間帯の、ラジオを聴くことであった。ラジオを聴き、初めて稲垣潤一の粘っこい、粘着質のある歌声を発見して、心が揺さぶられたのである。レコード・ショップに駆け込んで7インチのシングルを買うという行動に移ったのは、「軽井沢ホテル」とまったく同様だ。ただし、濃厚だったのは彼の声質だけではなかった。この「ブルージン・ピエロ」の独特のメロディと歌詞の、その大人の恋の沙汰の印象が、あまりにも何か、まるで暗がりの中の不明瞭な色彩を示唆しているかのようで、言わば《破廉恥な領域》の気分を刺戟したのである。五分刈りの頭部が一人の少年の羞恥心の、そのすべてを記号化していた中学1年生の自己の内面では、それがまだ充分には咀嚼できずに、消化不良を起こしていたのだった。そうして次第に、自身の恋沙汰の象徴からこの曲は除外されていった。 《下手なジョークで 君の気をひこうと 必死な ブルージン・ピエロ 下手なダンスで 君を離さないと ささやく ブルージン・ピエロ 君の気持ちはもう 決っていたのに 僕だけ 知らない》 《あの時 君は大人で そして優しくて バカだな 僕はそのまま 愛を信じてた 今でも 今でも 僕は ブルージン・ピエロ》 (稲垣潤一「ブルージン・ピエロ」より引用)
 歌詞にしても、また全体の曲の雰囲気からしても、「ブルージン・ピエロ」の熱気と予感めいた破局というものは、中学生の心にはあまりにも理不尽に早すぎた。イントロはエロテ…

プディング妄想そしてプリン三昧

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芸能人の不倫ほど、食えないものはない。見苦しく、おぞましく、その非難の惨状を取り繕うのに必死な当事者は、家庭人としての体裁と社会への扉があっけなく閉じられようとする瞬間に、己の貧相と終始向き合わざるを得なくなる。  そうした人間の醜さゆえに不倫という。またそれが、仰々しくも侘びの沙汰――出会ってしまったが為の逃れられぬ恋慕――の身の上に生じた不倫であれば、どこか文学的で暗がりの野良猫の徘徊にも似た悲哀が感じられ、人間は所詮善人ではなく、そうした愚かな過誤を一生のうちにふと一度か二度、犯しかねないものである――という諸説入り乱れる含蓄と啓蒙に富んだ、近世の西洋人の警句のたぐいを思い返したりして、例えばまた、そういう調子の映画(堀川弘通監督の映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』)を観たりして、人生の破滅的な断罪やら教訓を反面教師的に心に打ち付けることができるのだけれど、その不倫の現場が――とあるビルディングの地下駐車場の“多目的トイレ”となると――あまりに異様な、とても文学的と称するわけにはいかなくなるのである。
 ここでいう文学とは、純文学のことである。つまり、“多目的”=multi-purposeの意味を履き違えた異形の不倫というよりは、単にお互いが、“もよおして遊ぶ”キュートなフェティシズムの乱遊に興じていたに過ぎなかったのではなかったか。この性癖には、近世のインテリジェンスな西洋人も、言葉を失って頭を抱えてしまうであろう。
 不倫。あちらこちらの小学生がついつい、学校でこんな不謹慎な話題を持ち出しかねなかった。「あのさ、多目的トイレでフリンって、結局、トイレで何すんの?」――。彼らは思春期の余りある好奇心をたえずくすぐられている。性欲の快楽に関する疑問に、半ば騒然とする心持ちを抑えつつも、おもむろに図書室へ行って、厳かに古びた国語辞書を手に取るに違いないのであった。また知性ある女子は、そんな男子の興味本位な話題にはつゆほども関心を示さないふりをしつつ、家に帰ってから、その漠然としたモヤモヤ感を払拭しなければならなかった。その最適な所作として、自身の勉強机の隅に置かれた国語辞書(誕生日に買ってもらったりしたことを思い出しつつ)を、開くであろう。――フリン。そこにははっきりとこう記されているのだ。 《既婚者が、別の相手と性的関係を結ぶこと。【類】密通・姦通・…

