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プディング妄想そしてプリン三昧

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芸能人の不倫ほど、食えないものはない。見苦しく、おぞましく、その非難の惨状を取り繕うのに必死な当事者は、家庭人としての体裁と社会への扉があっけなく閉じられようとする瞬間に、己の貧相と終始向き合わざるを得なくなる。  そうした人間の醜さゆえに不倫という。またそれが、仰々しくも侘びの沙汰――出会ってしまったが為の逃れられぬ恋慕――の身の上に生じた不倫であれば、どこか文学的で暗がりの野良猫の徘徊にも似た悲哀が感じられ、人間は所詮善人ではなく、そうした愚かな過誤を一生のうちにふと一度か二度、犯しかねないものである――という諸説入り乱れる含蓄と啓蒙に富んだ、近世の西洋人の警句のたぐいを思い返したりして、例えばまた、そういう調子の映画(堀川弘通監督の映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』)を観たりして、人生の破滅的な断罪やら教訓を反面教師的に心に打ち付けることができるのだけれど、その不倫の現場が――とあるビルディングの地下駐車場の“多目的トイレ”となると――あまりに異様な、とても文学的と称するわけにはいかなくなるのである。
 ここでいう文学とは、純文学のことである。つまり、“多目的”=multi-purposeの意味を履き違えた異形の不倫というよりは、単にお互いが、“もよおして遊ぶ”キュートなフェティシズムの乱遊に興じていたに過ぎなかったのではなかったか。この性癖には、近世のインテリジェンスな西洋人も、言葉を失って頭を抱えてしまうであろう。
 不倫。あちらこちらの小学生がついつい、学校でこんな不謹慎な話題を持ち出しかねなかった。「あのさ、多目的トイレでフリンって、結局、トイレで何すんの?」――。彼らは思春期の余りある好奇心をたえずくすぐられている。性欲の快楽に関する疑問に、半ば騒然とする心持ちを抑えつつも、おもむろに図書室へ行って、厳かに古びた国語辞書を手に取るに違いないのであった。また知性ある女子は、そんな男子の興味本位な話題にはつゆほども関心を示さないふりをしつつ、家に帰ってから、その漠然としたモヤモヤ感を払拭しなければならなかった。その最適な所作として、自身の勉強机の隅に置かれた国語辞書(誕生日に買ってもらったりしたことを思い出しつつ)を、開くであろう。――フリン。そこにははっきりとこう記されているのだ。 《既婚者が、別の相手と性的関係を結ぶこと。【類】密通・姦通・…

世界の縁側―WWWの茫々たる世界

【尾島由郎氏の連載コラム「世界の縁側」】
 語りませう――。あの頃、ミッチェル・フルームとエンジニアのチャド・ブレイクが縁故深いスザンヌ・ヴェガの新作アルバム『欲望の9つの対象』(“Nine Objects Of Desire”)を手掛けたというので猛烈に聴きたかったし、少年ナイフっていったいどんなの? とか、ごく有り体に槇原敬之に関心を持っていたりとか、TASCAMのDA-88がレコーディング業界を席巻していたこと、重さ約10kgの筐体のAKAIのサンプラーCD3000XLに憧れていたり、ジョージ・マイケルのプロダクト・チームがOTARIのRadarを使っているのに随分と関心を持ったり、さらに述べれば、808ステイトのグラハム・マッセイが、自身で所有していたCASIO FZ-1を以前手放してしまっていたからもう一度所有したい、誰か売ってくれえ――というすべてがマンガ的な世界観で満ち溢れていた20代半ばのその《夢》と真逆の《現実》とを往来していた生活が、ラヴロマンスのように儚く、無性に懐かしい。
 つまり、金は無いのであった。だから、スザンヌ・ヴェガが新作の中でどのようなふるまいをしていたかはまったくもって想像するしかなかったし、OTARIのRadarで作り上げたジョージ・マイケルの『オールダー』(“Older”)を聴くことができたのは、もっと先の後年になってからであった。ちなみに、808ステイトを脱退したマーティン・プライスの悲喜劇あたりのことは、脳内のどこをつついても思い出すことはできないけれど、もしかすると20歳になるかならないかの時に、実は小耳に挟んでいたことだった――のかも知れなかった。

