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早熟だったブルージン・ピエロ

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35年前の、私の中学生時代の回想――演劇部の部長に仄かな恋心を抱き、さだまさしの「軽井沢ホテル」を聴きながら、夢うつつの日々を送っていた――ことは以前書いた(「さだまさしの『軽井沢ホテル』」参照)。小学4年生の時、既に《失恋》という暗澹たる想念の災いを子供ながらに経験して、それから3年が過ぎようとしていた中学1年の夏の、演劇部での仄かな恋心というのは、総じて早熟な恋模様の、いわゆる中学生らしからぬ――あるいはまさにこれこそが悶々とした思春期の中学生らしさか――《破廉恥な領域》の行き来を意味していたのである。  演劇部の部長(3年生)が意外なほど、大人びて色気づいていたせいもあった。「軽井沢ホテル」とはまた別のかたちで、曲の中の主人公に自分を見立て、夢の中を彷徨っていた月日――それが稲垣潤一の歌う「ブルージン・ピエロ」であった。
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 1985年の夏。その頃の私の嗜好の営みは、深まりつつある夜の時間帯の、ラジオを聴くことであった。ラジオを聴き、初めて稲垣潤一の粘っこい、粘着質のある歌声を発見して、心が揺さぶられたのである。レコード・ショップに駆け込んで7インチのシングルを買うという行動に移ったのは、「軽井沢ホテル」とまったく同様だ。ただし、濃厚だったのは彼の声質だけではなかった。この「ブルージン・ピエロ」の独特のメロディと歌詞の、その大人の恋の沙汰の印象が、あまりにも何か、まるで暗がりの中の不明瞭な色彩を示唆しているかのようで、言わば《破廉恥な領域》の気分を刺戟したのである。五分刈りの頭部が一人の少年の羞恥心の、そのすべてを記号化していた中学1年生の自己の内面では、それがまだ充分には咀嚼できずに、消化不良を起こしていたのだった。そうして次第に、自身の恋沙汰の象徴からこの曲は除外されていった。 《下手なジョークで 君の気をひこうと 必死な ブルージン・ピエロ 下手なダンスで 君を離さないと ささやく ブルージン・ピエロ 君の気持ちはもう 決っていたのに 僕だけ 知らない》 《あの時 君は大人で そして優しくて バカだな 僕はそのまま 愛を信じてた 今でも 今でも 僕は ブルージン・ピエロ》 (稲垣潤一「ブルージン・ピエロ」より引用)
 歌詞にしても、また全体の曲の雰囲気からしても、「ブルージン・ピエロ」の熱気と予感めいた破局というものは、中学生の心にはあまりにも理不尽に早すぎた。イントロはエロテ…

イエトミのおばちゃんのお好み焼き

【かつてそこは駄菓子屋であった。そこにおばちゃんが立っていた】
 17年前の2003年に書き記した当ブログの「駄菓子屋」という文章。個人的にあまりにも懐かしい事柄として、読み返してみたのだった。
 それは昔、母校の市立小学校(私は1985年に卒業)の裏門のちょうど反対側に、“イエトミ”(家富)というこぢんまりとした駄菓子屋があって、少々の生活用品などの雑貨も売られていながら、《白髪交じりのしわだらけの、べっこう飴をやや煮詰めすぎたような顔色》のおばさんが、駄菓子を買いに来る子どもらを相手に、ほとんど“儲け無し”の切り盛りをしていて、私が小学生の時分には、よくその店に出入りし、お菓子を買ったり、お好み焼きを焼いて食べたり――という話。
 忘れかけていた記憶が、何かの拍子にふと思い出されるものである。その「駄菓子屋」の文章では、“駄菓子屋のおばさん”と、少々畏まって書いていた。しかしながら、腑に落ちない。不思議なもので、今となっては、主人であったあの人を“おばさん”と呼ぶ気がしないのであった。そういう畏まった感覚が、自分の中から薄らいでいき、今や、完全に消えて無くなって、あの人を“イエトミのおばちゃん”と呼ぶほかは、ないのである。“おばさん”から“おばちゃん”へ。そうした感覚の心情的変遷等々――。紛れもなく、自分の加齢のせいなのだが、随分と昔の話になってしまった。

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 あれを書いた時、私はまだ、30代になったばかりの頃であった。小学校時代の記憶など、たかだか20年も遡る必要がなかったのだ。まだその頃の皮膚感覚では、小学校時代の同級生とたまに会っていた――ということが、たかだか5年前に遡る程度だったこともあって、いわゆる少年時代から引き摺る多少の「リアル感」は、まだ健在だったのである。
 よもや、あろうことか、あれからあっけなく長い歳月が流れた――。今となっては、小学校時代の同級生と会う機会など、まったく無いわけで、記憶自体もめっぽう摩滅してしまっている。少年時代から引き摺る「リアル感」などというものは、とうに空っぽになり、何もかもそのディテールを喪失してしまっているのだった。