『洋酒天国』―ジャズと日劇〈2〉

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壽屋(現サントリーホールディングス)PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第58号は、昭和38年7月発行。熱っぽくルイ・アームストロングのジャズの話で盛り上がった前回からの続き。今回は日劇――。昭和の時代に一世を風靡した日劇ミュージックホールの話題に入るのだけれど、その前に、第58号に掲載された山本周五郎のエッセイ「ブドー酒・哲学・アイスクリーム」について少し触れておきたい。
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 昭和35年頃より壽屋(寿屋)の宣伝部は、本業があまりにも多忙となっていた。“ヨーテン”自体は低迷していたため、ある種のテコ入れをおこなったのである。第51号からは少し大きいサイズのA5判とし、読み物のページを増やした。しかしこれも結局、営業部の要望で「バーで人気のあった」という“元のサイズ”=B6判に戻したり、この間、作家の山川方夫を編集顧問に招いたり、昭和36年には東京の宣伝部で新卒採用を決行し、若い新人を入れて人員を確保――といった具合に積極的な戦略に打って出ていたのだ。  昭和38年には、新規のビール事業も展開。社名を「サントリー株式会社」と変更。そうした大々的で慌ただしい社内において、“ヨーテン”編集部では、さらに気勢を上げる策として、当時売れっ子の作家であった山本周五郎にエッセイを書いてもらおうと企図する。見事にそれが具現化したのが、第58号の「ブドー酒・哲学・アイスクリーム」だったわけである。この経緯については、小玉武著『「洋酒天国」とその時代』(ちくま文庫)が詳しい。
 山本周五郎の時代小説で代表的な作品と言えば、まあ、それこそいろいろあってなかなか絞るのが難しい。敢えて挙げるならば、『五瓣の椿』とか『さぶ』であろうか。『さぶ』は、この年昭和38年に雑誌『週刊朝日』に連載され、すぐに新刊本となった小説である。山本周五郎と聞くと、個人的には、黒澤明監督の2つの映画の原作である『赤ひげ診療譚』と『季節のない街』の小説の方が、すぐに思い当たる。
 エッセイ「ブドー酒・哲学・アイスクリーム」の全体的な文脈は、当時(昭和30年代後半)、国内ではまだワインを飲むという習慣が一般大衆には広まっていなかった(喩えて言うなれば、壽屋の「赤玉ポートワイン」は甘口で愛嬌があるが、本場のワインはそれに比べなんとも辛口で毛嫌いする人が多かった)ことが背景にあり、そもそも舶来の酒は輸入がまだ困難な時代…

『洋酒天国』―ジャズと日劇〈1〉

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この頃はスコッチのブレンデッドの「CLAYMORE」(クレイモア)をちびちび飲んでいたりするのだが、これがなかなか濃くて美味い。雑然とした日常の煩悩を一気に忘れさせてくれるような親身なスコッチである。決してこの「CLAYMORE」は、八木教広氏の漫画ではないことは述べておく。とは言え、そろそろ角瓶がまた飲みたくなってきた。オールドもいいだろう。国産のサントリーが恋しい夏がやって来た。
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 ムンムンとした真夏をむかえる時期に相応しい表紙である。壽屋(現サントリーホールディングス)PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第58号は、昭和38年7月発行。おそらく海の水面であろう其処に、黒色の海苔? ではない水着が、ぽつりと浮かんでいる。実は裏表紙も同じ水面で、其処には女性用の黄色い水着と、トリス(エクストラ)の瓶がぷかぷかと浮いているのだった。この表紙の“水面の写真”は、薄久夫氏の作である。サントリーの宣伝部における広告写真の仕事で知られた名カメラマンである。
 昭和38年(1963年)の世相は、なかなか戦後史の一幕として重たい。米ソの冷戦下、中国とソ連の対立が激化したのはこの頃で、ソ連では、世界初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワさんをボストーク宇宙船のロケットに乗せて打ち上げたことで話題になった。アメリカでは、8月にワシントンで、人種差別撤廃の大規模なデモがあり、11月にケネディ大統領が暗殺されて世界中が騒然となり、12月には韓国で朴正煕氏が大統領に就任した。国内では、NHKのテレビ番組『夢であいましょう』で梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」(永六輔作詞・中村八大作曲)が大ヒットブレイク。たいへん優雅で伸びやかな楽曲であるけれど、どこかしら暗い世相に反映されているせいか、家庭での月並みな幸せや営みを人々が切なく望む――そんな歌のようにも感じられる。
 この号は、いいだ・もも氏の「モンタージュ世相史(1)文明開化」という少々古風で含蓄ある随筆で始まっている。しかしながら、表紙見開きにある“サッチモ”(ルイ・アームストロング、Louis Armstrong)と記された短い詩のインパクトがあまりにも強烈で、いいだ・もも氏の随筆が割を食ってしまっているのだった。その詩は、《冷い空っぽのベッド 鉛のように固い寝床 おれの罪はただひとつ 皮膚の黒いこと ブラック・アンド・ブルー…

