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チャップリン映画の麗しき追憶―『モダン・タイムス』考

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39年前の1981年7月29日の夏――。映画評論家の水野晴郎氏が名口調で映画を解説するテレビ番組『水曜ロードショー』を、その日、まだ小学生だった私が、夏休みの最中で“観ていたかも知れない”という仮説をもとに、当時放映されたチャールズ・チャップリン監督の映画『モダン・タイムス』(“Modern Times”)をもう一度追体験するべく、ごく最近、それを観たのだった――。番組のテーマ曲である高らかなニニ・ロッソのトランペットを聴きながら、少年時代の映画三昧の日々が思い起こされる(当ブログ「水曜ロードショー―少年は夜の映画に花開く」参照)。
 チャップリンの映画を観たのは、本当に久しぶりで、いったい何年ぶりとなるのだろうか。在りし日の『水曜ロードショー』の懐かしみと、溺愛するまでにチャップリン映画に傾倒していた少年時代への追憶とが相まって、それは実に感慨深いものであった。  あの頃、各局が放映する年間の一定量の映画コンテンツの中で、チャップリン映画“連作”というのは、いわゆる、大衆が好む“プログラム・ピクチャー”だった。そのことが反映して、私が幼少期から少年時代にかけて、どれだけチャップリンの“活劇”を観る機会があったか――。思い起こせば、何と贅沢な、貴重な映画三昧の日々であったか、ということである。むろん、チャップリン映画のそれぞれの作品の、それぞれのシーンが生々しく甦ってくるのだけれど、それだけではなく、彼のマイムのリズムとテンションというものが映像を通じて、私の身体にも宿って連動し、その体内記憶を保有したまま、今も尚そのアクションの発動が、身体から立ち起こることがあるのである。それくらいあの頃、チャップリン映画にこだわってよく観ていたのだった。
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 アメリカ・カリフォルニアのミューチュアル社で製作された頃の作品、すなわち1916年以降のチャップリン作品群に登場する、愛すべき“紳士”=放浪者チャーリーは、まさしくスラップスティックな存在でありながら、演じたチャップリンが若かったせいか、まだどこか未成熟な品格ゆえの、利己主義的なえげつなさを醸し出すアクションが垣間見られた。ハリウッドのファースト・ナショナル社における1918年以降の作品から『偽牧師』(“The Pilgrim”1923年)あたりになると、そうしたえげつなさは徐々に消えてなくなり、チャーリーの愛くる…

「聴く演劇」のニヒルなリアリズム

【2020年1月9日付朝日新聞夕刊「耳澄ます演劇がもたらす再認識」】
 演劇にまつわる“個人的なこと”を先に書いてしまおう。
 2015年頃より、《舞踏》という形態に関心が及んで、その資料の一環として、ベルリンの演出家で振付家であるサシャ・ヴァルツが演出した、初期3部作のDVDをむさぼり魅入っていたのが、懐かしく感じられる(当ブログ2016年3月「サシャ・ヴァルツの舞踏的世界へ」参照)。それとは並行して、演劇界隈に関心がある私は、以降、東京近辺で若い大学生らが公演する演劇をたびたび鑑賞する機会があって、彼らの感性豊かな創造と詩情溢れる世界観に感応し、とても刺戟的な数年間を過ごすことができたのだった。
 こうした《舞踏》と演劇とのあいだにある、見えない感覚の“振り子”への確信は、すなわちこういうことである。〈今盛んに実験が行われているのは、日常から分離された《視覚》と《聴覚》との対話性が現代人の関心を呼びつけ、演劇という最も愚直で直観的な身体表現に寄りかかっていることであり、《舞踏》との距離感に揺らいでいると思われる。人間の普遍的な「知」と「情」と「感」に触れ合う空間こそが、演劇のポテンシャルであり続けるのだ〉――と。

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 2020年1月9日付朝日新聞夕刊の文化面に、現代演劇の定点観測を主張した記事が掲載された。見出しは「視覚偏重からの転換 耳澄ます演劇がもたらす再認識」(筆者は演劇研究者・岩城京子)。たいへん優れた論考でありつつも、書かれている内容が少々難解で、分かりづらい。がしかし、私はこのことについて深く言及したくなったのである。記事では大きく分けて、3つの論点(論旨)が述べられているのだが、ここではなるべく分かりやすくして3つの論点を読み解いていくことにする。