§

 リットーミュージックの月刊誌『Sound & Recording Magazine』の1996年9月号では、音楽プロデューサーの尾島由郎氏が連載していたコラム「世界の縁側」の第7回目にあたり(当ブログ「世界の縁側―幻のNetsound」参照)、WWW上のあるサイトを、ゆるゆると紹介していたわけである。第7回のタイトルは「Music for World-Wide-Web」。そのサイトで当時入手できたとされるアプリに、今頃になってようやく、私の関心が鋭敏に及んだ――。
 ちなみにこの時、尾島氏がWWWの“回遊”に使用したのは、ネットスケープコミュニケーションズのブラウザNetscape Navigatorで、巷でこのブラウザは“ネスケ”と称されていたりした。1996年当時、私はまだ24歳で、WWWの茫々たる世界を覗いたり触ったり舐めたりすることもできなかった身分であったから、こうした尾島氏が試みていたWWWの“回遊”(別称これをネット・サーフィンとも言うが、イメージとしては、遊園地であちこちの奇天烈な乗り物に乗りまくるような破廉恥な行為に近い)のように、十把一絡げになんでも面白がったあの時代、私自身はそのコンピューターの向こう側を知ることは、物理的にできなかったのである。それは、自ら経験した少年時代の8ビット・パソコンの世界とはまったく別個のものであった。

【「Koan Pro」エディット画面及びSSEYO社サイト】
 尾島氏は、そのアプリが“Windowsでしかリリースされていなかった”ということから、Macintoshのシステム内でわざわざWindowsエミュレータを稼働させ、Netscape Navigatorを使ってそのサイトにアクセスし、アプリを入手したのだった。尾島氏が述べるに、そのアプリを入手することは、音楽プロデューサーとして《背徳の行為》にあたるとか何とかで、私の関心度もさらに高まったのだけれど、この英国のSSEYO社が開発した音楽アプリ「Koan Pro」について、尾島氏は以下のように雄弁に解説している。
《演奏する度に姿を変えて音楽を生成してくれるユニークなソフトです。「シンプルなフレーズがゆっくりと姿を変えながら、いつ果てることなく鳴り続ける」といった類の音楽を生み出すのにうってつけなKoan Proは、ブライアン・イーノが「ジェネレーティブ・ミュージック(その場で生成される音楽)」と賞賛し、同タイトルの作品集をKoan Proのデータ形式で発表したことでも察せられるように、アンビエント・ミュージックを制作するのに理想的なツールです。しかもコントロールできるパラメーターが豊富なので、この種のソフトにありがちな「だれが使っても同じ状態」に陥らず、差異のあるオリジナルな音楽を作り出すことができます》
(『Sound & Recording Magazine』1996年9月号、尾島由郎著「世界の縁側」より引用)

 当時の「Koan Pro」もしくはジェネレーティブ・ミュージックに関しては、現在、開発者(Tim Cole & Pete Cole)が引き継いでいるIntermorphicのサイトが詳しい(https://intermorphic.com/sseyo/koan/)。また昨今、「Koan Pro」について解説したYouTube動画も観ることができ、簡便に疑似体験できるので、興味ある方は検索してみていただきたい。
 どうやらこのアプリは、パソコンのサウンドボードの“GM音源を鳴らす”プログラムとなっていたようだが、YouTube動画を観る限りにおいては、いわゆるアンビエント・ミュージックに加担する《背徳の行為》をさらけ出すというよりはむしろ、コンピューターの規範的なふるまいのアングルにカテゴライズされる動作であって、作曲者(この場合はコンピューターとの共同作曲者ということになろうか)がそのコンピューターの意図しない不条理にゆらぎ、なおかつ敬虔に美しいサウンドを自動性をもって有機的に奏でるのを番人として聴き惚れる――というほどのクオリティには至っておらず、どこかメルヘンチックで微笑ましい。ところが現在、「Koan Pro」は現況、新しい「Wotja」(https://intermorphic.com/wotja/)というアプリに進化しているようなので、尾島氏の当時の着眼点はまったく素晴らしく、敬意に値するものである。

§

 今でこそ、全世界の誰しもが、当たり前のように日々活用しているWWW。そのWWWの黎明期とも言える茫々たる未開の世界に旅立ち、ミュージック・クリエイトのカテゴリをいち早く先見し、誌面に開け放った尾島氏の愚直かつ勤勉なる態度に、まことに僭越ながら敬服せざるを得ないのだ。私自身、あの頃、まったく何のことかさっぱり分からなかったWWWの黎明期の表象でありながらも、今こうして可逆的に温故を知新し、その何たるかを嗅ぎ当てようと試みているのだから、時代の流れは不可思議なものである。

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