美と褪色の豊饒―トニ・メネグッツォの写真

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その写真集の最後のページにある出版社データを見ると、発行元はトレヴィルで、発売元はリブロポートとなっている。初版は1991年2月14日で、第2刷発行は1993年6月20日。トレヴィル、リブロポートと聞くと、輸入海外写真集の総元締めのように思われ、個人的には身構えて条件反射してしまうのだった。かつての若気の至りである。  若気の至りであっても、決して手にすることができなかった写真集の数々が、トレヴィルでありリブロポートであった。いま私は、イタリアの写真家トニ・メネグッツォ(Toni Meneguzzo)の写真集『セデュツィオーネ』(“SEDUZIONE”)を眺めている。これはたいへん美しい、浮世離れしたファイン・アートである。それぞれのカットがどこのスタジオで撮られたかは明記されていないが、『VOGUE』などのファッション雑誌関連で撮影された作品を掻き集めて構成したものと思われ、企画・監修者は高橋周平氏であり、国内の写真集である。ちなみに、“セデュツィオーネ”とは、イタリア語において「誘惑」とか「魅力」の意に当たるらしい。
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 既に2016年の9月、当ブログ「写真集『nude of J.』」でトニ・メネグッツォについて触れている。《『nude of J.』は、1991年朝日出版社から出版された、五味彬氏とイタリアの写真家トニ・メネグッツォによる共同写真集であり、監修は高橋周平氏という体裁をとっている。五味氏はここでYELLOWSシリーズと同様のスタイルを貫いた。トニ・メネグッツォはポラロイドカメラを使って日本人女性のイメージを独自に演出した写真を撮っており、その対比の妙が実に素晴らしく、国内のヌード写真集史に残る傑作だと思われる》。  今回私は初めて、トニ・メネグッツォの単独の写真集を眺めることができた。本の結びのページには、高橋周平氏が書き下ろした解説(「永遠のセデュツィオーネ」)が添えられていて、トニ・メネグッツォの写真は《古典的な絵画作品》のように見えること、彼は1949年にイタリアのヴェネチアに生まれ、経済学を専攻、卒業して独学で建築写真を撮り始め、26歳くらいからファッション写真に取り組み始めたことなどを挙げ、彼の写真のイメージは《中世のフレスコ画を想わせる伝統的な色彩を用いているという指摘》があることにも言及している。トニ・メネグッツォが使用してい…

世界の縁側―WWWの茫々たる世界

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語りませう――。あの頃、ミッチェル・フルームとエンジニアのチャド・ブレイクが縁故深いスザンヌ・ヴェガの新作アルバム『欲望の9つの対象』(“Nine Objects Of Desire”)を手掛けたというので猛烈に聴きたかったし、少年ナイフっていったいどんなの? とか、ごく有り体に槇原敬之に関心を持っていたりとか、TASCAMのDA-88がレコーディング業界を席巻していたこと、重さ約10kgの筐体のAKAIのサンプラーCD3000XLに憧れていたり、ジョージ・マイケルのプロダクト・チームがOTARIのRadarを使っているのに随分と関心を持ったり、さらに述べれば、808ステイトのグラハム・マッセイが、自身で所有していたCASIO FZ-1を以前手放してしまっていたからもう一度所有したい、誰か売ってくれえ――というすべてがマンガ的な世界観で満ち溢れていた20代半ばのその《夢》と真逆の《現実》とを往来していた生活が、ラヴロマンスのように儚く、無性に懐かしい。  つまり、金は無いのであった。だから、スザンヌ・ヴェガが新作の中でどのようなふるまいをしていたかはまったくもって想像するしかなかったし、OTARIのRadarで作り上げたジョージ・マイケルの『オールダー』(“Older”)を聴くことができたのは、もっと先の後年になってからであった。ちなみに、808ステイトを脱退したマーティン・プライスの悲喜劇あたりのことは、脳内のどこをつついても思い出すことはできないけれど、もしかすると20歳になるかならないかの時に、実は小耳に挟んでいたことだった――のかも知れなかった。
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 リットーミュージックの月刊誌『Sound & Recording Magazine』の1996年9月号では、音楽プロデューサーの尾島由郎氏が連載していたコラム「世界の縁側」の第7回目にあたり(当ブログ「世界の縁側―幻のNetsound」参照)、WWW上のあるサイトを、ゆるゆると紹介していたわけである。第7回のタイトルは「Music for World-Wide-Web」。そのサイトで当時入手できたとされるアプリに、今頃になってようやく、私の関心が鋭敏に及んだ――。  ちなみにこの時、尾島氏がWWWの“回遊”に使用したのは、ネットスケープコミュニケーションズのブラウザNetscape Naviga…

