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1月, 2020の投稿を表示しています

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クウネルと花さかにいさんのこと

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馥郁たる天然の要請に耳を傾ける人。たとえ木訥であっても、草花の芳しき日々を感じ取りながら、精一杯に生きるということ――。そんな人柄を思わせる花人・杉謙太郎氏のことを知ったのは、雑誌『ku:nel』(クウネル)であった。15年前に読んだ誌面での印象があまりにも強烈で、私にとっては、今でも忘れられない“出合い”となっている。
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 マガジンハウスの雑誌『ku:nel』2005.3.1号に、杉謙太郎さんが登場する。誌面の見出しは、「福岡県・吉井町の花さかにいさん。野の花は、羽根にふれるように」。以下、見出し横の付記を引用しておく。 《杉謙太郎さん、29歳。バラ農家の長男として生まれ、でも農薬と肥料で作られたバラにはどうしても惹かれず、華道教室の門を叩き、師を求めてヨーロッパに渡った。迷いながら悩みながら、自分だけの花を探し続ける杉さんが帰る日、気づく日を、裏山の花たちは静かにじっと待っていた》 (『ku:nel』2005.3.1号より引用)
 誌面の中では、家業のバラ栽培での農薬云々の話が、まず強烈に心に残った。――両親はバラ栽培で生計を立てている。杉さんは、高校卒業後に家業を手伝った。40度を超えるビニールハウスでの“農薬散布”が、最も辛かったと語る。大きなハウスの中で半日かけて、毒性の高い農薬を噴射して何度も往復するという。その真意について、杉さんはこう述べていた。 《肥料と農薬で大量生産されたうちのバラはぶくぶくして、“モノ”みたいでした。どっかの酔っぱらいのおじさんが、どっかのスナックのおネエさんに、かすみ草で水増ししてプレゼントするんだろうなあ、と思うとやりきれなかったですね。このバラに食わせてもらっておいて、バチ当たりモンなのですが……》 (『ku:nel』2005.3.1号より引用)
 その後、花のデザインコンペで数々の賞をとり、仕事が殺到。花の教室を開けば、生徒が100人以上に増えたという。そうした矢継ぎ早の仕事で稼いだものの、杉さんは、心身を消耗して自律神経失調症になってしまったのだった。  それからヨーロッパに行き、造園について学ぶ。とある伯爵の、邸宅の庭に咲いていた野バラに、胸が震えた。ビニールハウスのバラとは違う、生命力に溢れたバラだったからだ。そうして地元の吉井町に戻った後、自然に咲いている花たちの、ありのままの姿の美しさに気づく。竹細工職人の…

さだまさしの「軽井沢ホテル」

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自分の学生時代の頃のことを思い出すのは、身悶えするような切なさを伴う。同じ地べたを踏み歩いてきた幼き頃の自分――というのとは少し感覚が異なって、まったく《異世界》に居た、別人に近い自分に思えるからである。世の受験シーズン、卒業シーズン、そして入学シーズンの話題を聞くようになると、そうした学生時代の過去の一幕を無為に振り返ってしまうのは、大人の悲しい性である。時には思い出さなくいいことまで、余計に思い出してしまうこともあり、記憶とは、泥にまみれた水滴の残滓、という言い方がこの場合は好ましい。
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 私が中学・高校生だった頃は、夜ともなれば、AMやFMのラジオ番組に夢中になっていて、あちらこちらのラジオ局の、お気に入りの番組に耳を傾けていたように思う。そうしてそこから、情趣ある音楽のそこはかとない世界に迷い込むことが多かったのだけれど、35年前に買ったレコード――さだまさしさんが歌う「軽井沢ホテル」――には、中学校時代の個人的な情念が深く入り込んでしまっていて、いま聴くと、苦くて切ない。そうした切なさの香りは、喜怒哀楽を現実のものとして氷解させ、呼び起こすことにもなるのだった。  35年前の1985年(昭和60年)。私は中学1年生だった。気心知れた小学校の旧友とは離ればなれとなっており、クラスメートの大半はほとんど初めて出会う男女であった。それだけでも多分に、息苦しかった。初めて見る顔に戸惑いを覚えた、と辛い記憶しかない。
 初めての学校、初めての教室、初めての担任に、初めてのクラスメート――。違和感だらけであった。真後ろの席の男子とは、すぐに仲良くなった。しかし、全体の違和感の溝は、なかなか埋まらない。授業が始まっても、なんとなく気持ちが上の空で身が入らないのだった。  落ち着く先を見つけるため、旧友が入部したという演劇部に入った。やはり旧友と部活の中で話をすると、心が和む。しかも演劇部の部長が、何気に美しかったのである。部長は3年生の女子で、なんと聞けば、自分のクラスの、真後ろの席の男子の姉だったのだ。これでいっそう愉快な気分となった。演劇部は居心地が良かった。中学1年の私は、演劇部の部長に仄かな恋をした。
 さださんがパーソナリティをやっていた「さだまさしのセイ!ヤング」という文化放送のラジオ番組(毎週土曜の夜11時放送)を聴いていたのは、その頃のことである…