 冷静に考えてみれば、私が小学校を卒業したのは、もう35年も前のことになるのだ。今の生活の中に、あの頃の人的物理的やらを引き摺っているものが、あろうわけがない。“イエトミのおばちゃん”のことにしたって、顔はまだうっすらと憶えているものの、それ以外のディテール(髪はパーマネントだったか、ストレートか、茶髪に染めていたか否か、サンダルを履いていたか否か、ストッキングを穿いていたか否か、等々)はもはや、思い起こすことができなくなってしまっている。
 反面――これは本当にばかげたことだが――心の奥底では、〈自分はまだ小学生のままでいたい――〉と思い込んでいる節がある(小学1年生の時、近所のおばさんから、体が大きくて小学5年生くらいだと思われていたことは、脳裏に残る強烈な瑣事であったり)。内面的には、今、学校の裏門からランドセルを背負って家まで歩いてきたとしても、まったく違和感がないであろう、すなわち私はまだ、小学校を“卒業していない”子なのであった。

 そうしたことは、私だけに起こる異常な心理であろうか。
 遠い過去の記憶が薄らいでいる。17年前に書いた「駄菓子屋」の文章を久しぶりに読み返してようやく、〈ああ、そうだった。“イエトミ”は、そんな駄菓子屋だったよなぁ〉と、どういうわけだか胸を撫で下ろし、過去の記録物に扶けられた次第である。
 夏休み中の市営プール(母校の小学校のプール施設が夏の期間だけ、市営のプールとして扱われていた)で泳いだ後――。裏門を出て目の前の“イエトミ”に寄り、喉が渇いたので、ラムネか何かのジュースを買って飲む。普段の放課後では、学校帰りに直接、この店に寄ったりはしなかった。店が学校と目と鼻の先なので、もし直接寄ったら、クラスメートの女子(クラスの監視員と言っていい)に見つかってチクられ、あとでこっぴどく先生に怒られるから。もしかすると、一度か二度くらいは、そういう経験があったのかも知れないが…。ともかく、この店に寄る場合は――正直、かなり面倒な行動ではあるけれど――いったん家に帰ってランドセルを置いてきて、それから自転車に乗って再び戻ってくるわけである。

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【ノスタルジックに浸れる“イエトミ”のお好み焼きを再現】
 さて、こうして、“イエトミのおばちゃん”のことを、もう一度書いておきたいと思ったわけだが、《白髪交じりのしわだらけの、べっこう飴をやや煮詰めすぎたような顔色》の“おばちゃん”が、本当に今、懐かしく感じられる。

 先日、小学校の裏門のあたりを訪れてみた。ところが、もういつの頃からなのか、“イエトミ”のあった土地の、当時の家屋そのものは、なんと敷地の奥まった場所へ十数メートルほど移動されていて、ほとんど物置小屋のように成り果てていた(多少、改築されたようにも見えた)。そしてその土地の周囲は、ごくごくありふれた住宅街の一角と化してしまっていて、昔の面影はない。そこにかつて店が構えられていて子どもらの往来で繁盛していた痕跡は、完全に無くなっていたのである。

 感慨に耽っているうちに、“イエトミのおばちゃん”の、あの懐かしいお好み焼きが食べたくなった。今、それを自分でこしらえて再現してみることにした。あの時のお好み焼きは、いったいどんなふうで、どんな味だったか――。

 青のり 60円
 桜エビ 80円
 イカ  80円
 紅ショウガ 60円
 ミックス 200円

 “イエトミ”のお好み焼きメニューの中で一番安くて60円だった、「青のり」のメニューを再現してみた。
 材料は小麦粉と青のり(食材として厳密に言うと、青のりではなくアオサのり)。それから、お好み焼きにかけるウスターソース(中濃)。これらを、スーパーで買ってきたわけである。“イエトミ”のお好み焼きは、はっきり言って、もんじゃ焼きよりもシンプルなもので、メニューに掲げられた具材以外、肉や野菜が入っているわけではなかった。言うなれば、“子ども向けお好み焼き風おやつ”だった。

 水で溶いた薄力粉をよくかき混ぜ、その液状となった生地をマグカップに入れる。その上に青のり(アオサのり)をまぶす。そんなようなスタイルであった。店では、鉄板が温められている間に、“おばちゃん”がこの生地入りマグカップを用意してくれたのだけれど、それ以外の準備は、“おばちゃん”自体が面倒くさいという心情もあって、セルフサービスになっていた。厚かましく催促する我々子どもらは、“おばちゃん”に文句を言いながらも、自分達でその生地入りマグカップを畳一畳ほどの鉄板のテーブルにまで運んで持っていって待機し、ハガシや皿などの食器類も自分達で準備するのであった。

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【“イエトミのおばちゃん”が用意してくれたホーローのマグカップを再現】
 さて、そのマグカップについて。
 確かにあの頃、そのマグカップが、とても美しいと思えたのだった。これは、「駄菓子屋」で書いた文章の一部訂正事項になるのだけれど、実は当時、“イエトミ”で使用していたマグカップは、《原色の赤や青や黄で塗られたステンレス製》ではなかった。
 《原色の赤や青や黄色の》はその通りなのだが、素材は実は、ホーロー(琺瑯)製だったのである(※「駄菓子屋」のその箇所は敢えてそのままにしておき、別途注釈を追記することにした)。ちなみにホーロー(琺瑯)のマグカップは、いわゆるエナメル製のマグカップと同義であって、一般的にこれは、エナメル・マグ(Enamel Mug)と称されている。