クウネルと花さかにいさんのこと

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馥郁たる天然の要請に耳を傾ける人。たとえ木訥であっても、草花の芳しき日々を感じ取りながら、精一杯に生きるということ――。そんな人柄を思わせる花人・杉謙太郎氏のことを知ったのは、雑誌『ku:nel』(クウネル)であった。15年前に読んだ誌面での印象があまりにも強烈で、私にとっては、今でも忘れられない“出合い”となっている。
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 マガジンハウスの雑誌『ku:nel』2005.3.1号に、杉謙太郎さんが登場する。誌面の見出しは、「福岡県・吉井町の花さかにいさん。野の花は、羽根にふれるように」。以下、見出し横の付記を引用しておく。 《杉謙太郎さん、29歳。バラ農家の長男として生まれ、でも農薬と肥料で作られたバラにはどうしても惹かれず、華道教室の門を叩き、師を求めてヨーロッパに渡った。迷いながら悩みながら、自分だけの花を探し続ける杉さんが帰る日、気づく日を、裏山の花たちは静かにじっと待っていた》 (『ku:nel』2005.3.1号より引用)
 誌面の中では、家業のバラ栽培での農薬云々の話が、まず強烈に心に残った。――両親はバラ栽培で生計を立てている。杉さんは、高校卒業後に家業を手伝った。40度を超えるビニールハウスでの“農薬散布”が、最も辛かったと語る。大きなハウスの中で半日かけて、毒性の高い農薬を噴射して何度も往復するという。その真意について、杉さんはこう述べていた。 《肥料と農薬で大量生産されたうちのバラはぶくぶくして、“モノ”みたいでした。どっかの酔っぱらいのおじさんが、どっかのスナックのおネエさんに、かすみ草で水増ししてプレゼントするんだろうなあ、と思うとやりきれなかったですね。このバラに食わせてもらっておいて、バチ当たりモンなのですが……》 (『ku:nel』2005.3.1号より引用)
 その後、花のデザインコンペで数々の賞をとり、仕事が殺到。花の教室を開けば、生徒が100人以上に増えたという。そうした矢継ぎ早の仕事で稼いだものの、杉さんは、心身を消耗して自律神経失調症になってしまったのだった。  それからヨーロッパに行き、造園について学ぶ。とある伯爵の、邸宅の庭に咲いていた野バラに、胸が震えた。ビニールハウスのバラとは違う、生命力に溢れたバラだったからだ。そうして地元の吉井町に戻った後、自然に咲いている花たちの、ありのままの姿の美しさに気づく。竹細工職人の…

イエトミのおばちゃんのお好み焼き

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17年前の2003年に書き記した当ブログの「駄菓子屋」という文章。個人的にあまりにも懐かしい事柄として、読み返してみたのだった。  それは昔、母校の市立小学校(私は1985年に卒業)の裏門のちょうど反対側に、“イエトミ”(家富)というこぢんまりとした駄菓子屋があって、少々の生活用品などの雑貨も売られていながら、《白髪交じりのしわだらけの、べっこう飴をやや煮詰めすぎたような顔色》のおばさんが、駄菓子を買いに来る子どもらを相手に、ほとんど“儲け無し”の切り盛りをしていて、私が小学生の時分には、よくその店に出入りし、お菓子を買ったり、お好み焼きを焼いて食べたり――という話。  忘れかけていた記憶が、何かの拍子にふと思い出されるものである。その「駄菓子屋」の文章では、“駄菓子屋のおばさん”と、少々畏まって書いていた。しかしながら、腑に落ちない。不思議なもので、今となっては、主人であったあの人を“おばさん”と呼ぶ気がしないのであった。そういう畏まった感覚が、自分の中から薄らいでいき、今や、完全に消えて無くなって、あの人を“イエトミのおばちゃん”と呼ぶほかは、ないのである。“おばさん”から“おばちゃん”へ。そうした感覚の心情的変遷等々――。紛れもなく、自分の加齢のせいなのだが、随分と昔の話になってしまった。
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 あれを書いた時、私はまだ、30代になったばかりの頃であった。小学校時代の記憶など、たかだか20年も遡る必要がなかったのだ。まだその頃の皮膚感覚では、小学校時代の同級生とたまに会っていた――ということが、たかだか5年前に遡る程度だったこともあって、いわゆる少年時代から引き摺る多少の「リアル感」は、まだ健在だったのである。  よもや、あろうことか、あれからあっけなく長い歳月が流れた――。今となっては、小学校時代の同級生と会う機会など、まったく無いわけで、記憶自体もめっぽう摩滅してしまっている。少年時代から引き摺る「リアル感」などというものは、とうに空っぽになり、何もかもそのディテールを喪失してしまっているのだった。
 冷静に考えてみれば、私が小学校を卒業したのは、もう35年も前のことになるのだ。今の生活の中に、あの頃の人的物理的やらを引き摺っているものが、あろうわけがない。“イエトミのおばちゃん”のことにしたって、顔はまだうっすらと憶えているものの、それ以外のディテ…