 全体としてみると、筆者・岩城京子氏の「視覚偏重からの転換 耳澄ます演劇がもたらす再認識」は、現代演劇の進捗と変調の兆しが記されていてとても興味深い。
3つの論点(論旨)の最大公約数は、「聴く演劇」についてなのだ。と言っても別段、演劇には「聴く演劇」という決まり切った形式だとかカテゴリーがあるわけではない。人の感覚として、視覚性よりも「聴く」要素の強い演劇のことを、ここでは敢えて「聴く演劇」と名づけておくことにする。ちなみに記事の中ではこれを、「聴覚演劇」(オーラルシアター)としている。

 3つのうち、まず最初の第一の論点(論旨)を読み解いていくと、この「聴く演劇」のスタイルが、西欧の演劇界で勃興している――ということである。インスタグラムを例にとり、SNSの世界は、言語(テクスト)によるチャット方式の通信手段を基本としながらも、既にその領域を凌駕して、視覚要素の強い過剰なシナプスと化し、お互いがお互いのビジュアル効果(作品)を褒め合うペルソナに陥っていること。また欧州では「弱者の演劇」が流行り、そこでも分かりやすい弱者に拍手喝采するペルソナの、《ほとほと無益な演劇》が広まっていたこと。そしてその反動として、「視覚中心主義」から乖離した、「聴覚演劇」(=「聴く演劇」)が盛んになってきた、というのが骨子で、この最初の論点(論旨)における以下の文章は、きわめて難解はであるが、現代演劇のダイアローグとして、一片のヒントとなるだろう。
《かつて文芸評論家のガヤトリ・スピヴァクは、サバルタン(従属的社会集団)が支配層の言論ゲームに乗らずに語ることは困難だと説いた。だが「サバルタンは語ることができるか」という問いは、そもそも筋違いだったのかもしれない》
(2020年1月9日付朝日新聞夕刊「視覚偏重からの転換 耳澄ます演劇がもたらす再認識」より引用)

 2つめの論点(論旨)に移る。
 《強者が「何を聴くか」》。スイスのチューリヒ・シアター・スペクタクル演劇祭での、シリア人の作家ムハンマド・アル=アッタール氏の実験演劇『アレッポ:不在の肖像』について。戦火で失ったアレッポの街の人々(演者)の証言を、わずか10人の参加者(観客)が机に向かい合って聴く――という演劇である。
《会場を訪れた客は、アレッポの街を構成する1区画を無作為に選び、各地区を表す机の前に着席する。しばらくすると、その地区の記憶を物語る証言者が机の反対側に静かに腰かけてくる。「私の話を聞いてくれますか」という問いにはじまり、感情を押し殺し訥々と語る証言者の声に、観客は耳を澄ます。約40分の峻烈な沈黙。観客は証言者たちが精密機械図のように脳裏に刻んだ、今はなきアレッポという街の「目撃者」ならぬ「耳撃者」になる》
(2020年1月9日付朝日新聞夕刊「視覚偏重からの転換 耳澄ます演劇がもたらす再認識」より引用)

 そもそも演劇とは何か――という根源に迫る実験的な演劇だと思われる。常識的な演劇の形態形式そのものが、弱者(少数派)から強者(多数派)への語り(証言)の劇(ドラマ)であり、舞台及び美術装置と演者という三位一体の視覚を伴って進行する劇(ドラマ)を、観客が「目撃」するかたちとなる。
 『アレッポ:不在の肖像』の場合、視覚性を排除した、と言いきってよいか、厳密な意味においては、机を介した目の前の証言者の姿――演出として無機質であろうがなかろうがその顔を見ながら「言葉」を聴くことになるのだから、その空間で座視することも含め、視覚性がまったくないわけではないだろう。観客によっては、証言者の声は右から左へと聞き流し、その証言者の顔ばかりが気になって、視覚情報のみインプットされる人もいるのではないか。まさにこれが強者の「意識の自由」なるものなのだが、重要なことは、視覚性を排除することにあるのではなく、徹底的に耳に訴える装置(空間)をこしらえ、音(言葉)として記憶に訴える形態への、「模索」であり「回帰」なのである。