「聴く演劇」のニヒルなリアリズム

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演劇にまつわる“個人的なこと”を先に書いてしまおう。  2015年頃より、《舞踏》という形態に関心が及んで、その資料の一環として、ベルリンの演出家で振付家であるサシャ・ヴァルツが演出した、初期3部作のDVDをむさぼり魅入っていたのが、懐かしく感じられる(当ブログ2016年3月「サシャ・ヴァルツの舞踏的世界へ」参照)。それとは並行して、演劇界隈に関心がある私は、以降、東京近辺で若い大学生らが公演する演劇をたびたび鑑賞する機会があって、彼らの感性豊かな創造と詩情溢れる世界観に感応し、とても刺戟的な数年間を過ごすことができたのだった。  こうした《舞踏》と演劇とのあいだにある、見えない感覚の“振り子”への確信は、すなわちこういうことである。〈今盛んに実験が行われているのは、日常から分離された《視覚》と《聴覚》との対話性が現代人の関心を呼びつけ、演劇という最も愚直で直観的な身体表現に寄りかかっていることであり、《舞踏》との距離感に揺らいでいると思われる。人間の普遍的な「知」と「情」と「感」に触れ合う空間こそが、演劇のポテンシャルであり続けるのだ〉――と。
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 2020年1月9日付朝日新聞夕刊の文化面に、現代演劇の定点観測を主張した記事が掲載された。見出しは「視覚偏重からの転換 耳澄ます演劇がもたらす再認識」(筆者は演劇研究者・岩城京子)。たいへん優れた論考でありつつも、書かれている内容が少々難解で、分かりづらい。がしかし、私はこのことについて深く言及したくなったのである。記事では大きく分けて、3つの論点(論旨)が述べられているのだが、ここではなるべく分かりやすくして3つの論点を読み解いていくことにする。
 全体としてみると、筆者・岩城京子氏の「視覚偏重からの転換 耳澄ます演劇がもたらす再認識」は、現代演劇の進捗と変調の兆しが記されていてとても興味深い。 3つの論点(論旨)の最大公約数は、「聴く演劇」についてなのだ。と言っても別段、演劇には「聴く演劇」という決まり切った形式だとかカテゴリーがあるわけではない。人の感覚として、視覚性よりも「聴く」要素の強い演劇のことを、ここでは敢えて「聴く演劇」と名づけておくことにする。ちなみに記事の中ではこれを、「聴覚演劇」(オーラルシアター)としている。

 3つのうち、まず最初の第一の論点(論旨)を読み解いていくと、この「聴く演劇」…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈終〉