茶目っ気たっぷり午後の紅茶の安息日

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休日に温かいアフタヌーン・ティーが飲みたくなって、買っておいたアーマッドティーの「イングリッシュブレックファースト」(AHMAD TEA English Breakfast)を、手持ちのミルク・ボウルに注いで飲んだわけである(前稿の「紅茶と雑貨の微妙な関係」参照)。ミルク・ボウルのそこには、高貴で淑やかな茶葉が、煌めくことなく沈殿して佇んでいた。それはまるで、夕刻のステーションにて時間になってもやって来ない彼氏を待ち焦がれている、ぢりぢりとした心持ちの貴婦人のごとく、沈みきった様子に似た風情で――。
 なんと、麗しき液体の底に茶葉が沈殿しているとは、何事であるか。本来ならば、程よく温められた茶をポットから注ぐ際、ティー・ストレーナー(茶漉し)を当てるべきであり、注がれたカップでは麗しき液体のみを満喫すべきである。でなければ、客人に対して無礼であり無作法である。そうしたことは心得ておくことが必要であるが、これはあくまで自分だけが愉しむアフタヌーン・ティーの、言わば無作法によるエロティックな雑味に過ぎない。
 しかしながら一方、インドのチャイ(Chai)は、ホーロー鍋などを使って紅茶の茶葉をじかに牛乳で煮出しし、シナモンを添えたりする。雑然とした製法ではある。それであっても、ティー・ストレーナーで茶葉を漉すのが望ましいわけで、茶葉が器の底に多く沈殿して残る様相というのは、もてなす側の所作として無頼の《外道》であり、招いた客に出せる代物ではない。何故これがエロティックかというと、まるでその様相が、湯船の中でゆらゆらと佇むピュービック・ヘア(性毛)に似ているからで、やはりそう考えても客人にもてなす茶ではないのである(「イングリッシュブレックファースト」の茶葉ではなかなかそうならないが)。むろん、これは、人文学に寛容なる開高健氏や大江健三郎氏、サルトルなら理解していただけるであろう、実存主義的萌芽の余話なのであった。

§
 さらにそのアフタヌーン・ティーが賢明なる清楚なティーカップに注がれたのではなく、ミルク・ボウルに注がれたとなっては、呆れてものが言えない、いったい何事であるか――。ただし、たいへん恐縮であるけれども、この一点については、私自身も責任を逃れたい無作法であるかも知れない。  とどのつまり、これにまつわる話は、既に前稿で述べている。雑貨スタイリストだった吉…

紅茶と雑貨の微妙な関係

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真っ白な朝靄を窓から覗きながら、朝風呂の湯気の白っぽくて曖昧模糊とした空気が溶け出したその時、〈次の休日の午後には、アフタヌーン・ティーが飲みたい〉と思った。中国茶ではなく、珍しく紅茶である。  ならば後で、アーマッドティーの「イングリッシュブレックファースト」を一缶注文しておこう。アフタヌーン・ティーなのに、ブレックファースト? そんなことはこの際、目をつぶろう。ついでに新しいティーカップも買っておきたい。ティーカップはどんな?――いやティーカップより、ミルク・ボウルがいいのではないか。午後からの庭いじりで気合いを入れるためにアフタヌーン・ティーを飲む、しかもミルク・ボウルで――おや? 自分のことと他人のこととが曖昧模糊に入り混じり、はて、そんな話を、何の本で読んだのであろうかと、頭の回路がしばしハレーションを起こした。
§
 アフタヌーン・ティーのための、アーマッドティーの「イングリッシュブレックファースト」を注文し終わった際、ふと思い出したわけである。そうだったそうだった。その本は、かつて雑貨スタイリストだったエッセイストの吉本由美さんの昔の著書だったなと――。  じゃこめてい出版の本であった。じゃこめてい出版の古い本には、興味深いタイトルの本がいくつかある。『ロンロンママの暮しのお楽しみブック』、『ロンロンママのおしゃれのお楽しみブック』、『ロンロンママの生活探検ブック』。ロンロンママ、ロンロンママ、ロンロンママ。これらはすべて、イラストレーター西村玲子さんの著書なのだけれど、“ロンロンママ”っていったい誰? と私はそれ以上のことを(今のところ)詳しく知らない。西村さんのイラストはたいへんこざっぱりしていて愛着を覚える。いつか探し求めて読んでみたい本ではある。
 閑話休題。午後から庭いじりで気合いを入れるためにアフタヌーン・ティーを飲む――そんなことが書かれていた吉本由美さんの著書は、じゃこめてい出版の『暮しを楽しむ雑貨ブック 85ヶのすてきな物たち』(1983年刊)であった。その中の「伝統的田舎ポットとポットコゼー―おいしい紅茶を飲むために」を読み返すとこう綴られている。 《昼間はダージリンとかアール・グレイを飲みます。こんなこと書いてると、なんとなくシャレた暮しみたいでしょ? ところがホントは違うのね。1週間分の洗濯ものとか山積みの仕事とか、猫の頭の…