 私が今回の再現で使用したエナメル・マグは、どうやらチェコ産のものらしい。たいへん古い時代のものかと思われるが、案外そうでもないかも知れない。カップの突端が微妙に剥げ落ちていること、全体の白色のぬめり加減がとても美しいことなどから、私はこのエナメル・マグが妙に気に入っている。絶妙な品格を保っているとさえ思う。
 “イエトミ”で使用していたマグは、国産だったか外国産だったかは分からない。しかし、数個ほどストックされていたそれらの原色のホーロー(エナメル)マグの質感は、形は違えど、鮮やかなものであったと思われる。

 乳白色の液体と、その上にふりかけられた青のり(アオサのり)。卵の卵黄は一切加えられていないから、生地が乳白色なのは、ある意味、精神衛生上とても良い。マグカップの白色の質感と、生地の乳白色との一体感は、素晴らしく衛生的で芸術的と言える。こうしてあの時も、この白さに酔い、まるで白昼夢のようなひとときを過ごしたのではなかったか。「駄菓子屋」ではこう綴っている。
《生地には卵が入っていない。だから火が通っても乳白色である。その透明な乳白色の中に、青のりの鮮やかな色が引き立つ。味は何とも不可思議というか、粘り気があり、具と油とソースの味だけで、きわめて単純であった》

 薄力粉にしては特異な、乳白色、粘り気。もしかすると、薄力粉ではなかったのではないか、とは思った――。例えば天ぷら粉では、生地の色が乳白色にはならないので違う。粘り気という観点で言うと、グルテンの含有量が12%以上の強力粉が怪しいと言えば怪しいが、強力粉のみで生地にすると、記憶に残っている生地の印象とはだいぶ異なるのだ。となると、うどん粉(中力粉)を使った可能性が高いのではないか――。中力粉の場合、グルテンの含有量が9%くらいということで、粘り気と乳白色のバランスが取れている気がする。そう言えば“イエトミ”は、駄菓子屋をやる以前に、そばとうどんとうなぎの定食屋でもあった。ならば、子ども向けのお好み焼きの生地として、うどん粉(中力粉)を使った可能性は高い。
 だがそれらはあくまで推測の域を出ない。したがって今回は、薄力粉だけれどちょっと中力粉っぽい“うどん粉折衷”の小麦粉で再現したのである。で、味は――。

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 私にとっては、本当に懐かしい、素朴な味であった。これは確かに、お好み焼きとは言えない。
 一般的な具材てんこ盛りのお好み焼きと比べると、まことに淡泊で、面白くも可笑しくもない味である。しかし、子どもの時分に味わったのは、このぬめっとした何の偽りもない素材そのままの味(うどんの麺のような?)であって、これで満腹になろうとか、遊ぶためのエネルギーをつけようとか、野菜で栄養補給しようとか、子どもへのカルシウムだのミネラルだの善玉菌だの悪玉菌だの、そういうことではなく、一切余計なことを考えていない率直な、だからこそ素朴な、言わばお好み焼き発祥の原風景としての古代巡礼――だったわけである。“イエトミのおばちゃん”はまさしく古代ローマの女神であったというのか。私はこの“イエトミ”のお好み焼きで、その味の素朴さを、「蒼茫の品」と言いくるめて飄々とヘルシーを謳うつもりは毛頭ないわけである。

 これは昨年12月に投稿した「小学館の学習雑誌の思い出と未来へのファンタジー」でも、暗に少し触れていることだけれど、子ども相手の雑貨屋さんや駄菓子屋さんというのは、単に子ども向けの商品で商いをしているというだけではなく、そこに子どもらが居て、ファンタジーに溢れた憩いの場所であること、また子ども同士のコミュニケーション・センターでもあり、店主である大人がわずかに介在しながらも、社会と経済の小さな円環を担っていたこと――などで、子どもの発育の一助になっていた面があったのではないかと思うのである。ひっくるめるとそこは、子どもらにとってエンターテイメント(娯楽)でありつつ、コンフォート(安楽)とインタラクション(交流)が基礎にある「庶民派salon」だった、ということである。

 むろん、例外的には、そうではない駄菓子屋もどこかにあったのだろう。しかし、少なくとも私が経験したかつての雑貨屋や駄菓子屋は、「庶民派salon」であったからこそ、子どもらが集う付加価値の要素があったのだ。
 子ども時代の眠っていた情感は、それから長い大人時代の最果てに向かって、にわかに甦ってくるものなのである。“イエトミのおばちゃん”を語る人は、もう誰もいない。あの素朴なお好み焼きを語る人は――誰もいない。無性に淋しいことではあるが、“イエトミのおばちゃん”は夢を与えてくれていたのだった。

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