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可憐な中国茶を愉しみながら、私淑するmas氏の“中国茶とサブカル”に関する、幻のテクストを味わうシリーズ(前回はこちら)。WWWのサーバー上に放置されたmas氏のウェブサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)にはいくつかの旅行記が残存しているが、彼とその家族が2004年と2006年に訪れた、千葉県の鴨川での“フォト日記”などを眺めると、しごく幽玄な情緒に溢れ、もしかすると私が最も好きなmas氏のフォトグラフであるかも知れないと思った。その複数のフォトに添えられていたテクストを以下に再録してみる。
《BE-NICE RECORDS KAMOGAWA, 200405 和泉多摩川にあったビーナイスレコードが房総南端の鴨川にネット専門店として移転してから1年ということで、遊びに行かせてもらった。豊かな自然、温かい人びと、美味しい食べ物。豊かで幸せな人生とは、こういう生活なのかもしれないなぁとつくづく思った。そして、そのためにそそがれる愛情、熱意、知恵、知識などなど諸々のものは、一昼一夜で得られるものではないよなぁとも思った。本当に尊敬してしまった》
《BE-NICE RECORDS KAMOGAWA, 200612 2年半ぶりに南房総は鴨川のビーナイスレコードに立ち寄らせてもらった。月日が経つのは早いもので、前回からメンバーがふたり増員。みんなで裏山のハッサクを食べた》 (ウェブ[msbcsnb]「鴨川200405」「鴨川200612」より引用)
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 これらの写真はすべて、フィルム現像によって印画したプリントをデジタル・スキャニングした、“写真画像”である。すなわち、銀塩カメラを用いて撮影されたものだ。最近ではこうした注釈を入れておかないと、元がフィルムだったかピクセル・データだったか、ウェブ上の画像だけでは判別がつかなくなってきているのである。  当時、mas氏はまだデジタル・カメラなるものを所有していなかった――。そのことについてはよく憶えている。彼はこの時、お気に入りのライカかニコノス(NIKONOS-V)のカメラを持参して撮影をおこない、フィルムを現像し、印画紙にプリンティングしたものをウェブ用にデジタル・スキャンしている。さらにこうしてよく眺め、あの頃mas氏はどんなレンズを用いたか――を…

細江英公と『洋酒天国』―第46号再び

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当ブログで『洋酒天国』を初めて紹介したのは、9年前の2011年7月。月日の経つのは早い。それ以来、不定期で各号を紹介し続けているが、未だ完結をみない。『洋酒天国』は昭和30年代に第1号から61号まで刊行された。昨年の10月には、その記念すべき第1号を紹介した(「幻の『洋酒天国』創刊号ついに登場」)のだが、今年中にはもしかすると、すべて紹介し終わるのではないか――という淡い期待と予感めいたものがある。何しろ現時点で、第58号がどうにもこうにも見つかっておらず、先行きは不透明なのだけれども…。  今回は、初めて当ブログで『洋酒天国』を紹介した際の、第46号を再び書くことにする。実はこの号、2013年9月に「『洋酒天国』と三行案内」、10月には「『洋酒天国』と異邦人」と、2度ばかり書いているにもかかわらず、その中身がほとんど触れられていなかったのだ。ということで今回は、真正面から第46号の中身を紹介することにしよう。
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 壽屋(現サントリーホールディングス)のPR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第46号は、昭和35年5月発行。表紙は、日曜大工(?)に精を出すアンクル・トリス。これを描いたのはイラストレーターの柳原良平氏。柳原氏は、“ヨーテン”編集部になくてはならぬ鉄壁のお抱えイラストレーターであった。  昭和35年の世相をざっくばらんに列挙してみる――。この頃“インスタント”という言葉が流行り、いわゆる“即席ラーメン”など簡単調理の食品が増えてきた時代。料理ができない男どもが、家庭で簡単に調理できるという点で画期的であった。カラーテレビの本放送が始まったのもこの年。そう、オモチャの“ダッコちゃん”人形が大流行した。路上を歩く若い女性たちが、腕にダッコちゃんを巻き付け、自身の可愛らしさを演出していたのは健気である。そういうニュース映像を見たことがあった。  書籍では、井上靖の『敦煌』がベストセラーに。北杜夫のユーモア満載のエッセイ『どくとるマンボウ航海記』もこの頃のベストセラーだ。流行歌では赤木圭一郎の「霧笛が俺を呼んでいる」、松尾和子&和田弘とマヒナスターズの「誰よりも君を愛す」がヒット。映画では、チャップリンの『独裁者』やアラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』がヒット作。魯迅の作品の翻訳家でも知られる竹内好がこの頃、安保闘争の強行採決に抗議して、東京都立大学の教授を…