幸福に捧ぐるはベアーの編みぐるみ

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音楽制作の一環で自前のジャケット・デザインをこしらえる時、ちょっとした椅子にぬいぐるみのベアーを置いた写真など撮ってはどうか?――などと思案したことがあった。その発想の元になった写真がある。エドワード・スタイケンである。  それとは別に、私淑するmas氏の撮ったベアーもあった。そのベアーの写真を眺めているうちに、なんだかとっても撮る勇気がなくなったのを憶えている。スタイケンは子どもたちのために、そしてmas氏の写真は、あくまで生まれてくる自分の子どものためのベアーの存在であって、私が撮ろうとしていたジャケットのベアーは、それに悖る、何ら意味のないベアーのような気がして、気持ちがすっかり萎えてしまったのであった。
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 mas氏が作成したウェブページ「子育て雑記」には、「編みぐるみと綿花プロジェクト」というコンテンツが現存していて、そこにその貴重なベアーの写真がある。このウェブページはサーバーからいつ消えてもおかしくないので、以下、全文を引用させていただく。 《妻が妊娠中に鈴を中に仕込んだぬいぐるみ(要はソフトなガラガラ)をたくさん作っていた。ボール、象、兎、魚、バナナ、苺、、、、一度、簡単な直線縫いを手伝ったんだけど、楽しいは楽しいんだけど下請けっぽくて、心の底からウキウキはしない。  数日後、ユザワヤに一緒に行ったとき、ひらめいた。早速、作り方と必要な分だけの毛糸が入ったキットとかぎ針を買って帰った。編み物は初めてだったけど、始めてみればすごく楽しい。「小さなことからこつこつと!」、脳内の西川きよしが後押しする。それで、生まれる前にはちゃんと完成できた。初心者にしては可愛くできた。  調子に乗って、その時期がちょうど春ということもあり、綿花を栽培し始めた。中綿も自分で作ろうというわけだ。収穫はできたけど、編み物のほうは、帽子を作っている途中で挫折してしまいました》 (mas氏のウェブ「子育て雑記」の「編みぐるみと綿花プロジェクト」より引用)
 写真としてのコントラストも素晴らしい。とっても可愛らしいベアーは淡黄色で鮮やかであり、背景はほぼすべて陰で沈んで黒ずんでいる。撮影年はおそらく2002年か2003年かと思われる(前回紹介したリー・モーガンの「The Rumproller」のことが書かれたページが2006年作成であり、その時mas氏の愛娘さんは3歳だったから)…

ピッツァからジャズへ〈二〉

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前回からの続き。シチリア風ピッツァの“セモリナ粉”つながりでmas氏の“手料理日記”なるものに着目し、ジェニー・ライトとエリック・トゥルイユ共著の料理図鑑『ル・コルドン・ブルー クッキング・テクニック』(プロトギャラクシー、東京校監修)の本を眺めていると、子どもの頃に夢中になって観ていたテレビ番組「世界の料理ショー」(1970年代に放送されていたカナダの料理バラエティショーで、料理研究家グラハム・カー氏が料理をしながらコミカルなトークを展開する。そのトークのペダンチックな料理解説だとか夫婦ネタでスタジオ内の観客は騒然大爆笑。出来上がった料理は家庭料理ながら贅沢で垂涎の的だった。番組原題は“The Galloping Gourmet”)だったり、サントリーがスポンサーだったテレビ東京(当時は東京12チャンネル)放送の「すばらしい味の世界」という番組では、俳優の柳生博氏が番組進行役で、国内の高級レストランの料理を巧みな映像美で魅せていたのを、ふと思い出す――。mas氏がブログ上で見せてくれた手料理には、そうした風情が香り立つのだった。
 そんなmas氏のウェブを眺めていて、「子育て雑記」というコンテンツの中に、「うちの子のお気に入りの音楽」というページがあったのを見つけて開いてみたのである。これは、mas氏が2006年の12月に作成したページで、愛娘さんが幼児の時に好んで聴いていた音楽を9曲ピックアップしているのだ。
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 そのうちのジャズの1曲が、ブルーノート・レーベルのアルバム『The Rumproller』の1曲目「The Rumproller」であった。トランペッターのリー・モーガン(Lee Morgan)がリーダー。テナー・サックスはジョー・ヘンダーソン、ピアノはロニー・マシューズ、ベースはヴィクター・スプロールズ、ドラムはビリー・ヒギンズで、1965年の録音である。mas氏は、この「The Rumproller」を聴いて踊る愛娘さんについて、こう述べている。《3歳になった秋、ランプローラーのリズムに合わせて、身体を揺らしながら、頭の上で手を叩いたりしている》――。これを読んで私は、リー・モーガンに着目したわけである。2020年の3月末。そのコロナ禍の最中、彼のトランペットの音色に惹き込まれ、夜な夜な身悶えしたのだった。
 そもそも、オルガニストのジミー・ス…