 最後の3つめは、不毛とも退屈とも冗長とも受け取られかねない“聖歌”を、延々3時間も聴く「瞑想的インスタレーション」について。フランスの振付家・歌手・歴史研究家フランソワ・シェニショーがアレンジした聴覚パフォーマンスは、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの『天からの啓示による協和合唱曲』(Symphoniae armoniae celestium revelationum)をリクライニング・シートに座らされた観客が鑑賞するというものだ。
《設置されたリクライニング・シートの心地良さとともに睡魔の誘惑に負けるかと思う。だがその見事に調律された清澄な歌唱は、あるときから無意味な退屈さではなく、意味という名の雑音を体内から排除する純音的快楽に変容する》
(2020年1月9日付朝日新聞夕刊「視覚偏重からの転換 耳澄ます演劇がもたらす再認識」より引用)

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 筆者がはじめに述べているように、現代はまさしく「視覚中心主義」でうごめいている。目に見えるものは単純で分かりやすいからである。
 かつて一般個人が「カメラで撮影する」ことは、“特別な何か”を記録することが建前としてあり(運動会とか結婚式とか旅行とか)、フィルムの現像及び焼き増しの行為は化学的専門知識と技術が必要であるから、そうしたサービス業者に代金を払って委託するといった面倒なものであった。
 ゆえに、そうした写真やカメラといった視覚芸術を伴う機械装置は、個人趣味の領域の道具であったのに対し、21世紀になると、ケータイの爆発的な普及からカメラ・アプリやペンツールなどの高品位なデジタル技術の進歩によって、誰でも簡単に美しく“映える”画像を記録することができるようになり、誰でも簡単に巧妙なるグラフィック・アートの先駆者となれるようになった。なおかつそのレンズが追うべき被写体は、運動会や結婚式や旅行の風景からペットの犬の糞にまで及ぶ。今や犬の糞が、芸術となり得るのである。
 ともあれ大衆は今、視覚性の強い刺戟に酔いしれている過渡期にあって、もう一方の聴覚による表現性が前時代と比べ、相当もしくは幾分、置き去りにされてきたかのように思われる。

 こうした現代の視覚偏重に嫌気がさし、聴覚性の現出とその効果に期待する表現者が増えてきていることを、新聞記事「視覚偏重からの転換 耳澄ます演劇がもたらす再認識」では示唆している。
 しかしながら演劇は、古代より総合芸術の才華であり、その全体性を満遍なく包括するか、あるいは部分的に視聴覚の有形無形の表現を端折って、つまみ取ったミニマムな形態にするかの違いだけで、いずれにせよ演劇は、依然として、古典(芸術の継承性)と前衛の親和によるものなのである。むろん、視覚と聴覚による表現がそれを支えていることは言うまでもなく、この二つの感覚性から逃れることはできない。

 筆者が最後に述べている、《西欧近代社会では、視覚及び活字文化が優先されすぎ》て、《多くの視覚情報が加工され、活字が虚偽を含むとき、より裏切りのない感覚器官へと向かうのは誠実な方向転換のように思う》は、少々単眼的な短絡しすぎた論だと私は思う。聴覚に訴える「言葉」が視覚情報よりも嘘を言わないものなのか、音が真意の相(真実)に近いものであるかのように錯覚を起こせば、同じことの繰り返しでさらに悲惨な時代がやってくることになる。皮肉にもあのアレッポには、街という視覚がなかっただけにすぎない――。

 「視覚中心主義」に陥った現代の人間社会が、“捏造された視覚”だらけの、実にファンタジックな世界の瑣末になりかけていることに、多数派が気づき始めたのである。そもそもデジタルの複製技術の特性は、視聴覚を問わずして、モノゴト(データ)を捏造しやすくするものなのである。この捏造性から身を守る術は、いったいどこにあるのだろうか。他者と自己という関係の中で、それぞれの全知全能が問われる“ニンゲン性再変革”の時代がやってきたのである。

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