ピッツァからジャズへ〈一〉

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新型コロナウイルスのパンデミックによる“コロナ禍”は、日常生活のあらゆる営みを執行停止状態にしかねない――。少なくとも心理的影響は計り知れなかった。そうしていつの間にか、日常における由々しき事態に片足を突っ込み、人々が今まで見たこともない別世界の扉の鍵穴を覗くことになっていく。あるいはどうであろう。小説『ペスト』を書いたアルベール・カミュが、この現代に生きていたとしたら、どのような世界観を吐露するであろうか。ある人は言う。もはや、この世界はカミュの域を通り越して、カフカ的不条理な世界なのだと――。  こうした不可抗力性に帯びた日々の中で、明と暗を行き来する心持ちが続くのであるが、ここは心情として明の部分を多く綴りたい。私が最近、リー・モーガン(Lee Morgan)のジャズに傾倒してしまった経緯について、それがどんなきっかけであったかを述べることにする。
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 その日注文したそのピッツァは、シチリア風のピッツァであった。チーズはゴーダやパルミジャーノ、モッツァレラ。可愛らしいアンチョビは宮城の石巻産。そのほかケイパーやオリーブがたっぷりと盛られ、大きさは約20cm。このさほどでもない分量のピッツァを独り占めしてぺろりと平らげたところから、リー・モーガン酔狂への道程は始まったのだった。あいにく残念なことに、グレカニコのワインはここでは飲まなかったのだが…。  アンチョビとケイパーの風味が濃厚なシチリア風ピッツァは、口の中に異国情緒の味が拡がった。「ほう、このピッツァは大人向けだね」と独りごちる。生地の香りがまた独特なのに気がついた。この香りは――。ふつうの強力粉の香りではなかった。どうもそれは、セモリナ(semolina)の強力粉が混合されているらしかった。
 ちょうど10年前になる――。カメラや音楽、雑貨などのサブカルで私淑しているmas氏(当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈一〉」参照)が、自身のブログで綴っていた“手料理日記”があった(現時点ではまだウェブ上に存在していた)。それまでカメラや写真中心のブログだったのが、いつの間にか削除され、ほとんど料理のトピックスだけが残されたブログであった。私はあの頃、それをよく見ていたのである。  日付は2010年2月12日。「建国記念日はセモリナ記念日」という見出しの投稿。ここに、イタリアのセモリナの強力…

グローフェの『大峡谷』を聴く

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一言で言い切ってしまえば、今、世界はコロナ禍で冷静さを失い、狂ってしまっている。半錯乱状態である。人心も、政治も、経済も、教育も、文化も、スポーツも。すべて狂ってしまって困窮し、人の死に嘆き悲しみ、先々の展望が見いだせていない。いつかは終息するであろう、日が必ずやって来る。しかし、戦争以外では、例えば米ソの核戦争勃発の危機に瀕した1962年のキューバ危機の時でさえも、これだけ世界中の多くの人々が七転八倒した月日はなかったのではないかと思うのである。  ただひたすら今は、未来の扉へと導く小さな光を探し求め、静謐に堪えるしかない――。ならば、私は大好きな音楽の世界に逃げ込むのであった。  ふと、手に取ったのは、母校の中学校で扱っていた、音楽の教科書である。何故か今、不思議とこの古びた教科書が、輝いて見えるのだ。新型コロナウイルスのパンデミックによって生じた、不条理な心持ちを落ち着かせるためには、私にとって音楽が必要であったし、その基礎や原風景に立ち戻るのが最も良い効果だと信じたのだった。
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 その音楽の教科書は、中学1年の時(1985年=昭和60年)に使用していたのとほぼ同じもので、教育出版株式会社、昭和61年3月31日文部省検定済、平成元年3月31日改訂検定済、平成3年発行の「改訂 中学音楽1」である。これはだいぶ前に入手していた古本であり、この件に関しては、6年前の当ブログで既に書いた(「私たちのレコード・コンサート」参照)。ただし、実際に私の母校の中学校で使用したのは、この改訂版より前の教科書ということになる。が、表紙の絵柄もそっくりそのままで、中身もほとんど変わらないであろうと思われる。したがって、そこに記されている内容は、当時の音楽の授業で扱われた内容だったはずだ。  その頃の中学1年時の音楽の授業を思い返してみても、はっきりと憶えているのは、やはり、東龍男作詞・平吉毅州作曲の「気球にのってどこまでも」を班ごとに合唱したことと、ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi、教科書ではビバルディと表記)の「春」(ヴィヴァルディが1725年に出版した12曲のヴァイオリン協奏曲集『和声と創意への試み』の「四季」のうちの一つ)のレコードを鑑賞したことのみで、もはやそれ以外の記憶を私の脳内から引き出すことは、難しいようである。
 こうして再び懐かし…

写真小説『サーカスの少年』のこと

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中学を卒業してからの高校の3年間は、あっという間に過ぎようとしていた。かろうじてその時、まだ17歳だった。私と友人は、あと数ヶ月で卒業という只中に、こんな会話をしたのである。「俺たちって、もうすぐ18歳になるけど、18歳ってさ、もうオッサンだよな」――。
 部屋の中で一瞬、会話が途切れたのを憶えている。17歳と18歳はやはり根本から違うのだということを、友人は溜息を漏らしながら暗い口調でリアルに告げるのだった。  17歳までは子供として扱ってくれる…。が、さすがに18歳ともなると、既にボクたちは、心も体もすり切れて《少年》ではなくなる。虚栄心が強かった《少年》としての今までとは違い、18歳の“オッサン”になるとは、いったいどういうことなのだろうか。  それは漠然とした不安であった。そうした最後の高校生活をやり過ごそうとしていた頃、ミュージシャンで作詞家の松本隆氏がストーリーを創作した、写真小説『サーカスの少年』刊行の“噂”を、どこからともなく耳にしたのだった。やがて、私と友人は、同じ時期に誕生日を迎え、実体としてとうとう18歳という“オッサン”になっていった。そうなると自ら観念し、その事実に屈伏せざるを得なかったのである。
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 まさに私が、《少年》と訣別を果たした直前の、1990年春。リアリスティックに刊行された『サーカスの少年』(東京書籍)という写真小説の“噂”は、おそらくラジオかなにかで知り得た、些細な話題の一片だったのだろう。  『サーカスの少年』――。モデルから転身し、写真家デビューを果たした安珠氏の純真なるフォトグラフが濃密に収録された写真小説本。松本隆氏が綴った軽いタッチの小説の内容は、そうした風の“噂”で耳にしていたのかも知れなかった。
 ――都会の沿線のとある町。両親を交通事故で失い、ひとりぼっちになった少女“そよぎ”が、学校にも行かず、この町にひっそりと暮らしている。電車の操車場に面した家には、父親がかつて集めていた骨董の古時計があちらこちらにちらばってある。
 ある日、湯船に浸かっていた“そよぎ”は、線路の上の電線が見える天窓から、浴室にいる自分の顔を覗き込む不思議な“少年”と出会う。“少年”は、この町にやって来たサーカス団の一員で、綱渡りの芸の練習のために電線の上を歩いていたのだ。駅の近くの空き地には、サーカス団の巨大なテントが張られ、…

『洋酒天国』―美しい食と酒の世界

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いつだったか知り合いからいただいた、オードブルならぬ「つきだし」のお裾分け――ちくわの穴っぽこに柴漬けの茄子を詰めた――はたいへん美味かった。当然、酒の肴にしたかったのだけれど、あいにく酒を飲む場ではなく、また宴の夜でもなく、甘口の日本酒の旨味をめいっぱい想像しながら、気分でそれを味わう以外になかった――のがとても残念に思われた。  若い頃にはそういった深々とした趣に思い至ることはなかったにせよ、酒を飲みつつ食の贅にありつけることは、なんと悦楽で至福なことか。これぞまさしく文化。決して高級な酒など必要ない。そこにひとつまみの幸福が佇んでいるということ。こうした美しい食と酒の文化について、今回紹介する『洋酒天国』の号では、随分とロマンティックな気分にさせられた、次第である。
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 毎度おなじみ、壽屋(現サントリーホールディングス)PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第54号は、昭和37年8月発行。  昭和37年(1962年)の世相を思い出すのに好都合な社会・文化史をいくつか独断で抜粋すると、こうなる。――4月に日本アートシアターギルド(ATG)が第1回作品『尼僧ヨアンナ』(監督はイエジー・カヴァレロヴィッチ)を封切り。8月、海洋冒険家の堀江謙一氏が小型ヨット「マーメイド号」で92日間の太平洋横断に成功し、サンフランシスコに到着。11月、唐十郎氏が状況劇場を結成。いわゆる“アングラ演劇”。その一派の台頭は、時代の物々しさを物語っていた。その頃の流行歌を大雑把に挙げると、飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」、ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」、フランク永井の「君恋し」。この年の10月、国際政治の史実としては、キューバ危機があった。
 従来のヨーテンの本のサイズは、てのひらサイズのB6判。ところが、第51号(昭和36年6月)からはひとまわり大きいサイズのA5判に刷新されていたのだった。やはり、本のサイズが変わるということは、自ずと中身の印象も変わってくるわけで、文章の量がそれなりに増え、例えば酒に関する形容や修辞なども、冗長かつ饒舌に、しかもねばっこく執拗なくらいになっている。  A5判のヨーテンは、とどのつまり、軽いエロティックなユーモアを抑え、格調を高くしようと努力した形跡がある。《季刊の特集方式に切り替え》た――と、かつてヨーテンの編集を担当していた小玉武氏は、著書『「洋酒…